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2013年1月6日 顕現主日 「賢者の来訪」

マタイによる福音書2章1〜12節
高野 公雄 牧師

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書2章1~12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン


12月25日から12日間の降誕節が終わり、1月6日から顕現節という新しい季節が始まります。「顕現節」とは、イエスさまが世の救い主メシアであると明らかに示されたことを祝う季節です。今週は東の博士たちの礼拝によって、来週はイエスさまが洗礼を受けたときの「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天の声によって、メシアであるイエスさまの到来を祝います。今年は1月6日がちょうど日曜日になりましたが、そうでない年には、1月2日以降の最初の日曜日に顕現主日を祝います。

《イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。》

イエスさまがユダヤのベツレヘムでお生まれになったことは、クリスマスにルカ福音ですでに聞きました。ルカ福音では、その誕生は皇帝アウグルトゥスのときのことであったとありましたが、マタイ福音では、それがヘロデ王の時代のことだと言います。このヘロデ王はアウグストゥスに取り入ってパレスチナ一帯の王として取り立てられたヘロデ王家の創始者であって、ふつうヘロデ大王と呼ばれます。権力の座に長くとどまった大変に老獪であるとともに残忍な支配者でありました。この王が33年間統治して紀元前4年に死ぬと、領土は3人の息子に分割されます。イエスさまが活動したガリラヤ地方とヨルダン川の東側のペレア地方はヘロデ・アンティパス(マタイ14章1)が治め、ヘロデ・フィリポ(マタイ14章3)がガリラヤの東のトラコン地方と北のイトラヤ地方を治めました。サマリア・ユダヤ・イドマヤはヘロデ・アルケラオ(マタイ2章22)に配分されましたが、悪政のために流刑に処せられ、以後、ローマから派遣された総督が直轄することになりました。ポンティオ・ピラトは5代目の総督です。

「占星術の学者たち」と訳された言葉の原語はマギ、単数でマゴスです。マギは、メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人を指します。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われ、そのためにマギはマジック(魔術)の語源となりました。しかし、彼らは当時の最高の知識人であり、「博士」とも訳されます。いまでこそ、天文学astronomyと占星術astrologyははっきりと別物ですが、当時は、天体を観察することと、そこから運勢を読み取ることはひとつでした。

《ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。》

まず、星の運行のことですが、当時の記録によると、魚座で木星と土星との接近が観測されています。当時の占星術では、木星は世界の支配者の星、魚座を終末時代のしるし、土星はパレスチナの星と考えられていました。木星が魚座で土星と出会うなら、それは、パレスチナで終末の時代の世界支配者があらわれることを示しています。

また、「ユダヤ人の王」という表現は、メシア王すなわち神によっていつかイスラエルに与えられると約束されていた救い主である王を意味します。東方の博士たちは、メシア王の星が昇るのを観察し、その王に拝謁するためにはるばると旅に出ました。彼らは星の導きによってエルサレムまで来ることができました。メシアは王子として王宮に生まれると思ったのかもしれません。彼らは王宮を訪れましが、そこには尋ねるお方はいませんでした。実は、エルサレムからベツレヘムまでは南にあとわずか7KMの近くまで来ているのですが、そこから先は聖書の専門家に尋ねることが必要でした。

この「星の導き」を比喩として読むことができるでしょう。友人の誘いとか、教会が近くにあるとか、子供がミッションスクールに入ったとか、三浦綾子さんの小説を読んだとか、ホームページを見たとか、星の導きはいろいろの仕方がありうるでしょう。それは私たちをイエスさまの近くまで導いてくれますが、イエスさまと人格的に出会うことは、聖書の説き明かしを通してしか起こりえません。東方の博士たちが彼らの知見だけではイエスさまに会えなかったのは、そのことを示唆します。クリスチャンの人生は、聖書のみ言葉によって導かれる旅路です。迷いや不安の中でで、み言葉を信じて歩むのです。

《これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」》

はたして、聖書の専門家はメシアの誕生の地を知っていました。それは、旧約聖書ミカ書5章1にありました。《エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。》マタイの引用と微妙な異同がありますが、それは代々のクリスチャンが伝承する間に生じたものでしょう。

《そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。》

このヘロデの言葉は下心を秘めたものです。彼はイエスさまを自分の主として仰ぐ気はなく、むしろ自分の身を危うくする敵と見て、これに続く物語では、イエスさまを抹殺しようと、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにするよう命じています。

メシアの誕生ということは、罪と闇の世を救うために神自らが乗り出したことを意味しています。この神の直接介入は、東方の博士たちのように歓迎するとは限りません。ヘロデやエルサレムの住民のように、無視または排除しようとする反応も起こります。神の救いを待ち望んでいたはずのユダヤ人が、いざメシアがお生まれになったと聞いた時、なぜ喜べなかったのでしょう。それは、「あなたはそれで良いのか」と問われ、今の自分が揺さぶられるからだと思います。他者の干渉なしに気ままに自分の生活を形作ろうとするのが私たちの悲しいさがです。神の介入は要らぬお世話であり、不安の種です。マタイは救い主誕生に対する異邦の博士たちと自国の王の対応を対比させて、私たちにイエスさまを迎え入れて、救いの喜びを得なさいと勧めているのです。

《彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。》

博士たちは遠路はるばる旅をして、ついに幼子イエスさまを尋ね当てます。喜びにあふれて、み子の前にひれ伏し、持参した宝物を献げます。献げ物は、身も心も献げるという証しです。博士たちは宝の箱を空にしましたが、もっとすばらしい宝物を、喜びの基をいただいたのです。イエス・キリストによる救いです。それまで、彼らの宝の箱に入っていたのは、財産とか地位とか名誉とか才能とか家族とか健康といったものだったでしょう。それらは、私たちの人生を支える大切なものです。けれども、それらを失ってもなお私たちを支え導いてくれるものがあります。それがイエス・キリストによる救いであり、それが喜びの基です。

そしてそこから、新しい人生の旅が始まります。「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあるのは、エルサレムとヘロデ王の城に戻るのではない別の道という地理的な意味だけではありません。神を知らない人生から、神を信じ、神と共に歩む別の人生を歩き始めたことを言うのです。どんなことが起ころうとも、イエスさまが先立って私たちを導いてくださいます。新しい年、新たな歩みを始めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月30日 待降後主日

ルカによる福音書2章25〜40節
高野 公雄 牧師

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

この僕を安らかに去らせてくださいます。

わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

ルカによる福音書1章25~40節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週クリスマスを祝ったあとの、きょうは今年最後の主日礼拝となりました。教会の暦では降誕後主日といいます。この日にはイエスさまの年少時代の記事を読む習わしになっており、カトリック教会では聖家族の主日と呼んでいます。聖家族とは、幼子のイエスさまと父ヨセフと母マリアの三人を指します。

今年は、ルカ福音2章の赤ちゃんイエスさまのお宮参りの記事が選ばれています。ルカ福音は、これまで洗礼者ヨハネとイエスさまの物語を交互に書いてきましたが、この物語からは、イエスさまひとりに焦点をしぼって語られるようになります。

《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》(21節)。きょうの福音の前に、こう記されています。ヨセフとマリアは信仰の篤い親として律法の決まりのとおりに、イエスさま誕生の一週間後に割礼を施し、天使の命じた名を付けます。律法にはこう定められています。《イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない》(レビ12章2~4)。

《さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った》(22節)。

上記レビ記12章のとおり、清めの期間は7日プラス33日で40日間です。それで、昔はヨセフとマリアがイエスさまを伴って神殿に上る出来事は、12月25日のちょうど40日後にあたる2月2日に祝われていました。

清めのための献げ物については、こう定められています。《男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる》(レビ12章6~8)。本来は雄羊一匹と鳩一羽を献げるのですが、貧しい者は、鳩二羽に代えることが認められていました。

聖家族がお宮参りをしたのは、マリアの清めのためだけでなく、イエスさまを主に献げるためでもありました。そのことをルカは、《それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである》と説明しています。これは、《すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである》(出エジプト13章2)を自由に引用したものでしょう。

主に献げるといっても、動物の初子と違って、人間の赤ちゃんはいけにえにするのではありません。銀貨五シェケルを祭司に支払って自分たちの長子を贖い出すのです。《人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一か月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う》(民数記18章15~16)。1シェケルは4デナリオンに相当すると言われますから、初子の身請けに10万円以上かかったようです。

《シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。》

きょうの福音は、ここから始まりますが、聖家族は上記のような律法の定めにしたがって神殿にやって来ました。一方、メシアを持ち望んでいたシメオンとアンナも、霊に満たされて神殿に入って来ました。そして、ちょうどタイミング良く両者が出会います。シメオンは幼子を腕に抱き、アンナもそばにきてイエスさまを礼拝します。とつぜんシメオンとアンナが登場しますが、二人は神の約束を信じて、救い主の到来を待ち望んでいたイスラエルの善男善女の代表として描かれているのでしょう。

《主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。》

私たちは23日の礼拝で安藤先生の指導によって「やわらかくこの胸に」を歌い、マリアやヨセフになった思いで幼い命が与える温もりを受けとりました。シメオンも幼子イエスを抱きかかえ、神をたたえて歌います。この賛歌は、ラテン語の最初の二語をとってヌンク・ディミティス nunc dimittis(「今こそあなたは去らせてくださいます」という意味)または日本語で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。この賛歌は、カトリック教会では「寝る前の祈り」の福音の歌として毎日となえられているものですが、私たちのルーテル教会では礼拝の終わりの部分で毎週歌われます。

そして、きょうのように、一年の最後の礼拝でも読まれます。確かに「今こそあなたは去らせてくださいます」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年末の礼拝を守りましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在でありますので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。救い主を信じ、滅ぶべき自分の受容を必要とするとするのは、シメオンやアンナのように余命の短い老人に限られるものではありません。それは、人生の盛りの時を過ごしている者であっても目指すべきことです。そこにこそ、本当に幸せな、充実した人生があると思います。なぜなら、この言葉は、どのような思いを抱いて死ぬかというよりも、むしろどのような思いを抱いて生きているかを語っている言葉であって、なにもこう言ったからといって別にすぐに死ななくてもよいのです。このような安らかな思いを抱いて生きることができるかどうかこそが、私たちの人生の課題であると言えるでしょう。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。これは「論語」にある孔子の言葉で、注によると、「朝、道(事物当然の理)を聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでもいい」という、求道への熱情の吐露だということです。シメオンもアンナも、満足できる幸福な生活を送っていたからこのように語ったり、神を賛美することができたのではありません。シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた、と25節にありますが、シメオンもアンナも、慰めと救いがない状態の中で、長くそれを待ち望みつつ、忍耐しつつ生きてきたのです。その慰めが、救いがようやく与えられた時に、アンナは神を賛美してそのことを人々に伝えたし、シメオンは「いま、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のために、お備えになられたもの、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です」(ルーテル教会式文)と喜びをもって歌ったのです。

私たちは、さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしています。そうした厳しい現実の中で、歴史の終わり・私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を、きょうの福音をとおして与えられています。そして私たちはすでにそれを得た者として、喜びの歌を歌うことができるのです。思いを新たにし、そこに心をしっかりと定め、心安んじて、主のご用のために働くものでありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月23日 待降節第4主日 「マリアのエリサベト訪問」

ルカによる福音書1章39〜45節
高野 公雄 牧師

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

ルカによる福音書1章39~45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

アドベント・クランツのローソクが四本点灯しました。待降節が四週目に入り、今週、クリスマスがやって来るしるしです。と言っても、もう明日がイヴです。私たちは今日の礼拝のあとクリスマス祝会をするのですから、日にちを逆にして祝うことになります。

四週目には毎年、イエスさま誕生の直前の出来事を読むことになっていますが、今年はマリアのエリサベト訪問が選ばれています。この聖書個所を味わうことをとおして、クリスマスを迎える喜びとその準備について教えていただきましょう。

ルカ福音の1章では、まず洗礼者ヨハネの誕生を天使が祭司ザカリアに予告し、次にイエスさまの誕生をマリアに予告します。そして、このマリアの訪問の記事によって、二つの予告が一つの話につながります。

《そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。》

「そのころ」とは、マリアさんが天使ガブリエルからイエスさま受胎を告げられて、それを謹んでお受けした、また叔母のエリサベトの懐妊を教えられた出来事から「間もなく」ということです。マリアは天使のお告げを受けると間もなく、エリサベトを訪問します。

マリアはガリラヤ地方のナザレ村に住み、エリサベトはユダヤ地方の村に住んでいます。イスラエルの伝承では、父祖ヤコブの十二人の息子たちが十二の部族の元になったのですが、その内のユダの子孫たちが住んだ地方がユダヤと呼ばれます。人名ユダを地名に変えるとユダヤとなります。ガリラヤからユダヤまでは四日間の旅だといいます。マリアにとってはかなり大変な旅だったことでしょう。この同じ旅を、後にはいいなずけのヨセフとともに住民登録をするために繰り返すことになります。

伝承によると、ザカリアとエリサベトが住んでいた村、つまりマリアが尋ねて行き、洗礼者ヨハネが生まれた村は、エルサレムの南西8KMにある村エイン・カレム Ein Karem(「ぶどう園の泉」という意味)だと言われます。史実である証拠はありませんが、その村にはマリア訪問を記念する教会や洗礼者ヨハネを記念する教会が建っているそうです。なお、銀座にあるキリスト教書店「教文館」の四階の雑貨売り場はこの村の名をもらって「エインカレム」と名づけられています。

《そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。》

マリアがエリサベトのところへ行ったのは、《あなたの親類のエルサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女なのに、もう六か月。神にできないことは何一つない》(1章36~37)、と天使のお告げを受けたからです。会いに行った動機については、いろいろな解釈がありますが、身ごもったことが露見しないように避難したのだとか、天使が告げたことの真偽を確かめに行ったのだという見方は、当たらないでしょう。マリアはすでに敬虔に《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)と天使に答えていますから。ほかの見方として、マリアは自分の身に起こったことを同様な経験をした伯母さんに相談しに行ったのだ。高齢の伯母さんの手伝いに行ったのだ。お祝いを言いに行ったのだ、などなど。これらは皆それなりに当たっているでしょうが、聖書は、神から特別な務めを託された二人の女性が出会うことと、その交わりの大切さを伝えたかったようです。

1章24に《エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた》とありました。彼女は不思議な体験をしましたが、それを分かち合う相手が見つかりません。マリアもまた、天使から告げられた言葉を誰にも説明できなかったでしょう。二人は互いに自分の身に起こったことを話し、分かってもらう相手を必要としていました。マリアはエリザベトを助けたいという気持ちと、自分もまた話を聞いてもらい、分かってもらうことで助けてもらいたいという思いから出かけたのだと思います。

「その胎内の子がおどった」とは、マリアの訪問を受けた大きな喜びだけでなく、胎内の子の動きはその子の将来に対する神の意思をも表しています。故事としては、創世記25章に、エサウとヤコブが胎内で押し合いましたが、それは「兄(年長者)が弟(年下)に仕える」ことを表わしました。ここでも、年長のエリサベトが年下のマリアを敬うことを、そして年長の洗礼者ヨハネが年下のイエスさまを敬うことになることを示しています。

《エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」》

このように天使のお告げをうけて子供を宿した二人が出会います。エリザベトは子を宿したためらいをマリアに理解してもらって喜びました。マリアは天使に答えた生き方について、「主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とエリザベトの賞賛を受け、理解されました。マリアの小さな確信はエリザベトの祝福によって確かなものとなり、大きなものとなります。ここには、人と人との最高の対話が成り立っています。伝えたい気持ちが十分に理解され、お互いに喜び合う姿です。

「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」、とドイツの詩人・劇作家シラーが言いました。一つの幸せを、二人で喜べば、幸福感が共鳴して大きくなります。また、問題を共有し、協力し合えば、負担は軽くなります。聖書も、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマ12章15)と勧めています。

神に対する共通の想いを交わし、その不安や期待を共有することほど喜ばしいことはありません。人は、一人では生きられません。自らの確信や不安を隣人との交わりの中で交流させ、そこに共通の意味を見いだすとき、それは、大きな喜びとなって人の心を満たすのです。信仰者である兄弟姉妹の交わりにおける、この分かち合いこそが、教会の意義です。この分かり合いのために、私たちは毎週、礼拝に集い、共々に祈りと賛美を献げ、み言葉に聞くのです。

なお、エリサベトの冒頭の言葉「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」ですが、「女の中で祝福された方」は最上級を表わす表現方法です。つまり「女の中で最も祝福された方」を意味します。また「胎内のお子さまも」という表現は、マリアさんが祝福されているので、二次的にイエスさまも二次的に祝福されている、というふうにも読めますが、実際はイエスさまが祝福された方だからこそ、その方を宿したマリアも祝福されているのです。

 

先週聞いた《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38)というマリアの信仰の言葉、今週聞いた《主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》というエリサベトの信仰の言葉は、この季節に私たちが深く心に留めて、導きとすべき言葉です。私たちもまた神さまの救いの約束を信じて歩む者でありたいし、クリスマスにはその約束の到来を期待と喜びをもって迎えたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年12月16日 待降節第3主日 「マリアへのお告げ」

ルカによる福音書1章26〜38節
高野 公雄 牧師

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書1章26~38節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の福音はルカ3章の初めの部分から、洗礼者ヨハネの活動とイエスさまがヨハネから洗礼を受ける出来事を読みました。それがイエスさまの活動の始まりであり、ルカ福音の本論の始まりでした。その前に置かれているルカ1~2章は、本論に入る前の序言であり、イエスさまの公生涯を読む者に心備えを与える役割をもっています。旧約聖書の雰囲気の濃い、ヨハネとイエスさまの誕生の話でもって、新約聖書への橋渡しをしています。

《六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。》

六か月前の出来事は、この前の段落に記されています。天使ガブリエルが祭司ザカリアに現われて、年老いた妻エリサベトが男の子を産む、その子をヨハネと名付けなさいと告げたのでした。

天使ですが、ヘブライ語でもギリシア語でも、「使者」とか「伝令」という意味の言葉です。旧約聖書でも初めは、神が人に現われたときの仮の姿を指しており、神さまと同一視してよいものでした。しかし、後に、バビロン捕囚の中でオリエントの宗教の影響を受けて、次第に神と人との仲立ちをする霊的な存在とみなされるようになりました。神の化身としての使者でなく、天使という固有の存在と認められ、ガブリエルとかミカエルとか名前をもつようになりました。キリスト教でも初期には、天使は翼をもっていなかったのですが、後に持つものとイメージされるようになりました。天的存在であり、天と地を往復する彼らの務めから生じたイメージでしょう。

天使ガブリエルがナザレの町に遣わされ、神の言葉を伝えます。イスラム教でも、預言者ムハンマドに神の言葉である『クルアーン』を伝えたのはガブリエルであり、このために天使の中で最高位に位置づけられています。

《ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」》

天使はナザレの町のおとめマリアのところに遣わされました。当時の社会の通例から、マリアは10代前半の少女だったと考えられます。婚約者のヨセフは、ここではただ、生まれる子がダビデ王家に連なる者であることを示すために登場します。

この天使の言葉は、「アヴェ・マリアの祈り」に採りいれられています。カトリック教会によるこの祈りの公式口語訳はこうです。「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン」。

「おめでとう」と訳された言葉カイレを、フランシスコ会訳聖書は直訳して「喜びなさい」と訳しています。しかし、この言葉は挨拶として日常的に用いられる言葉なので、岩波訳聖書では「こんにちは」と訳されています。公式口語訳の祈りでは訳されず、「アヴェ」とラテン語の挨拶の言葉がそのまま用いられています。聖書には、呼びかけの「マリア」という名はありませんが、補足の言葉として付け加えられています。

「主があなたと共におられる」、この天使の言葉は、非力な少女マリアが神の救いの器として用いられるとき、神が助けてくださることを約束する言葉です。

《マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」》

マリアは天使の出現に戸惑うばかりだったことでしょう。そこで、天使は神からの伝言を伝えます。マリアが恵まれているのは、彼女が身ごもる子が、ダビデの王座を継ぐ神の子だからだと言います。伝言の中心は、マリア自身ではなくて、マリアから生まれるイエスさまだったことが分かります。

《マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」》

マリアは天使に、自分はまだおとめであるから、身ごもることなどありえないと疑義を呈します。天使はそれに答えて、神の霊が、つまり神の力があなたに降って、そういうことが実現するのだと説明します。そして最後に、神信仰の基本中の基本である信条「神にできないことは何一つない」をマリアに説きます。信仰とは、神さまの力、愛、信実に対する信頼にほかなりません。同じ言葉が創世記18章14に記されています、《主に不可能なことがあろうか》。高齢になっても跡継ぎができないアブラハムとサラの夫婦に、神が男の子の受胎を告知した場面での言葉です。

《マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。》

マリアは深く頭を垂れて神さまの言葉を受け入れます。クリスマスを間近にひかえて、私たちはきょう、このマリアの答を深く味わいたいと思います。

マリアの「わたしは主のはしためです」という言葉ですが、これは、「どうせ自分は奴隷なのだから、主人がどんな無理難題を言おうが、逆らうことはできないし、唯々諾々と従うしかない」というような自嘲の言葉ではありません。「自分は神の奴隷だ」ということは、神の強さと自分の弱さ、神の高さと自分の低さを素直に認めるだけではなく、その神さまが弱きを助け、低きを高めてくださる慈悲深いお方であることに依り頼む者だと言っているのです。このマリアさんの信仰は、私たちすべての模範とすべきものです。

私は、宗教改革者マルティン・ルターの言葉を思い出します。それは、ルターが死の二日前に書き残したメモ「私たちは神の乞食だ」という言葉です。すべてのものを神からのみ与えられて、それのみに頼って生きていく、与えられた一つひとつに感謝して生きていく、一日一日を生きていく、そういうルターの信仰の姿勢を表わす言葉だと思います。

次は、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉です。マリアは神さまから負いきれない重荷を背負わせられることになりました。おとめが身ごもって男の子を産むなどとは、マリアにとってまったく受け入れがたいことです。しかし、神の信実にすべてを委ねる生き方に徹しようと答えました。

イエスさまもオリーブ山の西麓ゲツセマネの園で祈りました、《父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください》(ルカ22章42)。私たちも日々祈っています、《御心が行われますように、天におけるように地の上にも》(マタイ6章10)。この「成りますように」「行ってください」「行われますように」は同じ言葉が使われています。

「お言葉どおり」とか「御心のままに」とは、どうあがいても仕方がないことは、あるがままに平静に受け止めようということだと思います。英語のことわざにも「人生は10パーセントは自分でつくり、90パーセントはどう受け止めるかだ」とあります。知恵ある言葉だと思います。以前にも一度引いたことがありますが、ニーバーの祈りを祈って、きょうの説教を終わります。

平静な心を求める祈り ラインホールド・ニーバー作

神よ 変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。アーメン。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン