カテゴリー Archives: 説教

2011年6月19日 三位一体主日 「三位一体の神」

マタイによる福音書28章16〜20節
説教:高野 公雄 牧師

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイによる福音書28章16〜20節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうは三位一体の主日という特別な祝日です。どういう意味で特別かと言いますと、教会の暦はイエスさまの生涯における特定の出来事を記念し、お祝いするようにできています。私たちはきょうまで半年間、メシア到来の予告、イエスさまの誕生、命名、東方の博士たちの来訪、ヨルダン川での洗礼、受難の予告と十字架上の死、復活、昇天、聖霊降臨と暦をたどってきました。その歩みも終わりまして、きょうはイエスさまの特定の出来事ではなく、イエスさまの生涯、死と復活、そして聖霊降臨を祝ったあと、これらすべての出来事を振り返ってみて、父と子と聖霊なる神さまの働き全体を顧みて、いったい神さまはどういうお方なのか、三位一体の神であられるということを覚え、祝います。

ふつう、私たちはまずは、イエスさまは昔の預言者のように人々に「神に立ち帰れ」と宣べ伝える人だと思って聖書を読んでいます。しかし、イエスさまの言行を通して神を知るほどに、そのイエスさまと神とが一体であることに気づいてきます。つまり、神ご自身が人となってこの地上に降り立ってくださった、イエスさまとはそういう方なのだと信じるようになります。これが、キリスト教信仰の始まりです。では、イエスさまが私たちの視界から消えたあと、どうなったかと言うと、神の霊、復活したイエスさまの霊が、私たちひとりひとりの上に降り、聖書に書かれたイエスさまの言葉を、私自身に語りかけてくる、いま生きている言葉として聞けるように心の耳を開き、またイエスさまがいつも私と歩みを共にしてくださっていることに心の目を開かれるのです。神さまは、イエス・キリストを通してだけでなく、聖霊を通してもまた、私たちを守り導いてくださる、このことを記念し祝うのが、きょうの三位一体の祝日なのです。

聖書には、「三位一体」という言葉こそありませんが、第二朗読Ⅱコリント13章13には《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように》とあり、きょうの福音マタイ28章19以下には《彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》とあるように、神が三位一体であることを表す表現は存在します。そう考えると、きょうの第一朗読イザヤ6章3に《聖なる、聖なる、聖なる万軍の主》と、「聖なる」が三重に唱えられているのも三位一体を暗示している表現と受けとめることができるように思います。

二千年前に地上で30数年を過ごされた歴史上のイエスさまが、いまや神の座に着いている天上のキリストとして信仰の対象となっている、それがキリスト教です。イエス・キリストと日本語ではイエスとキリストが中黒「・」で結ばれているのですが、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」がどのように結ばれて一つであるのか、これはキリスト教の歴史が始まって以来の難問でして、今に至るまで盛んに論じられていますが、いまだに論じ尽くされることがありません。それは、牧師になろうとしていた私にとっても一番納得しにくい、理解できないポイントでしたので、神学校の卒業論文のテーマに選んで勉強しました。論文は中間報告としか言えないような代物でしたが、その当時自分なりに納得したことをまとめました。

イエスさまの直弟子たちによってキリスト教伝道は始まりましたが、しばらくはローマ帝国に信仰を禁じられた迫害の時代が続きます。しかし、その間もキリスト教はじわじわと浸透し続け、ついに313年に皇帝コンスタンチヌスは「ミラノの勅令」によってキリスト教を公認します。その後、彼はローマ帝国の広大な全領土を統一すると、あまりにもばらばらなキリスト教を統一することを目指して、325年にニケア、今のトルコのイスタンブールの近くに帝国内のキリスト教指導者を集めて会議を開きます。318人の司教が集まったと伝えられています。

このニケア公会議では、復活祭の日取りを決めたり、迫害時代に一度棄教した者の復帰のさせ方を決めたりしましたが、イエスさまの身分を確定することも大きな議題でした。当時、キリスト教は公認されたばかりでしたが、イエスさまの身分については、父なる神よりも一段低いという主張が広まっていたのです。それに対して、この会議は、神は三位一体であることを定義する「ニケア信条」を採択しました。私たちが聖餐礼拝を行なうときに唱えているニケア信条は正しくはニケア・コンスタンチノポリス信条というものであって、ニケア公会議の定めた信条に後の会議が加筆したものです。それはともかく、ニケア信条では、イエス・キリストは「神の神」であって「父と同質」であると定められました。これを受け入れる者が正しい信仰を持つ者であり、これを受け入れない者は異端として信仰者の群れから排除されることになりました。

公式的には、この定めはいまでも有効です。皆さまはキリスト教のパンフレットなどで、欄外にこう但し書きがあるのを目にしたことがあると思います。「私たちは正統的な教会であって、ものみの塔、モルモン教、統一協会とはまった関係ありません」。この文章は、ここに名を挙げた宗教はニケア信条の定める信仰箇条を受け入れていない、したがって正統的なキリスト教ではない、ということを宣言しているのです。

キリスト教は、ルーテル教会の他にも、カトリック教会、聖公会、日本基督教団、バプテスト教会などなど、いろいろな教派に分かれています。けれども、これらの教派は、三位一体の神を信じるという一番大事な点では一致しており、先ほど名が挙がったようなキリスト教系の新興宗教とは信じる中身に大きな違いがあります。

イエス・キリストの身分については、キリスト教の歴史を通じて、たえずニケア信条とは異なった理解が現われ、繰り返し分派活動が起こります。それで、キリスト教会は昔から礼拝式文の中に三位一体の教えを組み込み、礼拝するたびに繰り返し唱えることによって、礼拝する者の頭にも心にもこの理解が定着するように式文を整えてきました。あまりに身近すぎてふだんは気づかずに素通りしているかも知れませんので、きょうはご一緒に式文を検証してみましょう。

まず、礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祝福の言葉でもって始まります。そして2頁、讃美唱は必ずグロリア・パトリを付けて唱えます。「父、み子、み霊にみ栄え、初めも今も後も、世々に絶えず。アーメン」。3頁、グロリア・イン・エクセルシスの第8段「主(キリスト)は、聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに(います)。アーメン」。同じ頁の特別の祈りの結び「あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。ただし、これは緑の季節には「み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」という短い形を使うこともできます。続いて、5頁の信仰告白、ニケア信条でも使徒信条でも「全能の父である神を私は信じます」、「主イエス・キリストを私は信じます」、「聖霊を私は信じます」と唱えます。

後半、聖餐の部に入りまして、9頁、設定の言葉の後半「感謝の祈り」も「すべての栄光と讃美が、教会において、キリストにより、聖霊と共におられるあなたに世々限りなくありますように。アーメン」という頌栄で結ばれています。そして礼拝の最後、14頁の祝福は礼拝の初めと同じ言葉「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン、アーメン、アーメン」で終わります。

これで、礼拝式全体が三位一体の神さまをほめ称える言葉で満ちていることが確認できたと思います。しかし、きょうはまだこれで終わりではありません。西方の教会では伝統的に、この日にはニケア信条や使徒信条に代わって、年に一回「アタナシウス信条」を唱える習慣があります。私たちもきょうはこの後、「アタナシウス信条」を交読形式で唱えましょう。この信条は、西方教会などで広く採用され、使徒信条、ニケア信条とともに基本的な信条とされています。前半で神の三位一体を述べ、後半ではキリストの「神であり人である」という二性を述べているその内容から、ニケア公会議で三位一体の信仰を守るのに功績のあったアレクサンドリアの司教、聖アタナシウスの名が冠されていますが、本当の著者は不明です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年6月12日 聖霊降臨祭 「聖霊が降る」

ヨハネによる福音書7章37〜39節
説教:高野 公雄 牧師

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

ヨハネによる福音書7章37〜39節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうはキリスト教の三大祭りの一つ、聖霊降臨祭です。この日を記念して、皆さまには赤いものを身につけて礼拝に集っていただきました。ちなみに、他の二つの祭りは、復活祭と降誕祭です。教会の暦では、この三つにだけ「祭」という字がつきます。他の祝日や記念日は「昇天主日」とか「宗教改革記念日」といいうように呼ばれるだけです。

聖霊降臨の出来事は、使徒言行録2章1~4にこう記されています。《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。

二千年前のこの日、イエスさまの直弟子たちが集まっていると、突然に激しく吹く風の音と共に、聖霊が舌の形をした炎の姿で弟子たちひとり一人の上にくだりました。赤いものを身につける習慣は、この日の出来事を覚え、私たちもまた聖霊の火の降臨を願い求め、また感謝する心を表しているのです。

「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」と言い、本来、「風」や「息」を意味する言葉です。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されますが、使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれで。なお「舌」のギリシア語は「グロッサ」で、これは6節《だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

ところで、聖霊の力を得た弟子たちは公然とキリストの福音を宣べ伝え始め、その日、新たに三千人が洗礼を受けたといいます(2章41)。聖霊降臨の日は教会の誕生日でもあります。

聖霊降臨は五旬祭の日に起こりました。「五旬祭」は旧約聖書では「七週の祭り」とも呼ばれていますが、この祭りが過越祭の翌日から数えて50日目に行われるために、五旬とか七週という名が付けられたのです。キリスト教ではこの日を聖霊降臨祭という名で呼びますが、それは日本語に限ったことで、ヨーロッパの国々では、旧約の祭りも新約の祭りもどちらも「ペンテコステ」と呼びます。これは、ギリシア語で50番目を意味する言葉をそのまま外来語として取り入れた呼び名です。

ところで、五旬祭(ペンテコステ)は、もともとは小麦の収穫を祝う祭りでしたので、旧約では「刈り入れの祭り」とも呼ばれました。私のストラを見てください。赤い地に実った麦の穂の模様がついています。しかし、この祭りは後に宗教的意味づけとして、エジプトから脱出したのちにシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

一方、ヨハネ福音書7章では、仮庵祭(かりいおさい)にエルサレムに上った際にイエスさまが大声で呼ばわった言葉を伝えています。仮庵祭は9~10月に祝われますが、元来はぶどう・イチジク・オリーブなどの果物を収穫した後の祭りで、「取り入れの祭り」と呼ばれていたものが、後に、宗教的にエジプトからの解放と沙漠の彷徨を記念する祭りとなり、その記念のために一週間、家の庭先や町はずれに仮の庵を建ててそこで暮らすので、仮庵祭と呼ばれるようになりました。ユダヤ教では最も華やかで楽しいお祭りです。

《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日》に、大祭司はシロアムの池から金の器で2リットルほど水を汲み、ラッパが鳴る中、ぶどう酒と共に祭壇に捧げます。水は命のシンボルであるとともに、聖霊の象徴でした。イスラエルの人々は、終わりの日に、神がエルサレム神殿に降り立ち、全世界を支配される、そのときには、エルサレムが世界の中心となり、そこから命の水が四方を潤す川となって流れ出す、と信じていました。大祭司による祭壇への水注ぎの儀式は、そうした信仰を表すものだったのです。

ところが、まさにそのとき、イエスさまは立ち上がり、大声で叫んで言われました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。「渇いている人」とは、命の水すなわち聖霊を求める人、永遠の命を求める人のことです。そういう人は誰でも《わたしのところに来て飲みなさい》とイエスさまは呼びかけます。つまり、イエスさまは、命の水の源は自分だ、と宣言します。これは、ユダヤ教の終わり、新しいキリスト教の始まりを告げる言葉にほかなりません。

私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天を信じるとともに、そのイエス・キリストが神の右の座からの私たちに聖霊を派遣してくださることをも、今を生きる力として信じ、また待望する者とされたのです。

さきほど交読した詩編104編では、すべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われていました。《み顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹きを取り上げられると彼らは息絶え、元の塵に帰る。あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の表を新たにされる》。神の霊こそが人を生かす力であり、私たちは神からの力なしには生きていけないのです。この神について、私たちはニケア信条で「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます」と唱えるのです。私たちのうちに住まわれる神、それが聖霊なる神です。聖霊は、私たちのうちに住むだけではなく、私たちを拠点として、そこから出てゆき、私たちの活動をとおして、他の人にも働きかけます。

それでは、聖霊は何をするのでしょうか。聖霊は、人間の心の奥に触れられるのです。聖霊は、福音が聞かれることを通してキリストと私たちとの接触を打ち立てます。絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それは神の働きによる、または神の憐れみによるとしか言いようがないことです。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。

聖霊はこのように働かれます。私たちは聖霊を通してキリストのものとされたことを、神の子とされたことを信仰をとおして確信させます。しかし、聖霊の働きは、聖霊が私たちの心に入ることで初めて始まるのではありません。それはイスラエルに対する、また神の教会に対する、そしてこの世界に対する神の救いのみ業、すなわちイエス・キリストの言葉と業の全体の中に始まっています。そして、そこから、その教会におけるみことばと聖礼典を通して、聖霊は個人的に私たちの中にも入ってきます。教会はまさしく聖霊から神のことばを通して生まれたのです。そして、教会はある意味でキリスト者である私たちすべての者の母であって、そこで私たちは聖霊を通して神の子に造られ、また生み出されるのです。

聖霊が心の深みに触れた後には、私たちは神に仕えて生きることを始めます。誰もが自分にすでに与えられており、また与えられるであろうさまざまな聖霊の賜物に従って自分の持ち場で仕事にかかるのです。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めようとするときに聖霊が降ったように、また、ペンテコステの出来事でも、最後までイエスについていけなかった弱い弟子たちが福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降ったように、私たちも神からの使命に生きるために、繰り返し聖霊の働きを祈り求めましょう。

聖霊について人間は頭で理解しようとしますが、とても難しいです。聖霊の働きは、そもそも人間の考えを超えた神の働きであって、理解しがたいのです。大切なのは、聖霊を理解しようとすることよりも、私たちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年6月5日 昇天主日 「イエスの昇天」

ルカによる福音書24章44〜53節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

ルカによる福音書24章44〜53節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音の箇所は、ルカ福音書の結びの部分でイエスさまの昇天の記事です。福音書記者のルカは福音書の続編として、使徒言行録も書いています。きょうの第一朗読でその冒頭の部分を読みましたが、やはりイエスさまの昇天の記事でした。つまり、イエスさまの昇天は、イエスさまの活動を描いた福音書を閉じ、弟子たちの活動を描いた使徒言行録を始めるという、二つの文書の繋ぎの出来事になっています。

イエスさまの昇天の出来事を描く聖書の記事は、ルカが書いた二つの文書の他に、多くはありません。しかし、「昇天」は、早い時期から教会の信仰告白の中に必ず含まれる信仰箇条として認められてきました。きょうは聖餐礼拝ですから、あとでニケア信条を一緒に唱えますが、ニケア信条には、「聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました。そして父の右に座し・・」とあります。説教礼拝のときに唱える使徒信条には、「三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し・・」とあり、三位一体主日の礼拝で特別に用いられるアタナシウス信条にも、「死人の中から復活し、天に昇り、父の右に座し・・」とあります。

古代の人たちは、世界を三層、つまり天と地と陰府(よみ)からなる三層と考えていました。それで、「天に昇る」というと、現代人は、イエスさまが宇宙ロケットのように天空に上昇する様子を思い描きつつ、それは非科学的だとして否定するということになりがちです。しかし、天に昇ることも神の右に座ることも、実は人の目に見える出来事の描写ではありません。古代にはまだ「天」と「空」の使い分けがなかったようですが、人の目に見える上空は「天」heavenではなく、「空」skyに過ぎません。「天」とは、上空のことではなく、目に見えず、人が描写することが不可能な、神の栄光の座のことを言います。イエスさまの昇天とは、復活したイエスさまが栄光の座、すなわち全能の父である神の右に挙げられたことをあらわしているのです。

この「右の座」という表現は、古代オリエントの宮廷の習慣に由来しています。王の右手の側に首相が座って、王から委託された権威と権力をもって支配しました。聖書は高く挙げられたイエスさまをあらわすために、このイメージを用いたのです。

ちなみに、このイメージは、中国や日本では左右が逆で、左が優位でした。ひな祭りの飾りを例にとりますと、昔は雄雛が左に座り、雌雛は右に座りました。左大臣と右大臣では左大臣が上位です。この場合の左右は、「左近の桜、右近の橘」もそうですが、雄雛(天皇)から見ての左右であり、お雛様を見る私たちの側から見ての左右ではありません。ところが、ヨーロッパの文化が入ってきますと、昔と左右が逆になり、大正天皇はつねに右に立ち、皇后が左に立つように変わりました。それにつれて、お雛様の置き方が二通りできてしまったということです。

話しを元に戻します。イエスさまの昇天と神の右側への着座ということで、キリスト者は、復活したイエスさまは目で見ることはできないけれど、いまや王としての権威をもって私たちと共にいてくださる、ということを信じているのです。52節に《彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り》とあります。「イエスを伏し拝む」とは、「イエスさまを礼拝した」ということなのですが、ルカ福音書の中で、弟子たちがイエスさまを礼拝すると言われているのは、ここだけです。福音書の最後に来て、この昇天の出来事によって初めて、弟子たちはイエスさまがどういう方であるかを悟ったのです。イエスさまを神であり王であると信じるのが、キリスト教です。

このことを、最も早い時代の教会の信仰告白は、「イエスは主である」または「イエス・キリストは主である」という言葉で言いあらわしました。たとえば、ローマ10:9《口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです》。またⅠコリント12:3《ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》。またフィリピ2:11《すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》。またⅠペトロ3:5《心の中でキリストを主とあがめなさい》

「主」という言葉(旧約ヘブライ語でアドナイ、新約ギリシア語でキュリオス)は、旧約聖書の伝統では、神名ヤハウェを大事にとっておいて用いず、その代わりに用いた神の呼び名です。それとは別に、当時の皇帝礼拝やいろいろの宗教でも、礼拝対象を「主」(ギリシア語でキュリオス、ラテン語でドミヌス)と呼んでいました。つまり、「イエスは主である」は、イエスさまを神として信じることを言い表しているのです。

そのイエスさまは、弟子たちから離れ去るに際して、両手を挙げて祝福しました。その両手には釘あとがあります。人々はイエスさまを呪い、十字架にかけましたが、イエスさまはその呪いを祝福に変えて人々に返します。この祝福は、弟子たちの裏切りや、離反・逃亡の罪を赦すという宣言でもあります。イエスさまの十字架は、人々の罪の贖いのためであったことがいよいよ明らかになりました。47節に《罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる》とありますが、人が悔い改める前に、まず神がイエスさまの十字架によって人に悔い改めを宣べ伝えているのです。私たちは、ただこの神の働きを証しすることができるのみです。

それは、ヨハネ3:16-17に《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》とある通りです。

きょうの福音の最後に、写本によっては「アーメン」と付け加えられています。私たちもまた、この福音書に描かれたイエスさまと父なる神を賛美し、「アーメン」と応えて読み終えるように招かれているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月29日 復活後第5主日 「信仰の実と愛」

ヨハネによる福音書14章15〜21節
説教:高野 公雄 牧師

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

ヨハネによる福音書14章15〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

今年は復活祭が遅く、4月の第4日曜、24日でした。きょうは復活後第5主日、つまり復活後36日目になります。使徒言行録1章によりますと、イエスさまは復活ののち40日間にわたって折々に弟子たちに姿を現して神の国について教え、ついに天に上げられました。40日目の今週の木曜、6月2日は「主の昇天祝日」に当たります。ですから、きょうは「復活後第○主日」と呼ばれる季節の最後でして、来週はもう「昇天主日」、再来週は「聖霊降臨祭」となります。

教会の暦で「復活後第○主日」という季節は、復活したイエスさまがいまも私たちと信仰の交わりをもち、私たちの歩みを支え、導いてくださることを、イエスさまご自身のいろいろな言葉をとおして学ぶときです。しかしまた、きょうは昇天と聖霊降臨の直前に当たり、イエスさまが昇天してしまった後はどうなるのか、イエスさまに代わる弁護者・聖霊が送られることを前もって読み、そのときに備えるという性格をも持たされています。

きょうの福音書は、ちょうどそういう趣旨に沿う個所です。たった7節の短い個所ですが、18節を中心として、前半と後半に分かれます。18節前半は中心聖句でして、イエスさまは《わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない》と言います。ここで、みなしご・孤児とは、弟子たちが師と仰ぎ、主と頼んだイエスさまがいないままに放置される状態を言います。イエスさまは十字架にかかった後も、昇天の後も、あなたがたを助け手なしのままにはしない、と約束します。

前半の15~17節では、イエスさまは昇天の後には、自分に代わる別の弁護者つまり聖霊を弟子たちに送り出し、聖霊をあなたがたと共にいるように、あなたがたの内に留まるようにする、と聖霊を降す約束を与えます。そして後半の18節後半~21節では、復活し昇天したイエスさまは、ふたたびあなたがたのところに戻ってくる、とご自分の再来を約束しています。

このように、復活のイエスさまと共に生きるということは、聖霊と共に歩むことであることが示されます。聖霊は、イエスさまに代わる別の弁護者だと言われていますが、聖霊と復活したイエスさまとは、どこが同じでどこが違うのか、よく分かりません。三位一体はとても難しい教えです。でも、私たちが信仰生活を送るうえでは、聖霊は復活したイエスさまの霊のことだと考えて差し支えないでしょう。

ところで、きょうの福音書は、同じ内容をもつ言葉が、始めと終わりにあって枠を作っています。15節に《あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る》とあり、21節に《わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である》とあります。「わたしの掟」とは、13章34の《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》という新しい掟が考えられています。イエスさまを愛することは、イエスさまに愛された者が互いに愛し合うということに向かうはずだ、とイエスさまは考えています。愛は、愛によってのみ答えることができるのです。ですから、「掟を守る」と言っても、その掟はただ外面的に守るべき規則でもなく、道徳的義務でもなく、イエスさまの言葉と業を通して神の愛を受けた者の心の中に自発的に湧き出るものです。

「そうすれば」とイエスさまは続けます。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる》。15節と16節は「そうすれば」という言葉でつながっています。新共同訳では、このつなぎの言葉が省かれています。私たちがイエスさまを愛し信じるならば、イエスさまはそれに答えて、私たちのために父なる神に願ってくださる。父はイエスさまの願いに答えて、別の弁護者を送ってくださいます。信じる者はだれでも、イエスさまとの生き生きとした人格的出会いを必要としています。そして、イエスさまとのリアルな交流は、私たちが自力でできることではなく、聖霊の導きにあずかってはじめて得られる体験なのです。

21節でも、この同じ事柄が違った表現を用いて言われています。《わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である》につづけて、《わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す》と。イエスさまを愛することは、何をもたらすのか。それは、《その人にわたし自身を現す》ことだというのです。愛するということは、自分を愛する相手にあらわすことなのです。愛は、愛する者へと自分をあらわし、自分を与えます。自分をあらわすのは、相手を愛するためです。

最後に、ふたたび13章34の言葉に戻りたいと思います。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。ここで、新しい掟の前置き《わたしがあなたがたを愛したように》ということがとても大事です。これが、掟の基礎となっています。私たちはだれでも人から愛されることを必要としています。それでいながら、自分からはなかなか人を愛せません。人を愛せない、したがって人から愛される資格のない私たちを、まずイエスさまが愛してくださった。愛されることで愛を知り、私もまたイエスさまを愛し、イエスさまに愛される人間仲間を愛することへと導かれます。そして、私を極みまで愛し通されたイエスさまが、聖霊の助けによって絶えず私の心のうちにまざまざと映し出され、私を初めの愛へと立ち帰らせてくださいます。そして、イエスさまは私たちに、隣人に自分を開く愛と勇気を与えて、私たちに新しい生き方を始めさせてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン