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2011年5月22日 復活後第4主日 「道 真理 命」

ヨハネによる福音書14章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ヨハネによる福音書14章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書は、イエスさまが弟子たちに語りかけた励ましの言葉《心を騒がせるな》で始まります。イエスさまは最後の晩餐が済みますと、弟子たちに別れを告げる説教を始めます。その説教でイエスさまは、いよいよ最後の時が来たことを告げます。そして、《わたしが行く所にあなたたちは来ることができない》(13章33)と言い、ユダヤの裏切りとペトロの離反を予告します。当然のこと、弟子たちは動揺したことでしょう。そこでイエスさまは《心を騒がせるな》と語りかけます。心を乱してはいけない、という倫理的な話ではありません。心の乱れを、わたしがこれから話す言葉によって克服しなさいという励ましです。

しかし、その励ましが必要なのは、二千年前の弟子たちに限りません。現代人はみな不安のうちに生活しています。いまほど精神科医が、心理カウンセラーが必要とされている時代はありません。現代人は自分たちがどこから来てどこへ行くのか分からなくなっています。いわば「ふるさと」を失ってしまったのです。それで、本人が自覚すると否とにかかわりなく、現代人はみな不安なのです。イエスさまはそんな私たちに対しても語りかけます。《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある》と。ここで《父の家》とか《住む所》と言われているのが、私たちの「ふるさと」、「人がそこから来て、そこへ帰る」所です。私たちの「ふるさと」は、イエスさまの示された父なる神のみ許にあるのです。

しかし、トマスには、そのことがまだ明白ではないと感じられました。《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と問いかけます。この問い《主よ、どこへ行かれるのですか》は、ペトロもまたすでに13章36で訊いています。なるほど、目的地が分からなければ、そこにゆく道を知ることはできません。この質問は、はからずもイエスさまから偉大な言葉を引き出すことになりました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。つまり、イエスさま自身がわたしは道であり、真理であり、命であるというのです。イエスさまの道は、十字架と復活の道です。十字架は、《あなたがたのために場所を用意しに行く》歩みであり、復活は、《行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える》歩みです。《こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》のです。

イエスさまに従ってこの道を歩むのが、イエスさまの弟子の人生です。イエスさまの後に従って歩む道とは、13章34によれば、《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》ということであり、マルコ8章34によれば、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》、つまり己が苦しみを十字架とみなして、イエスに従うということなのです。

《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。この言葉は日本人には評判が悪いです。日本人のもつ宗教意識は一般に、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という古い道歌が言うように、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるというもののようです。ところがキリスト教は、正しい道を歩まなければ、目的地に行き着くことはできないと言います。そしてヨハネ福音書はここで、イエスさまこそが正しい道であり、イエスさまによらなければ、だれも父のもとに行くことができない、目的地に行かれないと主張します。イエスさまを知ることは、神を知ることです。これこそが、キリスト教をキリスト教たらしめる基本原則です。この原則を最初にはっきりと書き記したのがヨハネです。これがキリスト教をユダヤ教から独立させた決定的なポイントです。

《あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。》

私たちがそこから来てそこへ帰るそのところ、すなわち神のみ許を知っていさえすれば、神を信じることができさえすれば、不安な心も落ち着くことができるでしょう。でも、現代人である私たちはもはや神を信じることができず、ふるさとを失い、不安から逃れられずにいるのです。8節で弟子のフィリポは言います。《主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます》と。これは私たちみんなの心にある望みでもあるのではないでしょうか。神が見えさえすれば、信じることができるのに、人はその神を見ることができないのです。

イエスさまの答えはこうです。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ》。すなわち、私たちは肉眼で神を見ることはできないけれども、地上を歩まれたイエスさまの言葉と業をとおして、私たちひとりひとりに対する父なる神のみ心、愛を知ることができる。私たちはイエスさまを介して霊の目でもって神を見ることができるのです。それなのに、私たちはなんとしばしば神を見失い、神を疑うことでしょう。わたしたちは繰り返し繰り返し《こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか》というイエスさまの悲しみを帯びた慈しみの声を聞き、《わたしを見た者は、父を見たのだ》という諭しの言葉を聞かなければならないのです。多くの神々がいるのか、または神などという存在はいないのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはイエスさまの言葉と業のうちに、私たちを赦し、愛する神のみ心を知ったがゆえに、神を信じるのです。その他に子細はありません。

ヨハネはすでにこのことを、福音書の冒頭に言っていたます。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(1章14)。また《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(1章18)。

使徒言行録11章26に《このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである》とありますが、キリスト者(クリスチャン)という呼び名は、もと「キリストかぶれ、キリスト狂い、キリスト馬鹿」というような蔑称だったと思われます。確かに、キリスト者は、キリストの心を自分の心として生きる者であります。私たちはキリストのことしか知りません。キリスト馬鹿つまりクリスチャンという呼び名を喜んで受け入れようではありませんか。そして、私たちは、日々、イエス・キリストとの生き生きとした交わりをもち、イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月15日 復活後第3主日 「良い羊飼い」

ヨハネによる福音書10章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭後の第三主日は、中世以来、「良い羊飼いの主日」と呼ばれて、この聖書個所が読まれてきました。私たちはその伝統を受け継いで、毎年、この日にはイエス・キリストが「良い羊飼い」であるという福音を聞きます。復活していまも生きておられるイエスさまと、今のわたしたちとの関わりを、羊飼いと羊の関係の比喩を助けとして、より深く味わおうとするわけです。

《わたしは良い羊飼いである。》

イエスさまは11節と14節でこう繰り返していますが、「わたしは○○である」というイエスさまの自己紹介は、ヨハネによる福音書にいろいろ出てきます。6章に「わたしはいのちのパンである」とあり、8章に「わたしは世の光である」とあり、11章に「わたしは復活であり、いのちである」とあります。まだほかにも、14章の「わたしは道・真理・命である」とか、いろいろな表現が出てきます。これらは、単なる自己主張ではなく、そのときそのときの出来事に即したイエスさまの自己紹介であり、そのイエスさまに出会った人々の信仰告白でもあるのです。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。》

羊飼いと羊の比喩では、羊飼いの羊たちに対する愛情、羊たちの羊飼いに対する信頼が、つまり相互の親密な交わりが表されています。羊飼いと羊の群れはパレスチナの人々には身近な光景で、その比喩の意味することはすぐに分かったと思います。ところが日本では羊が飼育されることは少なく、なじみのない話になってしまいます。犬好きと犬、猫好きと猫との関係に置き換えてみたら、その親密さ想像できるのではないでしょうか。それはともかく、この比喩は当時の羊飼いの実際の姿が背景にあって話されたものです。

当時のパレスチナでは、羊は広い牧場の柵の中で飼われていたのではありません。羊飼いは遊牧生活でありまして、50頭から100頭の羊の群れを、草のあるところを求めて旅していくのでした。羊は弱い動物なので、羊飼いは野獣や盗人から守りながら、草のあるところに導くのでした。夜になると、各地に設けられた囲いの中に入れます。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊たちが混じって夜を過ごしたということです。朝になると、囲いから出すのですが、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いの方でも、一匹一匹の羊を見分けることができたそうです。

羊飼いはラテン語でパストールと言います。それは、「家畜に餌を与える人」を意味しています。それがのちには、教会で牧師に対する呼び名となり、ひとの魂を配慮する人を意味するようになりました。

羊飼いは羊の群れを導く強い指導力と一匹一匹の羊の状態を見分けで世話をする愛情を表す象徴です。それゆえ、古代オリエントでは、政治的な指導者、王は自分が羊飼いとして表されることを好みました。旧約聖書でも王や指導者を指す場合が多いですが、また先ほど交読した詩編23編のように、羊飼いは神さまを象徴することも少なくありません。そのように神さまを象徴する言葉を、イエスさまに適用しているのが、この個所です。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》

イエスさまが良い羊飼いだという根拠は、イエスさまが神さまと愛と信頼の関係において一体であることにあります。この一体の関係に基づいて、イエスさまと信徒たちの愛と信頼の関係が作られるのです。良い羊飼いは他にもいるかもしれませんが、神との一体のゆえに、イエスさまは唯一無比の良い羊飼いだと言えるのです。

《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。》

15節にもありましたが、11節にも羊のために命を捨てるのが良い羊飼いだということが言われています。これは、イエス・キリストの十字架の意味を知らないと理解できない言葉だと思います。実際の羊飼いは、強盗に殺されてしまっては、羊を守れません。ですから、これは、イエスさまの死が、羊たちの運命をより良くしたというイエスさまへの信仰が根底にあって言われているのです。

《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》

これは、マルコによる福音書10章45節の言葉ですが、弟子たちが、イエスさまは私たちのために死んでくださったのだと信じたことを伝えています。

《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。》

これはコリントの信徒への手紙一15章3~5節の言葉です。あとからクリスチャンになったパウロは、先輩たちから、「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と教えられたと言っています。

《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。》

長い引用になりましたが、これは、ローマの信徒への手紙3章21~26節の言葉です。イエス・キリストの十字架上の死という謎を、イエスさまの弟子たちは、古代世界ではどこででも行われていた動物犠牲の祭儀にかたどって理解し、それはわたしたちの救いのためであると受けとめたのです。

このような信仰を背景にすると、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という意味が分かってくるでしょう。

《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

マルコによる福音書6章34節には、こういう言葉があります。良い羊飼いであるイエスさまは、飼い主がいない羊のように、道に迷ったり、危険にさらされたりしている私たちの有様を見て、深く憐れんでおられます。

《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》

イエスさまは、私たちが羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いに従うように招かれています。教会は、イエスさまが私たちを彼と共に生きる羊にしてくださることを知るところです。この良い羊飼いイエスさまを自分の人生に迎え入れてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月8日 復活後第2主日 「トマスの反応」

ヨハネによる福音書20章24〜29節
説教:高野 公雄 牧師

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネによる福音書20章24〜29節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

きょうの福音は、こう始まっています。ここからトマスには「疑うトマス」という枕詞がお決まりになってしまいました。おかげで、トマスは大きな教会のステンドグラスに飾られることの最も少ない聖人だと言われます。しかし、きょうの記事は、トマスを描くことを通して、ヨハネによる福音書の結論と言ってもよい、大事な、大事なメッセージを伝えています。

まず、トマスの人となりから見ていきましょう。トマスはイエスさまの十二弟子のひとりとして、マタイ10章3、マルコ3章18、ルカ6章15にその名が載っています。しかし、これら最初の三つの福音書には名前だけしか伝えられていません。トマスの人となりがはっきりと描かれているのは、ヨハネ福音書だけなのです。

《十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス》と紹介されています。新約聖書の言葉ギリシア語でディディモスは固有名詞ではなく、「双子」という意味の普通名詞です。トーマーもイエスさまたちユダヤ人が話したアラマイ語で同じく「双子」の意味であって、名前ではありません。アラマイ語の意味が分からなり、のちにトーマース(トマス)は名前となったのでしょう。彼にもちゃんとした名前があるはずですが、その名前は福音書には出てきません。新約聖書の正典に採用されなかた信仰書を外典といいますが、外典に「トマス福音書」と「トマス行伝」があって、そこではトマスの名前はユダと出ています。では、誰と双子なのかと言いますと、驚いたことにトマスはイエスさまの双子の兄弟とされています。これは事実ではないでしょう。でも、そういう伝説ができるくらいに、人々はトマスがイエスさまと特別に近い関係にあったと感じていたのでしょう。

さて、トマスは最初にラザロの復活の物語に現れます。ラザロとマルタ、マリアの姉妹は兄弟ラザロの病気が危険な状態になり、使いを送って、イエスさまに頼ります。しかし、彼ら三人が住んでいるベタニア村はエルサレムに近く、巡礼者が泊まる村でした。そんなところに行くのは非常に危険です。

《ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」・・・すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った》(ヨハネ11章6~7)。

他の弟子たちが尻込みしているところで、トマスは死に至るまで師に忠実であろうと決心し、仲間を励ます人でした。

次に現れるのは、最後の晩餐の席です。イエスさまは弟子たちにお別れの説教をして、「あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」と言います。

《行って、用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》(14章3~6)。

トマスは疑問をやり過ごすことのできない人のようです。そのために、イエスさまの偉大な答えを引き出しました。イエスさまの答えは、こういうことだと思います。「あなたたちが何も分かっていないことは承知している。けれども、わたしはいつもあなたがたと一緒にいるから、それでいいのだ。わたしを信じなさい。あなたがたもしっかりとわたしにつながっていなさい」、と。

そして、最後にきょうの箇所に来ます。トマスは殺されても師に忠実であろうとする人でした。そうできなかった自分を恥じて仲間から身を隠したのでしょうか。あるいは、自分と同じように弱い仲間に失望して、去ろうとしたのでしょうか。ともかく、トマスは復活の日には弟子たちの集まりから離れていました。そのために、せっかく復活の主イエスさまが弟子たちに会いに来てくれたのに、トマスは会うことができませんでした。

《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

トマスは、自分の納得できる方法で事柄を確かめようとします。自分が出題するテストに合格すれば、そうしたら信じようと考えています。それは合理的・理性的な主張ではありますけれど、そういう証明できることだけを真実なものとすることには限界があります。それは、実験ができない領域、すなわち信仰の問題・人生の問題・愛の問題のように、繰り返しが効かず、他人に代わってもらうことのできない事柄には当てはまりません。

《さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った》。

復活のイエスさまは、弟子たちの真ん中に来られ、「シャローム、平和あれ」と言われます。「平和あれ」とは、イエスさまを見捨てて逃げ去った者を赦す、親しい交わりを回復しようという意味です。トマスに対しては、確かめようとすることをとがめないということであり、《信じない者ではなく、信じる者になりなさい》という呼びかけです。十字架にかかった方が復活して、いまここに来て自分を招いてくださっている。手の釘あと、わき腹の傷は自分のせいであり、また自分のためであることを悟ったトマスは、信仰の人となります。そして、《わたしの主、わたしの神よ》と言って、イエスさまを神として礼拝しました。

トマスは知的に確信を得たのではなく、イエスさまの臨在に出会い、イエスご自身を信じました。だから、もはや釘あとを自分の指で触れる必要はなくなりました。自分の目や手による確信に頼る必要はなくなりました。一切をイエスさまに、神さまにお任せすればよい。神を信じるとは、そういうことだということが分かった。自分の確信にたよる必要はない。神さまにのみ頼るわけですから。それは、不安と言えば不安です。でも、本当の信仰とは、本来そういうものなのです。自分が確かと考えるその基準に合う神さま像を追い求めるのではなくて、自分の確信を根拠とするのではなくて、真実の神さまと出会うことを通して、神さまご自身が確かさの保障となることです。

そういう信仰を祝福して《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」》、と。同じ意味のことを、イエスさまは復活の日にマグダラのマリアにもおしゃっています、《わたしにすがりつくのはよしなさい》(ヨハネ20章17)、と。

イエスさまの死と復活を通して、神はご自身を私たちと共に苦しむ方、私たちを罪の縄目から救い出す方として啓示された。そのようにして神は弟子たちに「見ないで信じる信仰」を生み出してくださった、与えてくださった。それがヨハネ福音書の結論です。トマスは信じる者たちの集いに戻ることで、集いの真ん中に立たれた復活の主に出会い、その信仰をいただきました。私たちもまた、週の初めの日ごとに共に集い、み言葉を聞き、賛美と祈りを献げるとき、復活の主からその「見ないで信じる信仰」をいただけるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月1日 復活後第1主日 「復活日の夕刻に」

ヨハネによる福音書20章19〜23節
説教:高野 公雄 牧師

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書20章19〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭から一週間が経ちましたが、きょうの福音は、《その日、すなわち週の初めの日の夕方》とありますように、復活の日の夕方に起こった出来事です。きょうはこの記事から学びたいと思います。ヨハネによる福音書20章に記された出来事はすべて、同じ日の朝と夕方に起こった出来事です。このことからも分かるように、イエスさまの「復活」という出来事の全体像を把握するためには、先週読んだ「空の墓」の出来事(マタイ28章1~10、ヨハネ20章1~10)に目を留めるだけでなく、きょう読んだ「弟子たちへの顕現」(ヨハネ20章11~23)も含めて考える必要があります。

弟子たちはイエスさまの墓が空になっているのを見ただけで、まだイエスさまにまだ再会する前に、イエスさまの復活を信じたのでは、おそらくないでしょう。そうではなく、きょうの記事にあるように、弟子たちは復活したイエスさまと出会う経験を通して、イエスさまが十字架にかかって死んだこと、自分たちがイエスさまを見捨てて逃げ去ったことで、イエスさまとの関係が終わったわけではないと知り、復活を経験したのです。しかもイエスさまは、ただ弟子たちに現れただけではなく、弟子たちの裏切りを責めたりせず、むしろ弟子たちに「平安あれ」と言ってくださった。つまり、イエスさまは弟子たちの罪を赦して、共に歩む関係を修復してくださったのです。《弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた》とあります。弟子たちは、迫害への恐れと裏切りの後ろめたさで縮こまっていたけれど、復活の主と出会うことによって、新たな力を与えられ、再びイエス・キリストの教える道を歩みつづける力を得ました。イエスさまとの繋がりは、死によって終わらなかったのです。空の墓からイエス・キリストの復活を信じたという順序ではなく、復活の主との出会いから逆にさかのぼって、空の墓をイエスさまの復活のしるしと位置づけたのでしょう。そう考える方が分かり易いと思います。

《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》。

イエスさまが弟子たちに呼びかける「シャローム 平和または平安」は、ユダヤ人のごく普通の挨拶です。日本語としては、「こんばんは」と訳すこともできる言葉ですが、ここでは挨拶以上の意味を込めて使っているので、ことば通り「平和」と書かれています。ここでの「平和」は、イエスさまが別れるに際して最後の晩餐の席で語られた言葉、《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない》(ヨハネ14章27)と約束されていた、あの平和です。

弟子たちは身の安全を求めて戸を閉ざしていました。しかし、家の戸を閉ざしても、心は不安と恐れでいっぱいだったでしょう。その不安な心は、復活のイエスさまが共にいてくださると知ることで、本当の「平安」を得ることができます。主が共にいてくださるからこそ、弟子たちは平和・平安を与えられ、恐れを克服して心の扉を開け、家の戸のカギを開けて、外に出て行くことができたのです。

復活したイエス・キリストとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。イエスさまとの関係の回復です。イエスさまを裏切り、見捨てて逃げ去った弟子たちは、弟子として失格者でした。しかし、復活したイエスさまは彼らをふたたび弟子として受け入れ、あらたに福音の宣教に派遣します。イエスさまの復活を信じることは、イエスさまの愛を信じることでもありました。

ここで、《そう言って、手とわき腹とをお見せになった》とあることにも注目しておきましょう。イエスさまは釘あとのついた両手と刺し貫かれた脇腹とを弟子たちに示します。私たちは、イエスさまが十字架に釘づけされたことを当然のことと考えています。先週から新しくなった復活のローソクにも五つの釘を刺して、両手両足と脇腹の傷を表しています。ところが、十字架のはりつけというのは、ふつうはロープや革ひもで縛りつけられたのだそうです。釘あとについて書かれている聖書個所は、ヨハネ20章25のトマスの言葉だけです。《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

弟子たちの真ん中に現れ、「手とわき腹とをお見せになった」イエスさまは、閉じた戸を通り抜けられるからだ、新しいいのちに変えられましたが、受難に至るまで弟子たちと生活を共にした同一のイエスさまです。復活の主は受難のイエスさまと同一でありながら、別のレベルのいのちに生きています。弟子たちが過去に体験したイエスさまとの交わりは、レベルを高めて、今も継続されるのです。

イエスさまは21節でもう一度「平和」と呼びかけて、《父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす》と、ご自分の任務を弟子たちに分け与えられます。《聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される》。イエスさまはそう弟子たちに約束されます。復活したイエスさまは弟子たちをゆるすだけでなく、そんな弟子たちにご自分の権限をも分け与えてくださるのです。弟子たちの使命の中心は、赦しあるいは愛と言えるでしょう。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。ひとは誰でも長所と短所、良い点と悪い点を持ち合わせています。だれかを本気で愛するなら、その人を好悪ともに、まるごと受け入れるほかありません。ひとを愛することは、ひとを赦すことですね。あなたがたは人を赦しなさい。それによって、神の愛がその人の上に実現します。人は他者から愛されることを通して、神の愛を実感するものです。

私たちは、聖霊の力によって罪を赦す者たちの群れです。私たちは日曜日ごとに主の復活を祝って礼拝していますが、みことばと聖餐を通して、イエスさまは私たちのうちに生きて働いてくださいます。イエスさまは私たちに「平和」を与え、私たちを聖霊の息吹で新しくし、私たちに愛とゆるしの任務を与えて世に送り出すのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン