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2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日の説教 「救いの道」

「救いの道」 ルカによる福音書9章18~26節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前「キリスト新聞」に日本基督教団前総幹事の内藤留幸先生という方が、キリスト教の『救い』についてこういう記事を書かれていました。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。

今日の福音はまさに、この「真の救い」について、主イエスが私たちに語っておられることなのです。内藤先生は、信仰、希望、愛に生きること、キリストにつながることだと言われました。それは具体的にどういうことかと言いますと、「自分の十字架を背負う」ということに他なりません。自分の十字架を背負う、その響きからして、重く受け止めてしまう私たちの姿があります。自分の十字架を背負うことがなぜ「真の救い」なのか。主イエスの厳しい言葉です。しかし、「十字架を背負う」ということは、何か悪いことをした罰として与えられるということではありません。「わたしに従いなさい」と言われる主イエスの招きの言葉であります。十字架を背負って、主イエスに従う歩みの中にこそ、「真の救い」が示されているからです。

本日はペトロが信仰を告白する場面から、福音のストーリーは始まります。主イエスが祈っておられたところに、弟子たちも共にいました。彼らは常に群衆たちに取り囲まれる日々を送っていたでしょう。今は祈りを通して、父なる神様と交わりを共にし、あたりにしずけさだけが漂っている雰囲気を彼らの姿から感じ取ることができます。そして、主イエスが弟子たちに尋ねました。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか。」主イエスの噂は、もうこの時には、ユダヤ全土に知れ渡っていたことでしょう。数々の奇跡や癒しを垣間見てきた群衆は、主イエスに力ある預言者としての期待を抱いていました。洗礼者ヨハネやエリヤ、その他の預言者が生き返り、再び自分たちのところに来てくださり、自分たちを救ってくれるという期待です。世間一般では、今最も注目の的であるお方であったということでしょう。そして、主イエスは弟子たちにも聞きました。即座に答えたのがペトロでした。「神からのメシアです」そう答えたのでした。

「メシア」、これはそのまま「救い主」と訳せますが、元々の意味はヘブル語で「油注がれし者」と言います。サウルやダビデなど、イスラエルの王様となる人物が授かっていた称号でした。ギリシア語では「キリスト」という意味です。

「あなたこそが私たちの救い主です」。ペトロはそう答えたようなものです。しかし、主イエスはペトロたちを戒めました。メシアということを人々に知れ渡らないようにするためだったからです。それはなぜか、人々が願う「この救い」を与えるために、主イエスは来られたということではなかったからです。ペトロたちもそうでした。この「メシア」がどういう救いをもたらすのか、分かってはいなかったのです。そして、主イエスは言います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」このことを聞いて、弟子たちは大いに落胆したかと思います。同じお話のマタイ福音書16章22節では、十字架の死に向かう主イエスを、ペトロはいさめ、留まらせようとします。主イエスはその時ペトロに言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」激しい言葉です。ペトロの行為は人間の行為、神に反する行為だと言われる。神の真の救いを妨害する人間の救いの行為なのです。十字架という苦難から逃れようとするこの世の救いです。しかし、主イエスはその救いをもたらすためではなく、父なる神の御意思、つまりこの世、全被造物への滾ることのない愛、真の救いをもたらすために、サタンを振り切り、この世の救いという誘惑を振り切り、十字架への道を歩まれていくのです。

この主イエスの後に従う道について、主イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」なぜそのような道を私たちに示されるのか、主は私たち人間を愛され、私たちに平安な道を示して下さる方ではないのかと思うかもしれません。今ある苦しみから全て開放してくださる方ではないのかと。弟子たちや人々が抱くメシア像は現代の私たちと何ら変わりないのです。ここで主イエスは自分の十字架と言います。主イエスが担う十字架というより、私たちひとりひとりの十字架です。これを重荷と捉えるなら、敢えて自分の十字架とは何かと問うことはありません。生きている限り、自分の十字架を背負って、誰しも歩んでいるからです。主はこの重荷を取り除くとは言われません。それを背負って行けと言います。しかし、その歩みは私に従うということ、キリストと共に歩んでいくということです。

そして命ということを言われます。自分の命を救うとはどう言うことでしょうか。その言葉の反対がキリストのために命を失うことですから、命を救うとは、命を失わないように、命を安全な場所にしまいこんでおくようなものです。安全な場所とは、自分が意のままにできる場所です。自分の価値観で、自分に有利と思えるものを受け入れ、不利益なもの、忌み嫌うものは受けいれないことです。ですから、苦難や困難なんてものは尚更受け入れたくないでしょう。自分の十字架を背負っていきたくはないのです。そういう苦難と困難な状況の中において、命は蝕まれ、失われてしまうと考えるのが私たちの価値観です。しかし、主は、それらを避ける道こそが命を失うものであると言われるのです。命の輝きを封じ込めてしまう、命の可能性を狭めてしまうのです。逆に、主イエスのために命を失うものは、それを救うのです。それは命の可能性を広げることです。苦難や困難の中で大いに力を発揮する命、とうていそこでは命が育まれないという絶望の中にあっても、輝く命なのです。その命とは、単にその苦難や困難を味わいなさい、そこに命を救う源があるということではありません。単純に苦難や困難の中にあれば、命の危険性はますだけであって、苦しみは苦しみのままなのです。そこには何の希望もありません。主イエスが言われる命を救うとはそういうことではなくて、わたしのために失う命、ようするにキリストのために命を失う者が、それを救うということなのです。キリストのためにというのは、キリストに生きる命です。だから自分自身の中では命を失うのです。心地よいところ、安全な場所における限られた命は限られた命なのです。そうではなくて、キリストに生きる命とは、自分の十字架を背負い、苦難や困難の中にあってこそ、命の可能性が広がるということです。

ここで主イエスが私たちの救い主となるために歩む道は、ただ死に向かって歩む道ではないということを今日の御言葉から聞いていきたいと思います。わたしのために命を失う者は、それを救うという根拠は、この主イエスキリストこそが命の救い主であり、私たちに命を与えてくださる方だからです。主イエスの予告の言葉をよく聞いていただきたい。殺された後、三日目に復活することになっているとあります。この復活の命こそ、キリストに生きる命なのです。それは決して死なない命ではありません。死ぬのです。苦難の後に殺されてしまうのです。しかし、その死に勝利されることをすでにここで予告されているのです。それは、主イエスがこれから歩む道のゴールが死の先にある命だからです。命の道なのです。

わたしに従いなさい。しかしそれは、自分の命を捨てて、それで終わりというわけではなく、それを救うと言います。私たちの人生の嵐は激しく、常に揺れ動き、不安、悩みは絶えず、苦難が待ち受けているかもしれません。しかし、その苦難を通して、私たちはキリスト、永遠の命をもたらすキリストという土台の上で、生きながらえるのです。どんなに揺れ動かされても、私たちの中にあるキリストの土台が支えてくれるから。神の愛ががっしりと私たちを掴んでいてくださるのです。だから、私たちの土台となってくれるキリストが共にいてくださる。いつ崩れるかわからない自分自身という土台を払って、このキリストの土台を受け入れること。それこそが、自分の命を失い、キリストが与えてくださる命に生きることなのです。

今日の第2日課でありますガラテヤの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(32628

神の子として、キリストを着ている。パウロはこう表現しました。そう、キリストに覆われているのです。この覆いが私たちを支えてくれる。さらに、この覆いに入っているのは、あなた一人ではないということ。キリストによって、ひとつされている私たち相互間の歩み、愛し合う友がいつもいてくれるということであります。男も女も、人種という壁を突き破って、キリストに連なる私たちの姿があります。ここに真の命があり、その喜びを分かち合いましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月30日 聖霊降臨後第3主日の説教 「安心して行きなさい」

「安心して行きなさい」ルカによる福音書7章36~50節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前、教会だよりなどでも紹介したことがあるのですが、イエスキリストの十字架による罪の赦しとは何か。ということについて考えていた時に、三浦綾子の小説「道ありき(青春篇)」を読んで、ヒントを得たシーンがあります。

彼女は学校の教師をしていましたが、敗戦を迎え、教師として教えてきた、信じてきたことを否定されてしまいます。さらに、彼女は若くして、当時死の病と恐れられていた肺結核を患い、療養所での闘病生活を余儀なくされてしまうのです。信じることを恐れ、虚無的になっていた彼女は、そこでお酒を飲み、煙草を吸うなどして、治療に専念できませんでした。そんな時、この療養所で前川正という、後に彼女をクリスチャンに導く青年と出会います。彼は心から彼女の行く末を案じ、何かと気にかけるのですが、当の本人は心を開くことができず、生きることに意味を見いだせない自虐的な言葉を彼にぶつけます。ある日、彼は彼女を春光台の丘という場所に散歩に誘います。2人で景色を眺めていた時、生きることに消極的な発言ばかりをする彼女に対して、前川正は彼女に諭します。しかし、そんな彼の発言に反発するかの如く、彼女は身体に悪影響のあるたばこに火をつけて、たばこを吸おうとします。その時、彼は彼女の健康を心配する言葉を発しながら、深いため息をつき、そして、傍にあった小石を拾って、突然自分の足に打ち付けました。彼は涙を流して、自分の足を打ち付けながら、自分がいくら神様に祈っても、自分には彼女を救う力がないということを悔やみます。彼女はそんな石を打つ付ける彼の姿、涙を流す姿に呆然としつつも、彼の姿から、己の生きる道を指し示されました。小説の中で、彼女はこう語っています。

「自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。」

前川正の姿にキリストを見出した彼女の人生は大きな転機を迎えます。その後、このキリストが彼女の人生の土台となっていくのです。心を開き、現実を受け入れて、前向きに生きていく彼女の姿が描かれていきます。彼女に生きる力を与えた前川正の姿を通して示されたキリスト。石を打つ付ける前川正の姿の中に、私は十字架の贖いを見出したような気がしました。キリストの十字架は、かたくなな私という存在を受け入れてくださり、生きる道を指し示してくれる神の愛であると知った時、「救い」とはこういうことなのかと。罪赦されて、神様と向き合い、自分を神様に委ねるという新しい命に自分も与っているのだという導きを、改めて今も感じております。

主イエスはファリサイ派のシモンの邸宅に招かれ、食事の席に着きました。ここイスラエルでも食事は親密の証しです。相手との信頼関係を深め、交わりを豊かにするものです。その時「一人の罪深い女」(37節)がシモンの家に入ってきました。当時のユダヤでは、客が招待されている席に他の人が入って来るのは、ごく当たり前のことでした。けれども、入って来たのはシモンの忌み嫌う罪深い女性だったのです。この女性は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(3738節)とあります。これはお客さんに対するもてなしの態度だったと言われます。家の主人であるシモンではなく、この女性が、しかも涙でぬらしながら主イエスをもてなしたのでした。「足を涙でぬらし始め」とある「ぬらす」という言葉は「雨を降らせる」とも訳せる言葉です。つまり、雨が降るかのように、女性は激しく泣き続けていたということでしょう。

この光景を見ていたシモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と思っていました。シモンたちファリサイ派の人々はわかっていたかもしれませんが、この女性がどのような罪を犯して、罪深い女と言われるようになったのかはわかりません。そして今、この女性が、罪深い者が主イエスに触れていることが問題であると言うのです。もし預言者なら、そういうことは許されないはずだと。しかし、この人はこの女性のしていることを注意せず、させるままにしておかれる。この人は私たちが求めている方ではないのか。罪人を裁き、神様の律法を忠実に守る人を救われる方ではないのか。そのような期待を抱いていたのでしょう。彼らファリサイ派と呼ばれる人はそれほど真面目に、人々の模範となるぐらいに、神様の教えを守り、人々に教え、そこに生きていた人たちなのです。ですから、彼らはその女性に裁きの眼差しを向けつつ、さらにその厳しい眼差しはあの罪人を野放しにしておかれる主イエスに対しても向けられ、主イエスに対して疑問といらだちを覚えていたのでしょう。

主イエスはシモンたちの眼差しをおそらく受け止めていたのだと思います。だから、彼らにある話をしました。借金のお話です。金貸しからある人は500デナリオン、ある人は50デナリオンを貸りますが、両者ともお金を返せず、金貸しは彼らの借金を帳消しにするというお話です。そして主イエスはどちらがこの金持ちを多く愛したかと質問します。質問に対し、シモンは500デナリオン借りた人の方が、多く金貸しを愛すと答え、主イエスは彼の答えを肯定しました。

ここで主イエスは「借金を帳消しにしてもらって、どちらが多く喜んだか」と言っているのではなく、「愛する」という言葉を使っています。帳消しにしてもらった人が、喜びに満ちて終わるということに留まらず、金貸しと「愛する」という関係性にまで発展しているのです。また主イエスは「多く」という言葉を使っています。愛するということに多さ、少なさということがあるのかと思われるかもしれません。そういう疑問を抱く私たちに、敢えて主イエスは私たちに言われるのです。それはなぜか、次のシモンへの言葉でわかります。44節です。主イエスは女性の方を向いて、シモンに「この人を見なさいか」と言われました。「この人を見ないか」。印象深い言葉です。主イエスに言われなくとも、シモンはこの女性を見ていた。何を見ていたのか。この女性の罪深さです。涙ではなく、裁きの眼差しで見つめていたのです。そして、彼女を見て、自分の立ち位置を確認し、彼女は自分より罪深いと思っていたのでしょう。しかし、彼自身は主イエスを見てはいないのです。神ではなく、自分ばかりを見ていた。そこで主イエスは言われたのです。「この人を見よ」と。見方を変えろとまで言っているかの如く。シモン、あなたは私を見ていなかったと言われるかのように、自分に対するもてなしは一切しなかったと、シモンに言われます。それでも主イエスは尚自分を見ろとは言っていないのです。この人を見よと言われる。何を見るのか、「愛の大きさ」を見よと言われるのです。

この女性は涙を流しました。涙で主イエスの御足を濡らしました。主イエスをもてなしたのは、この涙です。この罪人の涙なのです。この涙が表すのは、悲しみ、苦しみからくるものだったのでしょうか、それとも喜びや感謝から来るものだったのでしょうか。この涙にはそれらすべての思いが詰まった彼女の存在そのものが突き動かされるものだったのではないかと思います。雨を降らせるほどに激しい彼女の思いが込められている涙です。主イエスはこの涙を通して示された愛の大きさを、彼女が多く赦されたことに対する実りであると言います。

愛の大きさに見られる罪赦された彼女の姿を、愛に生かされて、新しい歩みを成そうとしている姿に目を向けなさいと、主イエスはシモンに言われるのです。それは彼女の主イエスへの愛の大きさに示された彼女の姿の中に、主イエスはおられるということなのです。神の御心がそこに示されているのです。主イエスは彼女の涙を受け入れ、その涙の中に留まれた。涙に示された罪深さの中に、共におられたのです。シモンは彼女の涙の中におられるキリストを見てはいなかった、いや見出すことはできなかったのです。

主イエスは最後に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。あなたは救われたと言っただけではなく、彼女の信仰によってと言います。あなたは愛されている、赦されているから大丈夫だと、それだけを言っているのではないのです。彼女の涙と共におられる主イエスによって、彼女自身が愛するものとして新しい生き方へと導かれているということを表しているのです。

エフェソの信徒への手紙3章18~19節でパウロは言います。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、実に豊かな表現です。これだけ多くの人を助けた、これだけ多くのことをして、役に立つことができたという目に見える大きさ、上だけを見る直線上に縛られる愛の範囲ではありません。また自分の立場、環境によって、ファリサイ派の人であろうと、罪人であろうと、愛の大きさを表せるかどうかということは計ることができないのです。私たちの側ではなく、人の知識をはるかに超える愛の実りが、今まさに彼女の涙の中に、愛と赦しの涙として表されているのです。その信仰を彼女の涙に見られます。ただ泣きじゃくった涙ではなく、キリストが受け止めてくれた涙です。その涙の中に示された彼女の罪深さと赦し、そしてキリストへの愛。この涙こそが彼女の信仰であり、彼女自身を救ったのです。

私たちは、彼女の涙を通して、その涙に示された罪深さの中に共におられるキリストを仰ぎ見たいものです。教会讃美歌307番「まぶねの中に」の4節の歌詞にこう書いてあります。この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ 人となりたる 活ける神なれ。

私たちは何を見るのか、何を見て自分の土台を築くのか、人生を歩んでいくのか。他人の落ち度でしょうか。失敗でしょうか。弱点でしょうか。そこにしか目を向けられないところに、人間の盲目さが現されます。人間の弱さ、みじめさ、無力さの中に、嘲りを見出しますか、それとも、神の憐れみを見出しますか。問われているのは私たち一人一人です。しかし、私たちがどのような目で、何を見ようとも、キリストは私たちに十字架による赦しの愛を示してくださいます。この罪深い女性のため、またシモンのため、そして私たち一人一人のための十字架なのです。だから、あなたは赦されている。愛に生きることができるとキリストは言われます。愛の招きが私たちに向けられています。神への愛の大きさは、神への信頼です。この信頼へと思いを委ねて、自分自身の土台を築いていきたい。「この人こそ 人となりたる 活ける神。」私たちの只中に宿られ、私たちの涙、労苦と共に歩んでくださる方です。どこまでも一緒に。終わりの時まで。この神様と共に、平安の内に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日の説教「返される神」

「返される神」 ルカによる福音書7章11~17節 藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  梅雨時ですが、緑豊かな新緑の季節となりました。そして教会歴の色も緑になりました。緑の典礼色は希望や成長という意味があります。緑一面の木々を見て、成長の豊かさを感じるものですが、この希望や成長とは神様の御業におけるものであります。神様がもたらしてくださる希望であり、豊かに成長して実りを与えてくださる神様の恵みです。

聖書にはその希望や成長をもたらしてくださる神様の御業が至るところに描かれていますが、それは人々の苦難や悲しみといった闇の只中に示されたものでした。光が闇の只中で輝くように、絶望の中で、神様は希望の光を与え、私たちを慰め、導いて行かれるのです。

さて、主イエスが弟子たちと共にやってきたナインの町では、主イエスの歩みとは入れ違いに、これから町の外に向かって行こうとする人々の姿がありました。それは、やもめである母親の一人息子が亡くなり、その棺を担ぎ上げて行進していく一団でした。おそらく町の外にあるお墓に埋葬するためであったのでしょう。ですから、葬儀を終えて、これから葬送の行進をしていく人々と主イエスは遭遇したのです。

この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。

主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。母親としてしっかりしろという意味で言ったわけではありません。この母親のまなざしを全く別の方向へと導くためでした。主イエスはその言葉をどこから語られているのかと言いますと、それは母親の涙の中から語られているのです。同情はしているが、涙の外にあって、悲しみとは別次元の所から語っておられるのではないのです。主は確かに彼女の涙の中に共にいてくださっているのです。

それは主がこの母親を憐れんでおられるからです。ただそれは私たちの憐れみ、私たちが同情を寄せるのとは異なります。この憐れみという言葉は、人間の「はらわた」とか、「内臓」という言葉からきています。それは人間のいのちを司るものと思われているものです。憐れに思うというのは、はらわたが痛むということです。命を司る器官が痛みの内にあり、急所にぐさっとつきささるほどの絶大な痛みを伴っているのです。彼女の痛みを我が痛みとなされる憐れみの神がおられるということです。ようするに、この母親の、私たち人間の痛みに神様は素通りして行かれる方ではないのです。素通りして、悲しむな、泣くな、絶対に救われるから大丈夫だと蚊帳の外から語っておられるわけではない。痛みを伴うところに、神様は立ち止まられるのです。神様はそこにおられるのです。私たちの痛み、悲しみ、涙の中に。

「もう泣かなくともよい」。その言葉は主イエスが彼女に命のありかを示す言葉でした。息子の死を通して、もう命はないと思っていたわけです。それは私たちも自然と受け止めることです。しかし、息子は生き返って、命は返されたのです。息子自身の中にではなく、主イエスにある命です。主イエス、神様によって与えられている命に私たちは生きているのだと。

私たちの感覚から、この息子はただ眠っていたということではありません。確かにこの息子は死の内にあったのです。起きなさい、この主イエスの言葉によって彼は生き返りました。主イエスが彼と共にいてくださったからです。主イエスを離れては、命は与えられないのです。そして16節で「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言います。ここで現れたという言葉がありますが、実はこの言葉が14節の「起きなさい」という言葉と同じ言葉なのです。死の淵から起き上がった息子のように、主イエスも人々の間で起き上がって現れた。まず初めに主イエスご自身が死の淵から起き上がった。生き返ったということ。だから、主イエスご自身の中に復活の命があるのです。起き上がるという言葉は、復活するという意味の言葉でも使われています。主イエスが与えられる命は、死を素通りしたものではなく、死を通って与えられている命なのです。

主イエスは私たちに憐れみを示されます。我が心の痛みとしてくださいます。そして痛みだけでなく、主も死なれるのです。十字架にかかって死なれ、究極の憐れみを私たちに示されるのです。ただ神様の答えは、その死がゴールではないということ。神様の命であるということをキリストの復活の内に見ることができるのです。

私たち人間にとっての命のありかは、主イエスの中に見ることができます。復活の主の中における命です。

私たちはもう死なない世界の中に生きているわけではありません。この息子もまたいずれは死を迎えたことでしょう。それは描かれてはいませんが、主イエスは復活の命を通して、私たちを死における孤独の中には立たせない、私がどこまでも共にいると約束してくださっています。

私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。辛さの只中にあって、「神はその民を心にかけてくださった」のです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。

死の現実がしか見えない痛みと悲しみの中に、主は憐れまれ、死に覆われているところに、命の光を貫かれました。主ご自身が死なれ、復活の命を明らかにしてくださるからです。だから「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。これは私たちへの約束の言葉、命の言葉です。主イエスは死の傍らにある私たちを通り過ぎず、そこで立ち止まられ、このように約束してくださいました。だから、この主イエスの恵みを知り、私たちはこの命の主イエスを語り続けていくことができるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月16日 三位一体主日礼拝の説教「聞いたことを語る」

「聞いたことを語る」 ヨハネによる福音書16章12~15節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週のペンテコステにおいて、聖霊の働きが御言葉を通して私たちに示されました。この聖霊について、今日の福音書で主イエスはこう言われます。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(13節)聖霊、それがここで真理の霊と言われています。この霊が私たちに真理を悟らせる、真理へと導くというのです。真理と聞くと、何か哲学的な難しいことを考えてしまうかもしれませんが、聖書では、主イエスがご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」(14:6)と言われているように、それは主イエスキリストに関わることであり、主イエスによって真理が明らかになったということを告げているのです。では主イエスが明らかにされる真理とは何か。それが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)とご自身が言われるように、神様のこの世への愛、私たちひとりひとりへの愛であり、それは十字架と復活を通して、私たちに示されたことなのです。その主イエスの真理の愛を悟らせるのが聖霊の働き、導きなのです。真理は神の愛を悟らせると言えます。だから、真理と愛は重なっている、切っても切り離せないものであると言えるでしょう。

しかし、直前の12節で、主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」と言われます。理解できないというのは単なる知識としての理解ではなく、口語訳聖書でこの箇所を「あなたがたには堪えられない」と訳されているように、今の彼ら弟子たちには堪えられない、受け止められないことだというのです。この主イエスの告別説教と言われるヨハネ福音書の16章の姿に見られる弟子たちの心境は、主イエスとの別れを告げしらされ、悲しみの極みの中にあったものでした。その堪えられない、受け止められないことが、「出来事」として起こってくるのです。すなわち主イエスのご受難と十字架の出来事であります。無残とも理不尽とも言える十字架の死、この世の敗北者として、惨めな主イエスのお姿の中に、彼ら弟子たちはそれが自分たちへの贖いの業、救いの業であるということを見出すことはできないのです。彼らはあの十字架から逃げ去ってしまうからです。

主イエス御自身は今、語らないのです。語られることは、語られるだけに留まらず、出来事として、彼らに、いや彼らだけでなく、イスラエルの人々に、さらに私たちに示さなくてはならないあの十字架の出来事だからです。子なるキリストの贖いの業を成就させるために、主イエスは今お語りになることが出来ない堪えざる真実を弟子たちに、私たちに示しておられます。しかし、それは耐えざる真実に留まらないのです。そう、堪えることではなく、それが救いの出来事として、喜びへと変えられる。それでも、この世の価値観が逆転するのではなく、堪えざることは耐えざるままです。現実は変わらない、自分たちでは変えられないのです。

しかし、彼ら弟子たち、そして私たちを変えて下さる方を主イエスは証しされる。それが「真理の霊」です。私たちを導いて、真理を悟らせる方。その方は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方は主イエスに栄光を与える、すなわちそれは、主イエス御自身に神様が顕されるということ、もっと、具体的に言えば、あのみすぼらしく、無残な十字架上の主イエスのお姿の中に、神様が、その愛が示されていると言うのです。弟子たちは、この神様の愛を、真理の霊によって受け止める。パウロがローマの信徒への手紙5章5節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っていることなのです。

また主イエスは真理について、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とも言われました。この自由というのは、何でもかんでも傍若無人に振る舞い、何をしてもいい、許されるという意味ではありません。真理によって、本当の自分自身が見出されるということです。誰に強制されてでもなく、また自分を偽るのでもなく、そのままの自分が見出される、本物の自分自身であるということです。それがはっきりとするということなのです。真理は本物のあなたを見出す、それを導くのが聖霊の働きであると言えるでしょう。

相田みつおさんの詩に、こういう詩があります。

トマトがねえ/トマトのままでいれば/ほんものなんだよ/トマトをメロンに/みせようとするから/にせものになるんだよ/みんなそれぞれに/ほんものなのに/骨を折って/にせものに/なりたがる

トマトがメロンを意識することによって、トマトがメロンになろうとする、またはメロンと比べるトマトの姿がある。トマトは自分自身であって、メロンは他者であり、自分があこがれるものなのかもしれません。それになりたい、またはトマトである自分がメロンのようなより価値あるものとして見せたい思いが私たちの中にはあるのかと思います。しかし、それは骨を折って、にせものになりたがる自分の姿があるのだと、この詩は私たちに伝えているように思えます。トマトというほんものの自分がありながら、メロンに縛られている自分の姿があります。トマトがメロンを無視して、気まま勝手にふるまえということを言っているわけではなく、トマトであるほんものの自分を知り、自分自身がそれに気づけているのかということが言われているのです。自分自身でも気づかない、本物の自分に気づかされる出会いや経験があります。トマトはトマトのままで本物の自分があるのです。そのはっきりとした真実、真理へと導いてくれる力が、真理の霊である聖霊の導きではないでしょうか。真理の霊はキリストを私たちに紹介し、キリストは本物のあなた、そのままのあなたを愛されるのです。メロンと比べるわけでもなく、メロンを拒絶するものでもなく、トマトであるあなたのままに、キリストは私たちを愛し、命を与えてくださっているのです。

そして、先ほど愛と真理は重なっている、切っても切り離せないものであると言いました。本物のあなたのままに、神の愛はあなたを愛しておられ、あなたの存在を喜んでくださっているのです。それはルカによる福音書15章にある(15:1~7)一匹の迷いでた羊を探す見つけたときのあの羊飼いの喜び、ぼろぼろになって、迷い、道を失っていた羊が羊飼いに探され、見つけられたという見出される喜びなのです。そして羊飼いもまた、羊のために命をかけて羊を探すのです。その姿はあの十字架に見出されるのです。真実の私たちの姿、ありのままの姿の中に、キリストは近づいてきてくださり、私たちが努力をして、それこそトマトがメロンになるように、自分を偽って、見栄えよくすることによって神様の神秘に近づくことができるのではなく、トマトである自分と同じトマトの姿で、つまり人間の姿でキリストは私たちのところに来て下さったのです。「真理をことごとく悟らせる」、真理の霊は、真実の私たちのままに神様が愛し、その存在を肯定してくださっていることを私たちに気づかせてくださるのです。その神様の恵みが日毎に私たちに注がれ、私たちを生かしてくださっている。その真理へと私たちを導いてくださるのです。

真理の霊によって見出される神様の愛、キリストが命をかけて愛してくださっている十字架の愛と、その死から生き返った復活の命の中に真理があるのです。自分が自分らしく、オープンに生きられる、いや生かされる人生。キリストは私たちに、神様の御心を顕された方、神様の愛をオープンに示してくださった方なのです。十字架の赦し、復活という永遠の命の約束は、この世の価値観では、虚無に等しいけれど、理解されないけれど、神はあなたを愛す、そのメッセージを、御身を持って示されたキリスト。その喜びを真に私たちに悟らせてくださるのが真理の霊、聖霊なるお方なのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。