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2009年6月14日 聖霊降臨後第2主日 「新しい生き方を」

マルコ2章18節~22節

 
説教  「新しい生き方を」  大和 淳 師
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
だれも、縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。

  今日からまたマルコ福音書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思いますが、ここには断食ということが出てきます。そもそも旧約聖書のレビ記には、年に一度、贖罪日の時に断食することだけが規定されていましたが、イエスの時代の頃には、今日の箇所にあるファリサイ派の人々は週二度、月曜日と木曜日に断食していたようです。またルカ18章には、そのことを誇りとするファリサイ派の人々のことが書かれています。また同じく挙げられている洗礼者ヨハネの弟子たちもやはり厳しい断食していたようです。そもそも洗礼者ヨハネの教えは、何より悔い改めでしたが、その悔い改めの行為として、断食を行っていたのでしょう。これもマタイ11章18節を見ますと、その彼らの断食を評して、「悪霊につかれている」と人々が言っていたようです。つまり、正気の沙汰ではないと思われたほどであったのでしょう。

   ところが、イエスは、そのように断食を弟子たちに課さなかったし、自らも断食の習慣を持とうとはされなかったようです。それどころか、今日の直ぐ前の箇所にあるように、むしろ、食事を絶つのではなく、共に食事をする人でした。ですから、先のマタイ11章には、〈ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。〉、イエスについて、こう人々が評していたと記されています。ですから、ここで「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」、というこの問いも、非難の意味がこめられていたのかも知れません。つまり、弟子たちのことを取り上げつつ、しかし、そこには徴税人や罪人の仲間であるイエスに対する非難を遠回しにしているのでしょう。

   しかし、それに対するイエスの答え、それは、実に意表を突くたとえでした。〈イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。〉(19-20節)。今は、いわば結婚式、婚礼の真っ最中なんだ、このイエスと共にある人々は、その婚礼の客なんだ。だから、どうして、そんな時に断食する必要があるだろうか、と。そして、しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」。その時には、嘆き悲しむであろう、と。

   この「花婿が奪い取られる時」とは、ご自身の十字架にかかられることであると言います。それは、この言葉はイザヤ書53章8節の「私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から絶たれた」の預言、この「奪い取られる」とイザヤ書の「絶たれる」は、ギリシャ語では同じ言葉なので、つまり、十字架にかかられたことを意味しているというのです。そこから、キリスト教が断食をするのは、キリストの十字架にかかられた日、聖金曜日である、マルコは、そのことを教えているのだ、と解釈する人もいます。しかし、ここで明らかなこと、それはこの主イエスの言葉は、断食をするかしないか、あるいは、いつするのかということではなく、何よりこのキリストと共にあること、共に生きること、キリストと共に喜び、そして、キリストと共に苦しむこと、それがご自分の弟子たちであることを語っている、そう言っていいでしょう。言い換えれば、わたしたちの喜びも苦しみも、このキリストから来るのだということです。パウロは、フィリピの手紙の中でこのことを端的に次のように言います。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)。苦しむことも、恵みとして与えられているだよ、わたしたちは、とパウロはそこで語りかけています。喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、と。

   しかし、苦しいときに、それは恵みとして与えられている、わたしどもはなかなかそう思えない、いえ、苦しみが恵みと思えないから苦しむだ、そう言っていいでしょう。だから、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、とは到底思えない、かえってつまずく、そう言っていいでしょう。けれども、いずれにせよ、そんなわたしどもの思いは、いわば実は自分は変わろうとせず、言うなれば、自分ではなく、神の方を変えようとする、あるいはまた自分の周囲、他者や環境だけが変わることを押しつけてようとしているわたしであると言えるかも知れません。そして、この自分を変えようとしない、変えたくない、その背後には、実際自分を変えようとしても、なかなか自分の思うとおりには変われない、変わらなかった、そういう思いがあるからでしょう。

   だから、ここで主イエスは〈だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉、そう言われますが、この言葉を、決して変わらない、まだ〈古い革袋〉であるわたし自身が、み言葉、イエスさまという〈新しいぶどう酒〉を受け入れてもだめになるだけだ、そんな意味にしかとれないわけです。つまり、〈新しい革袋〉になれない自分なのだから、もし、このことを真剣に受け取るならば、どうしたら〈新しい革袋〉になれるだろうと悩み苦しむ以外にないわけです。しかし、それは、自分、わたしの思い通りに変わりたい、つまり、自分で自分の思い通りに変わろうとしているだけなのです。そうして、そのような自分の弱さ、貧しさ、惨めさ、それはわたし自身、わたしのものではない、そう思い続けているからではないでしょうか。

   ところで以前、渡辺和子先生の御著書からニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に残されているという、一人の患者が書いた言われるというこんな詩を知りましたが、これは紹介したこともあるので、ご存じの方もおられるかも知れません。

   〈大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと 病気を賜わった/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いは すべて聞きとどけられた/神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表わせない祈りは/すべて叶えられた/私は 最も豊かに祝福されたのだ〉それで、この詩を記した人は思わぬ病や事故で体が不自由になってしまったのでしょうか。かつて健康を願い、成功と賞賛を求めたこの人の祈りは、求めたものは一つとして与えられなかったのに、しかし、神の意に添わぬわたしなのに、わたしの心の中の願いはすべて叶えられたと言うのです。それで、〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉というその〈新しい革袋〉とは、結局、わたしが想い描く立派な自分、有能である、常に正しく、あるいは強く、他から尊敬されるような、そういう新しい自分なのではなく、まことに弱さ、貧困、あるいは病気、失敗・・・そのようなわたしである、いや、それを通してこそ、神は恵みをわたしに与えてくださる、ということ ― 喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。だから、そのように自分を、わたしを変える、変えてくださるよう祈る、まことにそこにこの十字架のキリストが立っておられる。そのことが〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に〉ということである、そう言えるのではないか、と思うのです。〈新しいぶどう酒〉、〈新しい革袋〉とは〈永遠に変わらないぶどう酒〉、〈永遠に変わることのない革袋〉、そう言い換えてもいいでしょう。と言うのも、聖書において、新しいということ、これはもちろん、今までなかったと言う意味で新しい、そのように使われますが、しかし、聖書がいう本当に新しいとは、もっと根本的に決して変わらないもの、永遠に変わらないもの、つまり、神ご自身のみ、あるいはその神から来るものだけなのです。

   それで、渡辺先生はこう言われていますが、先の詩を書き残した人も、直ぐにそのように受け止められたわけではないでしょう。きっと、眠れない夜を幾夜も送り、時に絶望し、嘆き悲しみながら、祈り求め続けたのでしょう。でも求めたものは一つとして与えられなかった、だが神さまは心の中の願いをすべて叶えてくださった、わたしの思いではなく、本当に意に添わないはずの、そのわたしに必要なもの、永遠に変わらないものをいつも与えてくださるのだ、心の中の願い、わたしがわたしである安らぎを与えてくださったと。だから、弱さを通してこそ、神さまはわたしに本当に必要な新しい革袋、決して永遠に失われることのない革袋を用意し、与えてくださる。それがキリスト者としての新しい生き方、このキリストと共に喜び、キリストと共に泣く生き方なのです。

   だから、わたしたちが経験する出来事のひとつひとつ、たとえ、それがどれほど辛い、悲しいことに思えたとしても、それらは無意味なものでも、不条理なものでもない。それも神が与えた出来事と考えられる時に、今は恵みとは分からない、思えないけれどもそれでも自分の人生として受け入れて生きていくことができるようになるということでしょう。わたしたちには、今恵みとは分からなくても、共にいてくださる神においては神のご意志、愛、み恵みが変わることなく貫かれている ― そのことを信ずることができるなら、あるいは、その愛、神のご意志が貫かれることを祈り求めるならば、その時にこそ、わたしたちは不安を乗り越えることができるのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちは神の御手の中にある全体の一部を知っているに過ぎないのです。しかし、それは逆に言えば、神は全てを知っておられる、ということ。全ては神の御手の中にあるということ。その神の御手、ご意志とは、決して冷たい運命や宿命、あるいは暴君のようなものではない、このわたしをただひたすら愛するが故に、このわたしの全てをご存じである ― このことを信じる、この身に帯びていく ― そこに既に〈新しい革袋〉、新しい生き方が始まるのです。もっと言うならば、どんなことにおいても、喜びも、苦しみも神が与えてくださったことだと信じることが、私たちの人生を新しい、どんなことにおいても決して変わらない生き方にするでしょう。キリストが変わらずにそこに立ち、共にいてくださるのです。

   さまざまなことがあるでしょう。受け入れがたい現実に直面することだってあるでしょう。しかしこの試練も、自分の思いに反するようなことが続くときでも、この人生は神に与えられたものなのなのです。だから、あなたの人生は無意味であるはずがない、理不尽のまま、不条理のままであるはずはないのです。〈新しいぶどう酒は新しい革袋に〉、そういう生き方が既にわたしたちの中に始まっているのです。

2009年6月7日 三位一体主日 「風は愛するままに吹く」

ヨハネ3章1節~12節

 
説教  「風は愛するままに吹く」  大和 淳 師
ところが、パリサイ人の一人で、名をニコデモというユダヤ人の指導者がいた。
この人が、夜イエスの所に来て言った、「ラビ、わたしたちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています.神が共におられるのでなければ、あなたが行なっておられるこれらのしるしを、だれも行なうことはできないからです」。
イエスは彼に答えて言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう? もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?」
イエスは答えられた、「まことに、まことに、わたしはあなたに言う.人は水と霊から生まれなければ、神の王国に入ることはできない。
肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である。
わたしがあなたに、『あなたがたは新しく生まれなければならない』と言ったことを、不思議に思ってはならない。
風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」。
ニコデモは彼に尋ねて言った、「どうして、そのような事があり得るのでしょう?」
イエスは答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師であるのに、このような事がわからないのか?
まことに、まことに、わたしはあなたに言う.わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?

 子どもの頃、故郷では山の向こうに富士山が見えました。晴れた日に、その美しい姿が見えると何か憧れのような思いでじっとよく見つめていたことを覚えています。そして、曇りや雨で見えない時も、ふと、ああ、あそこに富士山があるんだ、そう思ってその方向を見ていたことがありました。さて今日、ご一緒に読む福音書、そこには、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、そういうキリストの言葉が記されています。大変不可思議な言葉であると言っていいでしょう。「新たに生まれる」 ― 私たちもこのニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」、あるいは「どうして、そんなことがありえましょうか」、そう困惑しながら問うてしまうでしょう。けれども、わたしたちは、これらの言葉の上に、ちょうどあの富士山のように高く聳え立っているキリストの言葉を仰ぐことが出来ます。それは、今日の福音書の日課の後3章16節以下に、こう記されている言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、したがって、このニコデモもまた「愛された」者であり続けるのです。そして、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」、わたしどもは、ここでこのキリストが語っておられること、それはまさにそこから語っておられるのであり、そのようにニコデモに相対しておられるのだということを知るのです。

  もちろん、「夜」、キリストの下に訪れたニコデモの眼にはちょうど夜には見えないあの富士山のように見ることができないのです。したがって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と声をあげてしまう彼なのです。そのように「新しく生まれる」、それはこの地上に生きるわたしたちにとっては、全く疑わしく思えることです。だが、ニコデモ、そして、わたしたちの眼にはたとえ見えなくても、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである・・・」、この御言葉は、常に富士山はそこにそびえ立っているように、いや神の言葉は永遠であるが故に、それ以上確かに、そして吹いてくる風のようにわたしたちに働きかけてくる、そのことが心にくっきりと浮かび上がってくる出来事なのです。そして、この3章16節以下のこの御言葉と今日の個所の真中には、こういうことが語られています。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。わたしたちが、まさにニコデモのように、この地上で、わたしたちは誰一人「失われていく」「滅びていく」、そのようにこの眼には写るこの現実、まさに「夜」そのもののような生活、「どうして、そんなことが」とため息をもらす、苦悶している私たちのこの現実、だが、見上げるものがそこにある、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」 ― キリストは、ご自身の十字架をはるか指差しておられるのです。復活の命、そして、昇天の出来事を!ペトロはその手紙の中で、この富士山のようにそびえる私たちの希望についてこう記しています、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(1ペトロ1:3-4)。この望みのもとにある生活!

   だが、しかし、ニコデモはそこを見上げることが出来ません。ただ下を、地上を見続けるのです。ニコデモは、そのときこの方イエス・キリストご自身を見る代わりに、自分自身を見つめてしまうのです。それが、神が、したがって、この方が愛されておられるこの世の姿なのです。しかし、キリストはそんな彼の不可能さに対して更に助け舟を出すようにご自身を示されます、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「水と霊とによって生まれる」。つまり、「新しく生まれる」それは全く雲をつかむようなことではなく「水から生まれる」ことなのだ、と。もちろん、この水とはわたしたちにとって洗礼の水のことですが、「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」この「イスラエルの教師」ニコデモ、したがって、聖書を熟知し、人々を教え続けてきたニコデモ、その彼もまた、生まれた赤ん坊が産湯につかるように、水から生まれなければならない。今や彼に必要なのは、この地上のことにどれだけ熟知しえるか、ということではなく、またどれだけ確かな、そして豊かな知識と経験があるか、そういうことでもなく、まったくに子どものように、「水から生まれ」なくてはならない。彼に必要なのは、根本から必要なこと、それは霊、霊から裸で生まれることなのです。

   ところで、福音書は、このニコデモがキリストを訪れたのは「夜」であったとわざわざ記しています。それが夜であったというのには、色々な意味が込められているのでしょう。ある人は、その立派な肩書き、そして指導者と呼ばれる地位も名誉もあるニコデモが、夜、キリストを訪ねたのは、彼がそのような特別な地位にあるが故に、人目を避けてのことであったからと述べています。確かにそのような皮肉な眼をもって読むことも出来るでしょう。けれでも、また別の人は、彼がキリストを訪ね、そして、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」、そう告白するのは勇気がいったことであろう、そう言うのです。すでに彼の属するファリサイ派の人々は、このキリストと対立していたからです。ニコデモが勇気のある人であったのか、あるいはそうでないのかはともかく、そのようにわたしたちが考える「勇気」とは、何かに敢然として立ち向かい、征服・克服していこうとする、逆境に負けない気持ち、変えていく力、それを勇気と考えます。つまり、ともかく何かを変えようと立ち上がることです。若い時はそれでいい、と言うより、そのような勇気こそ若さの特権であり、向上心ということでしょう。

   けれども、人生にはもっと違った勇気が必要です。それは、一言で言えば、受け入れがたいものを受け入れる勇気と言ったらいいでしょうか。それで、このニコデモのことですが、彼は、結局、人は生まれ変わることは出来ないと言う。そういう意味では自分は変われない、そう言っているのだと言えるでしょう。では、そのことをニコデモが自分自身に本当に受け入れているかと言えば、むしろ、そうではないのではないか。ニコデモがここで受け入れられなかったこと、それは、キリストのこれらの言葉以上に、彼自身が言う他ならないこのこと、わたしは自分で新たに生まれることはできません、それを本当に率直に受け入れてはいない、本当にはできなかった、結局そういうことではないでしょうか。

   でも、キリストは、決してあなたは、あなた自身で変われ、そうおっしゃってはいないのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」、あなたは肉から生まれたものに過ぎないのだ、と。なるほど、そうなのです。しかし、その「母親の胎内」から生まれたのも、決して、わたしたちは、わたしたち自身で、自分から生まれたのではない。そのようにして母の胎を通して命を与えられたもの、だから同じように、霊から生まれる、同じように命を与えられる、キリストはそうおっしゃっている。
そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。これは確かに全く禅問答のように捕らえどころがないように思えるかも知れません。しかし、そのような者であることをただここで率直に認める、受け入れるしかない。ありのままの姿で、このキリストの前に立つ以外にない。でも、それは決して、恐らくニコデモにとって承伏しがたかったように、いわば情けないことではないのだ、むしろ、そのような裸の自分、何々に属して、何々をしている、出来る人間であるとか、こういうことを知っている、分かっている、そんな背伸びをもうしなくていいのだ、ということ。

   更にそれをもっと身近に言い換えれば、どんな姿の自分も嫌うことなく、その自分と仲良く生きる勇気といったらいいでしょうか、他人の助けなしには結局生き得なくなっていく、情けない自分を受け入れる勇気、年と共に休型が変わり、背も丸くなったり、しわが増えていくような、そんな自分を惨めに思わない勇気、そしてあれこれの病に無力になっていく自分を、しかしそれでも生かされていることを喜ぶ勇気、そのように、さまざまに味わう悲しさを一つひとつ〝我が物″として認める、受け入れがたいものを受け入れる勇気、キリストは、まさにそれをニコデモに与えようとしている、そう言えるのではないでしょうか。

  なるほど、「風は思いのままに吹く」、わたしたちがこっちだ、あっちだ、そう定めようとしても、決してその通りにならない。ではどうするのか、風の吹くままに生きる、ありのままにその風に身をさらす以外にない。そのように言うと、まことに無責任といいうか、心許ない思いをなされるかも知れません。吹けば飛ぶような自分を思わざる得ないのです。しかし、その「風は思いのままに吹く」、その風の思い、あるいは、「、それがどこから来て、どこへ行くか」、風の心 ― キリストは、そのことについて、はっきりとこう語っておられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

   みなさん、これが、風の思い、キリストの風なのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「一人も滅びない」、まことにそれが今日、わたしたち、吹けば飛ぶようなわたしに向けられた言葉、風なのです。つまり、こういうことです、「風は思いのままに吹く」、それは風は勝手気ままに、ということではなく、まさに風は〈愛するがままに吹く〉。それ故、「一人も滅びない」、決して滅びることはない、この風の中に、わたしもあなたもあるのだ、ということ。そして、単に「滅びない」というだけでなく「永遠の命を得る」。命、このわたしが生きるものとされている。

   まことに自分自身を真に見つめれば、情けない自分、みじめな自分、しかし、今やそのわたしに「風は思いのままに」〈愛するがままに吹く〉、生きるものとされている、そのような力を与えられるのです。わたしどもは、新しく生まれる、生まれ変わる、それを、まさにニコデモのようにまことにとてつもない、途方もないことのように思うのです。あるいは、あのまことに小さな自分、この平凡な生活、つまり、今わたしたちが実際に生き、そこで愚痴をこぼしたり、途方に暮れたりしながら、自分のわがまま、情けなさを感じているその生活と切り離して考える、あるいは、その自分がまことに見事な、堂々たる自分に変わるかのように。

   しかし、キリストのおっしゃることは、実は本当にささやかなこと、全く確かに目立たないことです。何故なら、このわたしたちのその平凡な生活、小さな自分を受け入れることだからです。そのようなわたしに途方もない大きな愛が注がれている、失われてはならないかけがえのないものとして慈しみ、命につないでくださっているからです。それを信じること!この受け入れがたいものを受け入れること!何故なら、神こそ、この受け入れがたいもの、受け入れがたいわたしをあるがままに受け入れてくださっておられるからです。それは具体的に言えば、たとえば人を笑顔で迎えようとか、あるいは他人と比較しないで自分の生活を大切にするという決意、実はそのようなほんのささやかな勇気、決意ではないでしょうか。日常生活の中でどんな自分も受け入れる、受け入れていこうとする勇気です。この大きな愛、命の流れの中に生かされているからこそ、わたしどもは、まことにこ些細な、小さな、取るに足らないと思えることにも忠実に生きていくのです。

   それ故、わたしたちに与えられている永遠の命とは、単に死後のことではありません。今をわたしたちが生き生きと生きていく力、希望です。希望は、常に誰か自分以外の者と共に持つもの、愛し、愛されているが故に生まれるものです。共に苦しみ、共に喜ぶこと、それが希望です。そのように永遠の命とは、わたしひとりの命のことではありません。キリストが与えてくださるように、キリストと、神と分かち合って生きる命のことです。そして、あなたなしにわたしが生きるのではなく、<一人も滅びない>と言われるように、わたしもあなたも共に生きる命です。一緒にキリストと共に生きることです。そこに教会の原点があるのです。共に生きるからこそ、苦しみもある、悲しみもあるでしょう。だからこそ、かつて旧約の民は、モーセが主の命令に従って造った<炎の蛇>を見上げて<命を得>ました。わたしたちは今、このキリスト、十字架を見上げましょう。主はこう言われるのです、「あなた自身の中を見下ろすのはではない。耐えきれないときに、憎しみに負け、不安、恐れに戦くとき、もう歩けないと立ち止まり、崩れ落ちてしまうとき、わたしの十字架を見上げよ、あなたは滅びてはならない、あなたはわたしと共に生きるのだ。<わたしが生きるのであなたがたも生きる>」と!

   今日も、あの富士山のように、わたしたちにこの御言葉が聳え立っているのです。だから、見えなくても、いや、見えないからこそ「新しく生まれる」― わたしたちはそれを信じる!この世の力がわたしたちを今わたしたちを脅かし、苦しめるこのとき、たとえ、わたしの眼には何も見えなくても、あのニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」、ただ出てくるのはそのような結論だけだとしても(実際、わたしたち自身からはそれ以外の結論はないのですから)、そうであるが故に、そのニコデモの前に立っておられる方、共に立ち続ける方、見捨てることのない方、イエス・キリストを仰ぐのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、まさに、わたしたちはどこへ行くかをなるほど知らない。この身が明日どうなるか知りません。すでに齢を重ねてきたわたしにはできないことがある。しかし、そうだとしてもわたしには今なし得ることがあるのです!何故なら「風は吹いている」のです、わたしに、あなたに!キリストの風は、愛するままに吹くからです。

2009年5月31日 聖霊降臨祭 「神さまのバリア・フリー」

使徒2章1節~21節
大和 淳 師

さて、ペンテコステの日が満ちた時、彼らはみな同じ場所に集まっていた。
すると突然、激しい風が吹いてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした。
そして、火のような舌が彼らに現れ、それが分かれて彼らめいめいの上にとどまった.
すると、彼らはみな聖霊で満たされ、その霊が彼らに語り出させるままに、さまざまな言語で語り始めた。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から来た信心深いユダヤ人が住んでいた。
この物音が起こると、群衆は集まって来た.そして困惑してしまった.なぜなら、めいめいが、自分たちの方言で弟子たちが語るのを聞いたからである。Read more

2009年5月24日 昇天主日 「天」

ルカ24章44~53節

 
説教  「天」  大和 淳 師
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。
イエスは彼らに言われた、「わたしがまだあなたがたと一緒にいた時、あなたがたに語ったわたしの言はこうである.すなわち、わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は、成就されなければならない」。
それから、イエスは聖書を理解させるように、彼らの思いを開かれた.
イエスは彼らに言われた、「こう書かれている、『キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する.
そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、彼の御名の中で、エルサレムから始まって、すべての国民に宣べ伝えられる』。
あなたがたはこれらの事の証人である。
見よ、わたしはわたしの父が約束されたものを、あなたがたの上に送る.ただ、あなたがたは、高い所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい」。

   東京にいますと、東京には空がないという智恵子抄ではないですが、空と言っても、ビルなどの建物に区切られた、本当に背景の一部でしかなわけです。そういう風なところで生活していると、自然、視線は上を向かない、やっぱりどうしても下、うつ向いて生きてしまいますね。せいぜい水平にしか視線は行かない。あるいはむしろこう言うべきだと思うのですが、ともかく空と地上が完全に区切られた世界である、と。

   それで、天を見上げることのない生活ということ、それは、ややもすればどうしても下を向いていく、あるいはうつむいていってしまう生活となっていうのですけれど、けれども、本当にこうして空があるということ、わたしたちの上には、わたしたちが見上げることのない天があるということ、そのことを思うわけです。わたしたちの上には天、空がある、これは勿論、全く当たり前のことです。自然ではないか、そう言われるかも知れない。でも、現代の人間は、果たして、本当に空のもとで生きているか、空を見上げながら生きているか、そういうことを思います。空と一体となっているか、と。

   そういうことを思いますと、あらためてわたしたちが水平に見ている町並みとか、道とか、山並み、そういう地上のもの、景色、それは実は本当にこの空の模様を反映しているということを思うのです。明るいまぶしいような太陽の光が降り注ぐ、そうして抜けるような青空、その光がどんなにこのわたしの居る地上と一体になっているか、あるいは曇り空、その柔らかな光、その下にあって見ている、それがこの地上であるということ、その光によって、一本一本の木がいろんな色に、それぞれ違って染まっている。まさに空無しにはないのだ、ということ、そういうことを思うのですが、勿論、この聖書が語るキリストは天に昇られたという、その天というのは、そんな風に目で見えるところの空ではなく、あるいはこの空の向こう、はるか彼方のどこかということではない、むしろそれは、最早わたしどもの考えを超えてしまっているのですが、端的にただ神のいまし給うところ、そういう意味です。そういう天、キリストがおられるところ、それはわたしたちが意識していようといまいと、使徒書の日課、エフェソ書が「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。・・・」、そう語っている、そのようにわたしたちのこの地上は、このキリストの下に今やあるのだ、ということ、つまり、本当に、今やこの世界、そして何よりもこの教会、それはこのキリストと一体なのだ、ということ。そのことをもっと端的にパウロは、こう語るわけです、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章34~39節)。

  「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」、そして、パウロは、それを「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、キリストが天に昇られたということ、それは、それほどにわたしたちと一体となられたのだ、そう語っている。

   そのことをルターは、1525年5月14日の昇天主日説教 ― わたしは毎年この説教を読み、また毎回のようにこうして紹介しているのですが ― その中でこう語っています。「キリストは上にましそしてそのはるか上からここにいる我らを治め給うために、天に昇られた、そのように考えてはならない。そうではなく、キリストはそこでこそ最も多くのことを創造し、治めることが出来るが故に天に昇られたのだ。何故なら、もし彼がこの地上に人々に目に見える仕方で留まり続けられるとしたら、彼はこれほど多くのことを創造したりはできないであろう。全ての人々が彼の傍らにあり、彼に聴くことはできないであろう。・・・だから、彼は今や我々と遠く離れてしまっているのだと、くれぐれも考えないようにしないさい。むしろ、事実は全く逆に、彼が地上におられたとき、彼はわれわれと遠く経だっていたのだが、今や彼はわれわれの近くにいまし給うのである。」

  つまり、わたしたちが、そういう風にキリストのおられる天を見上げる、仰ぐということ、それは即わたしたち凡てのものの足下、土台、それがどれほど確かなのもであるか、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、そのことを知ることだ、そう言っていい。

   けれども、そうであればあるほど、本当にわたしどもは、それにも関わらず、本当に自分自身の弱さというものを実感せざる得ないわけです。揺れ動く。あるいは、こんな風に疑いを抱く、もし、そのようにキリストが今やわたしたちと一体となっておられるなら、何故、わたしの生はこんなにも脆いのか、と。その中で感じるのは、ややもすると、あの天と区切られ、切り離されたようなわたしどもの生であるわけです。あるいは、そういう風に、わたしたちの中、互いにまた、このキリストの愛によって、わたしたちもまた一つとされている、まさにパウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ2章27,28節)、そう語っているのに、やはり現実には教会もバラバラではないか、と。

  そういうとき、わたしたちは、それはやはり自分たちの信仰の弱さなんだ、と、そう考える。信仰が弱いから揺れ動く、と。でも、本当にそうなのか。信仰が強ければ、たとえば、あの愛する長谷川さんの死は、悲しくないのか、痛みとならないのか。勿論、聖書の中には例をあげるまでもなく至る所で、そういうわたしたちの姿を不信仰、信仰の弱さであると、確かにそういうことも語っています。だから一面、そうなのですけれど、たとえば、あのパウロはまた、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」、そう率直に語り、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマ7章15-19節)と。ここで言われていることの厳密な意味はともかく、パウロもまた、自分のしていることが分からない。あるいは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、悪を行っている、つまり、それほど逃れようもなく自分は不信仰なのだ、そう言っているわけです。あるいは自分は罪人の頭であるとまで言うのです。

   しかし、同時にその弱いパウロは、また「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12章10節)、まさにそのように「強さ」についても語り得るのです。あるいは、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(〃11章29-30節)。一体それはどういうことなのでしょうか。

   「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、それほど確かな土台に据えられているということ、それは、だから即わたしたち自身がもう決して揺れ動くことはない、どんなことにもびくともしない、そういうものにキリスト者はなったということではないのです。むしろ、揺れ動く。いや、揺れ動いていいんだ。いや、土台がしっかりしているからこそ揺れ動くのだ、ということ。

   だから、本当に悲しいことの中で、本当に悲しむ、それどころか、何故、神さま、こんなことがあるのですか、あなたはあなたの右に座しておられるキリストによって、この世を支配されているのではないですか、と叫んでいい。痛ければ、痛いと泣いていい。でも、信仰とは、その揺れが大きければ大きいほど、まさに土台はびくともしない、全く強い力で、わたしを支えているのです。わたしどもは、自分の弱さを知れば知るほど、そのキリスト、その愛の強さを知るのです。まさに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)ということ、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(〃)そうパウロは呼びかけているのです。

   それゆえ、それは全く自然体、キリスト者の生き方は自然体の生き方である、そう言い換えた方がいいかも知れません。まことに苦難がある、あるいは行き詰まるようなことが起こる。まことに揺り動かされる、けれども、そういう時にこそ、この土台、キリストの昇天とは、まさに土台となられたということですが、その強さを仰ぐ、つまり堪え忍ぶということ。その時、わたしたちは、本当に驚くほど揺るぎないもの、力を知るのです。

   このキリストの昇天という主日、昇天、それは、なるほど、わたしたち自身は、痛み、悲しみ、苦しみに揺れ動くかも知れない、しかし、「神を愛する者 凡てのもの相働きて 益となる」、キリスト者はそのことを知り、また仰ぎ望んで生きる者であることを。
ルカ福音書は、キリストが天にあげられていく、いわば別離であるはずなのに「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」、彼らは悲しむどころか、大喜びで帰っていったのだ、とそう伝えています。

   それはまったく今やわたしどもの命はしっかりとこのキリスト、その命につながっている。そして、またこのキリストを通して、わたしたち一人ひとりとしっかりとつなげられているのです。わたしたちは今ここで既にありのままに一つの命に生きている。だからこそエフェソ書が語るように教会が生まれたのです。そこに教会があるのです。それが、キリストが天に昇り、父の右に座し給うということの意味です。自らは揺れ動くとも天を仰ぎつつこのキリストを証し続ける、それが教会なのです。だからこそ、あの弟子たちは彼らは喜んだのです。
さぁ、わたしたちもまた、今あるがままに大喜びで帰り、絶えず神をほめたたえていきましょう。