2011年10月30日 聖霊降臨後第20主日 「皇帝への税金」

マタイによる福音書22章15〜22節
説教:高野 公雄 牧師

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

マタイによる福音書22章15〜22節


今週の説教録については、「説教録の体裁」と「教会暦の名称」についておことわりすることがあります。
第一点は「体裁」についてです。今週は「説教」に代えて、礼拝で朗読した福音書の個所の「解説」を高野牧師が書くことにしました。次のような事情によります。
10月の最後の日曜日は、宗教改革を記念する恒例の行事として、日本ルーテル教団を形成している都内の六つの教会による合同礼拝が行われます。今年は、高野牧師も司式の補助を務めました。しかし、六本木教会でも礼拝を行なって欲しいという希望があり、安藤政泰先生に司式と説教を引き受けていただきました。安藤先生はアメリカで開かれた被災者支援に携わるルーテル教会の国際会議から戻ったばかりの多忙の身であり、説教録を書いていただくのははばかられました。
第二点は、「暦名」についてです。六本木教会でも「宗教改革主日」として礼拝を守りましたが、この説教録では「聖霊降臨後第20主日」としました。これは安藤先生と相談して決めたのですが、礼拝で朗読した聖書個所は先週の教会の暦に続く聖霊降臨後第20主日に配分されている個所を選んだからです。その理由ですが、一方で「宗教改革主日」の朗読個所は毎年同じ個所をくりかえし読んでいることと、他方で「宗教改革主日」と次週の「全聖徒主日」に指定の個所を読むと、今まで読み継いできた福音書の物語が途切れてしまいます。それで、マタイ福音の続きを読むことにしました。私は、この解説ではとくに宗教改革に触れないことにしました。

マタイはファリサイ派に偽善者と呼びかけるのが好きで、次の23章では6回もこの言葉を使っています。「偽善者」とは、もともと演劇用語で「役者」を意味したのですが、マタイ15章7~8では《偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」》とあります。マタイはたんなる偽善を言っているのではなく、神から離れた者を指して偽善者と言っているのです。
ファリサイ派の人々は、《皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか》と問います。イエスさまが納税に反対するならば、彼らはイエスさまを皇帝に逆らう者としてピラトのもとに告発することができます。納税を支持すれば、イエスさまは一般大衆の支持を失うことになるでしょう。ユダヤ人大衆にとってローマへの納税は、単なる経済的負担ということだけでなく、失われた自由の象徴として嫌悪の対象であったのです。

このように、この問いは相当に政治的な意図をもっているのですけれども、「律法に適っているでしょうか」と宗教的な用語を用いて迫ってきます。ところがイエスさまは、律法問題として論じてわなにかかる代わりに、ローマの通貨を示すよう求め、《これは、だれの肖像と銘か》と尋ねます。この通貨の表には皇帝の顔が浮き彫りされており、裏には「ティベリウス・カエサル(皇帝)、神聖なるアウグストゥスの子、最高の大祭司」、つまり異教のローマの宗教の大祭司とする銘が刻まれていたと言われます。税金はローマの通貨で支払うことになっているのですが、偶像が刻まれているその通貨をユダヤ人たちは神殿においてさえも使っていることをイエスさまはご存じだったのです。

《では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい》、こうイエスさまは答えます。これはどういう意味でしょうか。さまざまな解釈が可能性ですが、「イエスさまは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つです。しかし、「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考え方は近代になってから現れたものであって、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあると考えるのが当然でした。現代の教会も、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないと考えています。
つまり、異邦人の王でさえ、神から許可を得てはじめてイスラエルに権力を及ぼすことができた。皇帝の支配も神の意志によるのだから、税金を払うこともあるでしょうが、神が民を解放することを望まれるときには、皇帝の権力はなんの役にも立たなくなる、と言っているかのようです。
納税だけが問題なら、前半の《皇帝のものは皇帝に》だけで十分です。後半の言い足し《神のものは神に返しなさい》にイエスさまのねらいがあります。もしも「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスさまはもっと根本的なことに人々の目を向けさせているに違いありません。

ところで、皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているのでしょうか。それは一人一人の「人間」だという考え方があります。2世紀の神学者テルトゥリアヌスは、人間を「神の硬貨」と言って以来の解釈です。創世記1章27に《神は御自分にかたどって人を創造された》とあり、エレミヤ31章33に《わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す》とあります。つまり、イエスさまは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神のものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないでしょうか。《神のものは神に》。あなたは何が神のもので、何を神に返すべきだと思っているのか。イエスさまは私たち一人ひとりにそう問いかけているのではないでしょうか。