2011年12月25日 降誕祭 「真の光は世に来た」

ヨハネによる福音書1章1〜14節

説教: 高野 公雄 牧師

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

例年であればクリスマスは夕べの礼拝として祝うところですが、今年はめずらしくクリスマス当日が日曜日に当たりましたので、このように午前11時からの主日礼拝として守っています。

本日の福音はヨハネによる福音書1章1~14節です。この個所は学者たちによれば、福音書が書かれる前から歌われていた古い賛美歌がもとになっているそうです。私たちが礼拝を賛美歌で始めるように、ヨハネ福音も賛美歌で始めているのです。これは、他の福音書が地味な始まり方をするのと比べて、ヨハネ福音の目立った特徴です。

この個所には、「言」(ことば)という珍しい訳語が繰り返し現れます。これは新約聖書の言葉、ギリシア語ではロゴス logos といいます。「ロゴス」とは何でしょうか。イエスさまは2000年前にユダのベツレヘムで、おとめマリアから人としてお生まれになりました。そして30歳か33歳くらいで十字架に架けられて殺されてしまいました。キリスト教の信じるところによれば、その死は私たち人間を罪から救うための贖い(あがない)すなわち身代金にほかなりません。つまりイエスさまはご自分の命と引き換えに、私たちを死の闇から救い出してくださったのです。神はそういうイエスさまの贖罪死を良しとし、イエスさまが朽ち果てるのを見棄てず、死の三日後に復活させました。復活とは、この地上で息をふき返すことではなく、イエスさまが神の右に高く挙げられたこと、生きている人と死んだ人との永遠の支配者となったということです。この、救い主であり永遠の支配者であるイエスさまは、その十字架と復活によって初めて、いわば養子として受け入れられるように神の独り子となったのではありません。イエスさまは永遠の昔から神の独り子であったのです。イエスさまは2000年前に人として生まれる前から神と共に存在しているのです。昔も今ものちも生きているイエス・キリストを、福音書記者ヨハネは「神の独り子」とか「言」と言い表します。「言 logos」とは永遠の神の子イエス・キリストのことだったのです。

きょうの聖書本文から、元の賛美歌を完全に復元することは難しく、学者によってさまざまな意見が出されています。しかし、6~8節など、洗礼者ヨハネについての言及は元の賛美歌にはなかったもので、福音書記者のヨハネがあとから付け加えたものという点は一致しています。

もともとの賛美歌は、神による救いの歴史を三つの段階に分けて歌ったものです。

第一段落は1~4節です。《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった》。そもそも「言」によって天地が創造されたこと、「言」が人に命の輝きを与える方である、と歌っています。

第二段落は9~11節です。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった》。これは旧約聖書時代の「言」の働きについて歌っています。「言」はまだ人となっていません。モーセを通して律法という形でユダヤ人に与えられました。しかし、彼らは「言」を受け入れませんでした。

第三段落は14節と16~17節です。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである》。これは新約聖書時代の「言」の働きについて歌っています。「言」は人となった。私たちはクリスマスにおいてこの方を祝っているのですが、2000年前だけでなく今も、「言」すなわちイエス・キリストは、信じる私たちと共におられ、つねに豊かな恵みを注いでくださっていると、ユダヤ教の律法にまさるイエス・キリストの恵みを賛美しています。

クリスマスが来ても、私たちの闇・苦しみ・問題が消えて無くなるわけではありません。しかし、今やまことの光は世に来て、すべての人を照らしています。それは2000年の昔のことではなく、今日まで続いていることです。その光は聖書を通して、闇を照らし続けています。私たちはそのことを知った喜び、その解放感を感じとることができるでしょうか。

現代に生きる私たち日本人は、クリスマスに関する情報、聖書やキリスト教に関する知識をすでにたくさん得ていると思います。その知識を自分の身に着けて、自分の血肉と化して、生活を明かるくするもの、温かくするものとして活用できているでしょうか。私たちはキリスト教についての知識 knowledge を自分の生活に生きる知恵 wisdom、心の働きに変えていく必要があります。

教会において、私たちが互いに目指すのは、このことです。毎週の礼拝を通して、イエス・キリストの福音、喜ばしい知らせを聞き、それを自分の人生の価値観とし、行動の指針として身に着けていきたいと思います。神さまの大きな愛をいただいて、一緒に生きていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン