2012年1月1日 主の命名日 「イエスの御名」

ルカによる福音書2章21〜24節
説教: 高野 公雄 師

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

ルカによる福音書2章21〜24節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

街では、12月25日が過ぎますと、さあクリスマスは終わったとばかりに、ばたばたとクリスマスの飾りつけが取り払われ、角松を立ててお正月の仕度が始まります。

しかし、キリスト教会の伝統では、クリスマスは25日で終わるのではなく、25日から始まるのです。1月6日の顕現祝日の前日までの12日間が降誕節つまりクリスマス・シーズンです。英語の子供の歌に「12日間のクリスマス The Twelve Days of Christmas」というのがあるとおりです。欧米のクリスチャンの家庭では、クリスマス・ツリーやその他の飾りを片づけるのは、12日目つまり1月5日の晩というのが習慣です。

ところで、キリスト教の三大祭り、すなわち復活祭、聖霊降臨祭、降誕祭は、昔から、その当日だけでなく、8日目にもう一度祝うものとされていました。それらは「オクターヴ付きの大祭」という言い方がされます。オクターヴはラテン語で8番目という意味でして、音楽用語ですと、たとえばドから上のドまでの完全8度の音程をいいます。また、一週間を日曜から次の日曜までと数えると、それはオクターヴつまり8番目になります。12月25日のクリスマスのオクターヴは今日つまり1月1日です。きょうはもう一度、クリスマスを祝う日なのです。1月1日は日曜日であってもなくても、クリスマスのオクターヴとして、「主の命名(イエスのみ名)」を祝います。

《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》。ユダヤ人の男の子は生後8日目に割礼を受け、名前を付けます。割礼はアブラハムとの契約のしるし(創世記17章10~11)であり、神の民の一員となるしるしであって、割礼を受けることによって神の民としての資格を得ることができるのです。ですから、他の民族の者がユダヤ教に改宗するときも、割礼を受けることが求められました。

この日、イエスさまも割礼を受け、名前を与えられました。その名は、預言されていたものです。マタイ1章20~22に次のようにあります。《(ヨセフが)このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった》。

わたしは大学生の時代にキリスト教への関心を深めたのですが、イエスJesusという名前とイエス・ノーのイエスyesとは何か関係があるのではないかと思って調べましたが、関係ありませんでした。イエスはギリシア語のイエースースをラテン語化したもので、そのギリシア語は旧約聖書のヨシュア記という書物にもなっているヨシュアという人名をギリシア風に音訳したものです。実は、イェシュアに近い発音なのですが、旧約聖書ではヨシュアとカナ書きされ、新約聖書ではイエスとカナ書きされます

イエスすなわちヨシュアという名前の意味ですが、「ヨ」または「イェ」は天地を創造した唯一の神の名ヤハウェの短縮形であり、「シュア」は「救い」です。これを合わせると「神は救いである」という意味になります。

この「救い」という言葉の意味ですが、初めの3世紀の迫害の時代に、「信仰をもっていれば、死んだら天国に行ける」というふうに意味が狭くなってしまいました。今でも救いとはそういう意味だと思っている人がいるかも知れません。ですが、もともとは「完全」「健康」「幸福」などを意味していました。イェシュアという名は「ヤハウェは人の完全さの源、充実した人生を送るための基である」ということを主張しているのです。

この名付けの祝いは、大事なものですが、上手に守ることができませんでした。古代ローマ時代には同じ時に祝われた異教の農業祭の喧騒ために妨げられましたし、現代も新年を迎える各地の習慣に妨げられて、せっかくの休日なのに、残念ですが、聖日として守るために十分には用いられていません。

私たちがイエスという名に敬意を払うのは、その文字や言葉に魔力があると信じるからではありません。この名がイエス・キリストを通して与えられる祝福を思い出させてくれるからです。そしてその祝福に感謝を表わすために、この名を大事にするのです。それは、主のご受難に誉れをたたえるために、十字架を大事にするのと同じことです。

イエスのみ名は、私たちに次の4点を思いいたらせます。

1.キリストは、私たちの身体の必要を満たします。《信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る》(マルコ16章17~18)。イエスのみ名によって、使徒たちは足の不自由な人に力を与えました(使徒言行録3章6、9章34)。

2.キリストは、霊的な試練に慰めを与えます。イエスのみ名は、罪人には放蕩息子の父や善きサマリア人を思い出させ、義人には罪なき神の子羊の苦難と死を思い出させてくれます。

3.イエスのみ名は、サタンとその手下から私たちを守ります。悪魔はイエスの名を恐れています。イエスさまは十字架上で悪魔を征服したからです。

4.キリストは私たちに祝福と恵みを与えます。キリストはこう言います。《その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる》(ヨハネ16章23)。それゆえ、私たちのすべての祈りは「主イエス・キリストのみ名によって」という言葉で終えます。

こうして、パウロの言葉が現実のものとなります。《こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》(フィリピ2章10~11)。

最後に、このみ名を特別に愛した人、クレルボーの聖バルナール(ベルナルドゥス)に触れておきたいと思います。彼は12世紀の代表的なトラピスト修道士ですが、この名への崇敬を生き生きした表現で説教し、またこの名によって病人を癒しました。彼は説教の終わりに、IHSと彫った板を集まった人々に示し、これにひれ伏すことを求めました。当時イエスの名はIHESUSと綴られており、IHSはその初めと終わりの3文字でした。この3文字は今でも祭壇布のデザインなどに使われています。

このベルナルドゥスは「血しおに染みし主のみかしら」(教会讃美歌81)の作詩者であり、バッハの編曲は「マタイ受難曲」でも用いられていて、私たちにも無縁は人ではありません。

ベルナルドゥス以来、伝統的に、敬虔なキリスト教徒は、イエスのみ名が発せられるたびに、頭を垂れたのです。私たちはこの習慣を身に着けていませんが、これを回復すべきだと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン