2011年10月16日 聖霊降臨後第18主日 「ぶどう園のたとえ」

マタイによる福音書21章33〜44節
説教:高野 公雄 牧師

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

マタイによる福音書21章33〜44節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音「ぶどう園の農夫のたとえ」は、《もう一つのたとえを聞きなさい》というイエスさまの言葉で始まります。このたとえがどんな状況で何のために話されたかということを、最初に見ておきましょう。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描きます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)で、日曜日にイエスさま一行がエルサレムに到着したことが告げられます。月曜日にはイエスさまは「神殿か商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。そして事件翌日の火曜日、エルサレムの指導層の人々はイエスさまと「権威についての問答」(23~27節)を闘わします。それに対して、イエスさまは三つのたとえ話でもって答えます。「二人の息子のたとえ」(28~32節)と、きょうの福音である「ぶどう園の農夫のたとえ」(33~43節)と、「婚宴のたとえ」(22章1~14)です。

イエスさま当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマの貴族ピラトが総督(現地の支配者)として派遣されていました。しかし国内問題については、ユダヤ人による70人の議員からなる最高法院(つまり国会)が認められていました。その最高位(つまり首相)が大祭司です。その下に10人程度の祭司長(つまり大臣)がおり、その他に60人ほどの議員(つまり国会議員)がいました。それが、民の長老たちと律法学者たちです。23節に《祭司長や民の長老たち》とあり、45節に《祭司長たちやファリサイ派の人々》とありますが、彼ら最高法院の議員こそが宗教の権威だったのであり、彼らはイエスさまの権威について尋問するのです。イエスさまはたとえ話によって彼らと対決します。

《ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。》
この言葉は、主人(神)がすべてを配慮し、はじめから整えてくださっていたことを示しています。また、主人が旅に出るというのは、その人は地方に広大な農地をもつ不在地主であって、普段は都エルサレムに住んでいるという当時の状況を想像させます。25章に出てくる有名な「タラントンのたとえ」でも、主人は僕たちそれぞれにタラントンを預けて、旅に出ます。これは、聖書特有の考え方を表しています。つまり、この世は、人の目には、神なしに、人間の力と思いで動いているように見えますが、実は神からゆだねられた世界であって、神に守られているのであり、やがて精算を迫られる日が来るように、世界は、神の前にその歩みの責任を問われる日が必ず来る。そういう考え方にもとづくたとえ話です。

《さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。》
このたとえを寓話として読むと、家の主人は神を、ふどう園はイスラエル民を、農夫たちはイスラエルの宗教指導者を、僕たちは神が遣わした預言者たちを、息子はメシアであるイエスさまを表していると理解できるでしょう。
主人が長い間不在であったために、農夫たちはいつの間にか、主人から与えられたものを自分の力で得たもののように思い、主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと思い違いをして、収穫の分け前を受け取りに来る主人の僕や息子のことを、自分たちの物を奪いに来る者としか思えなくなったのでしょう。それは、私たちにとっても他人事ではありません。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは、地球の資源や環境、それに自分のお金や持ち物、力や才能、地位や立場などが考えられます。それらは皆、神が私たちにゆだねたものです。それを私たち人間は、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっているのではないでしょうか。
でも、神はこの世を長い間、黙って放置していたのではありません。次々と預言者を遣わして、民に神さまのみ心を伝えようとしています。ところが、イスラエルの民も指導者たちも預言者の言葉をうるさがり、迫害し、殺したりもしました。洗礼者ヨハネもそのような迫害のすえに殺されました。そこで神は最後の手段として、人々の間にご自分の一人息子イエスさまを遣わします。彼らはその方をも殺してしまいます。
《さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう》、農夫たちはそう言いますが、当時の法律では、遺産の相続者がいない土地は小作人が受け継ぐことができたそうです。イエスさまがエルサレム城外のゴルゴタの丘で処刑されるようになることを暗示します。

しかし、旧約聖書に《家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》(詩編118編22~23)と書かれている通り、《家を建てる者》すなわち当時の権威である最高法院の議員たちに捨てられた(捨てられようとしている)イエスさまは、まさに捨てられることにより、すなわち十字架の死と復活を通して、私たち人類の救いの礎となってくださったのです。イエスさまは人に捨てられましたが、神に選ばれました。それはまことに《これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える》ことでした。
イエスさまが隅の親石となられたとは、イエスさまの十字架の死が人類の救いのための贖罪死であったのであり、その救いを信じる者は、その行為や善行によってではなく、イエスさまの恵みと愛を受け入れる信仰によって救われるということを意味しています。イスラエル人であっても、異邦人であっても、ただ神を信じる信仰によって、すべて神の国に入れられるのです。イエスさまこそが、救いの土台であり、教会の土台であり、私たちの信仰生活の土台です。時代が変わり、価値観がゆれ動き、なにが確かなものなのか迷いますが、イエスさまは私たちのゆるぎない土台です。

このようなイエスさまの主張は、エルサレムの権威たちに対する真向からの挑戦であり、否定です。彼らとその指導に従う民衆によるイエスさまの受難は避けられないものとなりました。彼らの反応は間違っています。《だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる》(43節)と、彼らは断罪されます。そして、神の国はイエスさまを信じる者たちに与えられると約束されます。しかし同時に、イエスさまを信じる者たちには《ふさわしい実を結ぶ》ことが求められています。私たちは本当に実をつけていますか、と問われてもいるのです。イエスさまというゆるぎない土台の上にしっかり立って生きる者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン