2011年10月23日 聖霊降臨後第19主日 「婚宴のたとえ」

マタイによる福音書22章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

マタイによる福音書22章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスは、また、たとえを用いて語られた》とあるように、きょうの福音「婚宴のたとえ」は、21章の「二人の息子のたとえ」(28~32節)と「ぶどう園と農夫のたとえ」(33~43節)と三つ組をなすたとえ話です。
マタイは21章からイエスさまの最後の一週間を描き始めます。この一週間は、聖週 holy week または受難週 passion week と呼ばれます。まず「エルサレムに迎えられる」(1~11節)でイエスさま一行が日曜日にエルサレムに到着した模様が描かれます。月曜日にはイエスさまはふたたび神殿に出向き、「神殿から商人を追い出す」(12~17節)事件を引き起こします。この出来事はふつう「宮清め」といいます。事件翌日の火曜日に三度神殿に上ると、エルサレムの指導層の人々が「権威についての問答」(23~27節)を仕掛けるのですが、それに対するイエスさまの応答が、これら三つのたとえでした。

《天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》。
長い引用になりましたが、これがきょうのたとえ話の本体でして、たとえ、すなわち比喩を用いて「神の救いの歴史」を語っています。王は神を、王子はキリストを、王子のための婚宴とはキリストと共に連なる晩餐会つまり「救い」を表しています。招待客たちを招くために遣わされたしもべたちは、最初が旧約の預言者たち、次がキリスト教の宣教師たちです。前もって招かれていた人たちとは、イスラエルの人々、とくにもその指導者たちのことでしょう。彼らは《来ようとはしなかった》(3節)のですが、いろいろ言い訳するだけではなく、彼らは王の招きを伝えに来たしもべたちに乱暴して殺してしまいます(6節)。婚宴への招待を断るために、そこまでするのは異常です。しかし実際に、彼らはその昔、預言者たちの言うことを聞き入れず、殺しました。そしてマタイの当時にもまた、彼らはキリスト教の宣教者たちの証しを受け入れず、旧約の預言者たちやイエスさまにしたと同じように、殺しました。そこで、王は軍隊を送って、反逆者たちの町を焼き払ったというのです(8節)。これではもう婚宴のたとえはすっかり壊れてしまいますが、これは、マタイがたとえ話の中に現実の歴史的出来事を織り込んだことによります。この描写は、ローマ人による紀元70年のエルサレム破壊のことを言っているのです。キリスト信徒たちはこの神殿崩壊を、イスラエルがイエスさまとその福音を拒絶したことに対して神がイスラエルに下した罰であった、と見なしていたのです。そして《招いておいた人々は、ふさわしくなかった》ので、こんどは《善人も悪人も皆》招待された(8~9節)というのは、教会がユダヤ人伝道から異邦人伝道へと対象を切り替えたことを示しています。
なお、《食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください》という招きの言葉は、キリストが犠牲の子羊として屠られたこと(すなわち十字架の死)によって私たちの救いのための業が神の側によって完全に成し遂げられたこと、したがって私たち人間の側のなすべきことは、ただ信仰によって救いへの招きを自分のものとして受け取るだけであることを暗示しています。

《王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》。
この部分(11~14節)は、マタイによる付け足しです。付け足しと言っても、マタイにしてみればこの部分をこそ強調したかったのです。最初に招かれていたユダヤ人がふさわしくなかったので見捨てられ、代わりにキリスト信徒が招かれるようになったというだけでは、マタイは話を終わりにしたくなかったのです。キリスト信徒の中にもふさわしくない人がいるからです。
王のしもべたちは大通りに出て行って、《見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった》のでした。この人たちが披露宴の席に着くと、いよいよ王のお出ましになるのですが、王は町の大通りからたまたま連れてこられた人を《どうして礼服を着ないでここに入って来たのか》と責めて、《この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ》と命じます。これはどう考えても不自然です。不自然ですけれど、これは普通の物語ではなく、比喩的なたとえ話ですから、仕方ありません。
このたとえで王のしもべたちが善人も悪人も集めているのは、マタイの教会についての見方が反映しています。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ13章24~30)であり、「良い魚と腐った魚が集められる大きな網」(13章47~50)なのです。ですから、マタイにとって「罪びとも招かれている」ということもちろん素晴らしいことなのですが、同時に「この素晴らしい招きにいかにふさわしく応えるか」ということも、決して忘れてはならないもう一つの大きなテーマなのです。マタイは私たちに、キリスト信徒も最後の審判から決して除外されることはないと警告しているのです。
教会にはだれでも入れます。けれども、「王子の婚宴」とは、教会のことではなくて、来たるべき時代のことです。そこで求められている「礼服」とは、「義」すなわちイエスさまの教えに一致した振る舞いのことだと考えられます。マタイはイエスさまの最後の説教の中でそのことをはっきりと示しています。《さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ》(マタイ25章35~36)。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)。

きょうの福音の最後の言葉《招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない》は、救われる者の確率が小さいということを言おうとしているのではありません。そうではなくて、私たちがキリスト信徒としてふさわしい生活を送るために、生き生きと努力するよう励ましているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン