2012年5月6日 復活後第4主日 「ぶどうの木のたとえ」

ヨハネによる福音書15章1〜10節
説教: 高野 公雄 牧師

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
ヨハネによる福音書15章1〜10節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週まで、私たちは十字架上の死から復活したイエスさまが弟子たちと出会う記事を読みついできましたが、きょうはイエスさまが最後の晩餐の席で弟子たちに語ったいわば遺言を読みます。その言葉をとおして私たちは今も生きておられるイエスさまに出会いたいと思います。

《わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である》。

イエスさまは、神を農夫に、ぼ自分をぶどうの木にたとえます。ぶどう、オリーブ、いちじく、ナツメヤシはパレスチナの特産品であり、イスラエルの人たちにとってなじみ深い果物です。とくにもぶどうの木またはぶどう園は、旧約でも新約でもしばしば神が選ばれたイスラエルの民のたとえとして用いられています。

ヨハネ福音書には「わたしは・・である」という形式の宣言がいろいろ出てきます。「わたしは世の光である」、「わたしは命のパンである」、「わたしは道であり、真理であり、命である」などなど、イエスさまはご自分が何者であるかを率直に人々に言い表しています。それとは少し形式で、「わたしはまことのぶどうの木である」とか、「わたしは良い羊飼いである」というように「まことの」とか「良い」という形容詞が付いた形式のものもあります。これは、偽物のぶどうの木に対して自分こそ本物のぶどうの木であると、悪い羊飼いに対して自分こそ本物の羊飼いであると主張しているのです。

イスラエルの民は、神が造られたぶどう園とか、神が植えられたぶどうの木にたとえられていました。神がイスラエルに期待したのは、豊かに実を結ぶことでした。つまり、神を敬い人を愛すること、神の栄光を表わし地に平和をもたらすことでした。しかし、彼らはその期待を裏切るばかりでした。アブラハムの子孫であっても、モーセの律法を持っていても、実を結ばないぶどうの木でしかないのであれば、役にも立たないものとして焼き捨てられるほかはありません。そういうイスラエルの現実に向かって、イエスさまは、父である神がわたしをまことのぶどうの木として植えた、わたしこそが神の期待するように豊かな果実を実らせる者である、神がイスラエルに託した務めを成就する者であると宣言しておられるのです。

《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である》。

イエスさまがぶどうの木、幹であるならば、イエスさまに連なる私たちは枝、つるにたとえられます。

《人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》。

ぶどうの木とその枝は一体です。枝は木から養分をもらうことによって成長し実を結ぶことができ、木は枝に養分を贈ることによってその枝から収穫を得ることができます。そのように、イエスさまと私たちも一体です。目には見えないイエスさまと私たちが信仰によってつながることで初めて、人として成長し、愛する者へと変えられていく、とイエスさまは述べています。

いま信仰によってつながると言いましたが、つながり方にも二通りあり、しばしば猿タイプと猫タイプと呼ばれています。猿は移動するとき、子が親のふところにしがみつきます。猫は親が子をしっかりくわえて移動しますから子は手ぶらで楽ちんです。イエスさまと私たちのつながり方は、この猫タイプです。つながりは、まったくイエスさまの和解の働き、贖いの愛、無償の恵みによっているからです。信仰によってつながるとは、イエスさまが愛と真実によって私たちとつながりを持ってくださったことに、感謝と喜び、安心と信頼をもって応え、イエスさまを受けいれることです。

イエスさまと私たちが一体であることは、他にも、イエスさまを頭に、信徒たちを肢体にたとえることもありますし、もっとちがった仕方で伝える話もあります。二つの事例を挙げてみます。

一つは、使徒言行録が伝える「パウロの回心」の出来事です。ユダヤ教に熱心であったサウロはシリアのダマスコにまでクリスチャン迫害の足を延ばそうとしました。その道の途上で突然、光が彼を照らしました。そして《サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」》(使徒言行録9章4~5)。この事件が転機となって、サウロは異邦人伝道の使徒パウロとして生まれ変わるのですが、それはともかく、ここにはクリスチャンにしたことはイエスさまにしたことだというふうにイエスさまは信徒たちと一体であることが言われています。

もう一つは、マタイ福音による最後の審判のたとえです。栄光の座に着いた王は、羊飼いが羊と山羊を分けるように、全世界の民を右と左に分け、左側に分けられた人に言います。《「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」すると、彼らも答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」》(マタイ25章41~45)。このたとえでは、イエスさまは、信仰の有無とは関係なく、貧しい者・苦しむ者とご自分を一体化しています。また、実を結ぶとは、弱者に優先的に愛を向けることだと示唆しています。

きょうの「ぶどうの木のたとえ」は、このように聖書に一貫しているイエスさまと教会とは、または教会に連なる信徒たちとは一体であるとする捉え方にもとづいているのです。このたとえを素直に受けいれられる人は、次の言葉も納得して聞きいれることができるでしょう。

《ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない》。

人はイエスさまを信じなければ善いことができないとは言い過ぎではないだろうか、こう考える人もいるでしょう。でも、この言葉は真実です。聖書を読んでも、新聞を読んでも、それぞれの個人の経験によっても、私たちは人類の文明の進歩がより大きな愚行・惨事を生み出している事実を認めざるをえません。人はどうしようもなく傲慢で自分中心であり、大昔から今日に至るまで愛と謙虚と共生を生きることができていません。それくらい深く罪に捉えられています。真に実を結ぶ台木であるイエスさまに接ぎ木されるほかに、人の心は罪から解放されることはありません。真に神さまに心を向けることのほかに、孤独・失意・無意味から救われて、愛と希望を持って生きることはできません。まことにイエスさまこそが、《道であり、真理であり、命》(ヨハネ14章6)なのです。

《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》。

きょうの福音の中心は、この勧めの言葉です。まさにこのことをぶどうの木のたとえは言いたかったのです。これから行う聖餐式は、枝がぶどうの木から命をいただくように、私たちがイエスさまの愛に包まれて、イエスさまと固く結ばれて一体となることを目指しています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン