2012年5月13日 復活後第5主日 「互いに相愛せよ」

ヨハネによる福音書15章11〜17節
説教:高野 公雄 牧師

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
ヨハネによる福音書15章11〜17節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音も、イエスさまが最後の晩餐の席で弟子たちに語られたお別れ説教の一部です。きょうも、イエスさまのお言葉を聴くことを通して、今も生きて私たちに語りかける復活のイエスさまに出会いましょう。

きょうの福音は、《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》で始まり、《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である》で終わります。この段落の中心が,弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と諭すことにあることは明らかです。できる、できないは別として、「互いに愛し合いなさい」という教えは、当たり前のことを言っているだけで平凡に聞こえるかもしれません。しかし、キリスト教の特徴は、この教えに《わたしがあなたがたを愛したように》という前置き、前提が付いており、これを欠かせないことです。

同じ相互愛を命じる言葉は、実はお別れ説教の前の部分にもありました。

《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(ヨハネ13章34~35)。

ここでも《わたしがあなたがたを愛したように》と、愛の根拠を示す前置きが付いていました。そして、このイエスさまの愛を知っていることこそが、クリスチャンのしるしであると言われています。

では、イエスさまの愛とは、どのようなものだったのでしょうか。それを示すのが、次のみ言葉です。

《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》。

これは、自己犠牲の精神を説く道徳の教えではありません。たしかに、この言葉は「女性は家庭を守るために自分のことは犠牲にすべきだ」とか、「若者は国を守るために自分を捧げる覚悟をもつべきだ」、というような意味合いで引かれることがありましたし、今でもあります。しかし、この聖句は、私たち一人ひとりに対する神の愛の質を語っているのです。友のために命を捧げた方は、人に自己犠牲を強いるのではなく、互いに愛し合うことを勧めています。

きょうの第二朗読も,イエスさまの愛をこう描いていました。

《わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》(Ⅰヨハネ4章10~11)。

神は、私たちが愛されるにふさわしいからではなくて、ふさわしくないからこそ、み子を世に遣わし、み子の生死を通して人間に対するご自分の愛と真実をお示しになったのです。私たちが神を愛しているからではなく、神に無関心でいるとき、それは実は神に敵対していることなのですが、そのとき、神が先手をとって私たちの救いのために、み子の命を賜るほどの深く大きな愛を現わしてくださったのです。これが本当の愛の姿です。これが、私たち相互の愛の模範であり、根拠であり、原動力です。ここを根拠としない倫理・道徳は、本物の力を持ちません。

聖書になじみのある人は、ここでおのずと福音書中の小福音と呼ばれる次の聖句を思い出すでしょう。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》(ヨハネ3章16~17)。

このようなわけですから、イエスさまが「これがわたしの掟である」、「あなたがたに新しい掟を与える」とこの福音書の著者ヨハネが書いたとき、イエスさまこそが旧約聖書が預言していた救い主であり、ユダヤ教徒が待望していた新しい契約が現実のものとなった、すなわちキリスト教が誕生したことを高らかに宣言しているのです。

神はイエスさまの生涯,とくにも十字架を通して、私たち人間に対するご自身の愛と誠意を表わされました。私たちはイエスさまを通して神の愛を知り、神の愛に応えて、神を信じるに至りました。それゆえに、どうしようもなくわがままで、移り気で、愛のない自分ではあるけれども、少しは他の人のことも大切にし,他の人の益となるようなことを考える気にもなるのです。実際にどのくらいそうできるかということでは、クリスチャンとそうでない人の差はないかもしれません。唯一の違いは、自分の振る舞いふり返る原点をもっているかどうか、悩むとき、苦しむとき、孤独なとき、虚しいとき、頼るべき、見上げるべき原点をもっているかどうかです。クリスチャンはイエスさまの十字架に示された神の愛を知っています。私たちは神から恵みをいただいている、これが私たちの生活の原点です。

《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》。

「神の選び」ということが、きょうの福音の二つ目のポイントです。現代人は、神などいないとか、神は死んだとかと言って、神を見失っています。もし誰かが神を信じるに至ったとしたら、それは神の側から人に出会ってくれたからであって、人が神に出会ったのではないことは確かです。

神がイエスさまの振る舞いを通して、ご自身を人々に現わされたこと、しかも人に対するご自身の真実の愛を示されたことが、すべての始まりです。そして、聖書がそのことを証言しています。また、教会がイエスさまと聖書に聴くこと、従うことによって人々に信仰を伝えています。もちろん、聖書も教会も人間的限界をもっているので、人を躓かせる側面もあります。にもかかわらず、イエスさまの振る舞いに人を救う真実を見出し、それを証ししてきました。聖書と教会を抜きにしても救いの神に出会うことができるかもしれませんが、現実には聖書と教会の証しによって神を信じています。このように福音を証ししている側面に注目して、私たちは聖書を信じるとか、教会を信じると言っているのです。

私たちは「神の友」として選ばれたのですが、それは私たちが人々よりも優れていたからではありません。反対に、神は弱い者、貧しい者、小さい者を選ばれました。すべての人を救おうとしておられることが明らかとなるためです。私たちはむしろ選ばれなくて当然の者なのに、イエスさまの愛によって、赦しの力によって、選びの中に加えられたのです。これが福音、良い知らせです。

神の恵みによる選びとは、こういうものですから、私たちの救いは確かです。人間の信仰や行いが選びの基準であるならば、誰がそういう基準に耐えられるでしょうか。信仰といい決心といい、私たちのなすことは、弱く移ろいやすいものですが、選びが人の行いによらず、神の恵みによるのですから、これ以上に確かなことはありません。

とは言え、私たちは丸太のようなものではなく、神に反抗する人間です。それが信仰によって造りかえられようとしているのです。私たちは神の恵みと慈しみに応えて、主の祈りにあるように、「み心が天で行わるように、地上でも行われますように」(マタイ6章10参照)と、また奉献唱にあるように、「神よ、わたしのために清い心を造ってください」(詩51編12参照)と日々祈りつつ歩む者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン