2012年5月20日 昇天主日 「キリストの昇天」

ルカによる福音書24章44〜53節
説教:高野 公雄 牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された》(使徒言行録1章3)。

先ほど読んでいただいた第一日課に,こうありました。十字架の死から復活されたイエスさまは、さまざまな機会に復活の姿を弟子たちに現されましたが、40日の後には天に昇って、弟子たちがふたたびイエスさまの姿を見ることはありませんでした。この記事にもとづいて、キリスト教会では復活祭の40日後に昇天を祝うようになりました。

今年はそれが先週の木曜日だったのですが、ちょうどカトリナ会の例会にあたりましたので、この聖書個所を学びました。しかし、キリスト教の歴史の浅いところでは、ウィークデイに集まることが難しいので、それを日曜日に移して記念しています。今日がその日で、教会の暦では復活後第六主日を昇天主日として祝います。

ところで、ルカ福音書と使徒言行録は、どちらもルカによって一続きの物語として書かれたもので、福音書はその前編、使徒言行録はその後編です。そして、きょうの福音を読むかぎりでは、イエスさまは復活したその日のうちに、弟子たちにご自身を現わされ、伝道の務めを与え、昇天されたように読めます。ところが、使徒言行録では、それは40日後の出来事であったと書かれており、同じ著者の本なのにくいちがっています。

これを学者たちは、こう説明しています。ルカ福音24章は、復活祭の日に読まれることを意図して、復活の出来事を短くまとめて書いたのだ、と。

また、使徒言行録にある40日ということについても、40は文字通りの意味で使われているのではなく、聖書によく出てくる象徴的数字であって、必要十分な長さを意味している、とされています。ノアの40日40夜の大雨、あと40日すると都は滅びるというヨナの預言、イエスさまの荒れ野の40日間の試練などの40も同じ使い方です。

また、昇天の場所についてもルカ福音24章50では《ベタニアのあたり》とあり、使徒言行録1章12では《「オリーブ畑」と呼ばれる山》とあって、違っていますが、ベタニア村はオリーブ山の麓にあるので、これはくいちがいとは言えません。

さらに私たちを戸惑わせるのは、復活したイエスさまの手足を弟子たちが見たとか、見ているうちに天に上げられたとかという古い時代の信じがたい描写です。こうした記事の読み方にも触れておきましょう。「天」は、人の目で見ることのできない、神の世界を指しています。弟子たちの信仰によれば、復活したイエスさまは天に上げられ、神の右の座を与えられました。イエスさまは世を裁く神の権能を与えられた神と等しい者とされたのです。つまり、復活といい昇天といい、本来は人の目で見ることも、人の言葉で語ることもできない神の柲義です。それでも、何とかしてそのことを人に伝えたいわけで、それを聖書は伝統的に生き生きした物語の形式で語ってきました。それはどの時代の人にとっても作り話に思え、つまづきのもとになるのですが、だからと言って、人は現代的、科学的に神の柲義を表現できる訳ではありません。神を求める人が、その神話的童話的な外観を乗り越えて神の真実に触れることができるよう聖霊の導きを願わずにはいられません。

《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」である」》。

イエスさまが言われたように、聖書に書かれたことを悟るためには、復活のイエスさまが、または聖霊が私たちの心の目を開いてくださることが必要なのです。

ルカは、前編のルカ福音でもってイエスさまの活動を描き、後編の使徒言行録でイエスさまの弟子、使徒たちの活動を描いています。その繋ぎの部分を、きょう私たちはルカ福音側と使徒言行録側の両方で読みました。それがイエスさまの昇天の記事です。その記事は、イエスさまが復活して天に上げられたこと、神の全権を譲られた王の王、主の主となられたこと、そして弟子たちに世界への伝道を委ねられたこと、弟子たちに力つまり聖霊を注がれることを約束されたことを含んでいます。きょうの福音の結びも、このことを表わしています。

《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》。

ここで「イエスを伏し拝んだ」とは、イエスさまを神として礼拝したことを意味しています。

よく指摘されることですが、イエスさまの処刑のときには人々を恐れてひっそりと家に閉じこもっていた弟子たちが、復活と昇天と聖霊降臨の後には、非常に大胆に全世界へ出ていって福音を宣べ伝える者へと変えられました。この一大転換のナゾを解くカギが、キリストの昇天です。昇天とは、今度こそ本当に弟子たちの心の目が開かれて、イエスさまが死から復活して神の右の座へと高く挙げられた方であることを悟り、イエスさまが万物の主であることを確信したことなのです。弟子たちの宣教活動はこの覚醒と確信にもとづくものです。その意味で昇天を祝うことは、キリストを王の王として祝うことであり、それは同時にキリスト教宣教の始まりを祝うことなのです。

キリストの昇天は、もうひとつ大事なことを表わしています。イエスさまが復活して神のもとへと招き入れられたのは、私たちの初穂ないしは初子としてであるということです。キリストのとりなしのおかげで、そしてキリストにならって、私たちも神の家族ないしは子どもとして、受け入れられるということを示しています。私たちがこの世の生を終えた後、復活して神のみ国に迎え入れられるということもまた、神の領域のことであり、人は物語のようにでしか語れないことです。それは信仰のつまずきにもなりますが、また信仰の伝達として避けられない方法でもあります。

きょうの礼拝の始めに、私たちはこう祈りました。「天に上げられた御独り子の執り成しによって、私たちをみ前で永遠に生きる者としてください」、と。

私たちのふるさとは神の国にあり、私たちは神の国を目指して歩んでいる旅人であり、この世にあっては寄留者です。この世における人生の一足一足が永遠の神の国へとつながっていることを、またキリストが共に歩んでくださっていることを覚え、キリストの心を心として、主と隣人に仕えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン