2012年5月27日 聖霊降臨祭 「聖霊の約束」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節
説教:高野 公雄 牧師

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

ヨハネによる福音書15章26〜16章4a節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

聖霊降臨祭おめでとうございます。

教会の暦で、きょうは聖霊降臨祭、ペンテコステです。キリストが天に昇ってもう地上の人としては会えなくなった後に、イエスさまの弟子たちに聖霊がくだり、その聖霊に促されてキリストの復活を証しする使徒として活動を始めたことによってキリスト教会が誕生しました。聖霊降臨祭はこのことを祝うお祭りの日で、復活祭と降誕祭とならぶキリスト教の三大祭りの一つです。他の二つのお祭りほどポピュラーではありませんが、古くから大事な記念日として祝われてきました。

この日の出来事については、先ほど第一朗読で聞きました。

《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった》(使徒言行録2章1~4)。

こうしてキリストの教会は、2000年の歴史をとおして、自分たちの国の言葉で「福音」、キリスト教の教えを聞くことによって、全世界に広まりました。私自身もそうだったのですが、外国人宣教師の少し変な日本語の説教をとおして聞いた福音が心に沁みて、信仰を得た人も多いと思います。

ここに「五旬祭」とあるのが、新約聖書の元の言葉、ギリシア語でペンテコステです。これを日本語では、ユダヤ教の祭りは「五旬祭」、キリスト教の祭りは「聖霊降臨祭」と訳し分けています。五旬祭はユダヤ教の大きなお祭りであり、過越祭と仮庵祭とともに三大巡礼祭として、エルサレムの神殿へのお参りが求められました。

ところで、ペンテコステは五旬祭という訳語が示すように、50日目のお祭りです。ユダヤ教なら過越祭から数えて、キリスト教なら復活祭から数えて50日目のお祭りという意味です。旧約聖書では、「七週の祭り」とか「刈り入れ祭」とも呼ばれています。この日は、もとは冬に蒔いた小麦の春の収穫祭でしたが、のちにモーセがシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

この日、ユダヤ教では「ルツ記」が読まれます。聖書に親しんでいる人は、ボアズの畑で刈り入れの後の落穂拾いをしていたルツの話しを覚えておられるでしょう。

聖霊降臨祭を表わすシンボルは、聖霊の火を象徴する「赤」です。きょうは、聖卓に掛けられた飾布、牧師が着けているストラ、聖壇を飾るバラの花、そして皆さまが身に着けたものも、みな赤です。そのほかにこの日を表わすのが、聖霊の降下を象徴する「鳩」、この季節を表わす「麦の穂」です。壁のバナーや私のストラにも、この通り、麦の穂が描かれています。

《わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである》。

きょうの福音にこうあるように、イエスさまは生前に、自分が世を去っても、弟子たちには別の弁護者、助け主が送られるからその時を待てと言っておられました。聖霊の約束は、この個所のほかにも、たとえば《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカ24章49)とか、《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである》(ヨハネ14章16~17)というように記されています。その約束の聖霊が2000年間前のきょう,弟子たちの心の中に来られたのです。

ここでは、この聖霊なる神さまを「弁護者」、「真理の霊」と呼んで紹介していますが、聖霊を人の言葉で十分に言い表すことは難しく、そもそも聖書の記述も少ないのです。いま私は、自分自身の体験に基づいて聖霊の必要性とその働きをお話ししたいと思います。

私は人生に行き悩んで、二十歳の今ごろ、初夏に自分から信仰を求めて教会に行き始めました。礼拝に出たり、聖書の勉強会に出たりして、熱心に信仰を求めましたが、いつまでも神は知識の上だけの第三者にとどまり、神をあなたと呼べるような神との出会いを経験することはできませんでした。私は二年くらいクリスチャンのまねをしていたのです。しかし、そうこうするうちにいつの間にか気がついてみると、心が開かれて、神と一対一で向き合う信仰生活へと移り住んでいました。

一般に、信仰とは人がすること、人にできることと考えられているようですが、聖書の神を信じることは、相手があることであって人が自分ひとりの能力でできることではありません。神が私の心を開いて、ご自分を私と共に歩んでくださるお方として現わしてくださることによって、初めて信仰を得ることができるのです。それが、私における聖霊降臨であり、神が私に信仰を与えた出来事です。きょうの福音にあるとおり、前もって約束されていた聖霊が与えられることによってすべての人の信仰生活は始まり、保たれるのです。

先に引用したヨハネ福音14章では、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。では、もとの弁護者とは誰でしょう。それはもちろん、それはイエスさまです。《わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます》(Ⅰヨハネ2章1)。聖書はこのようにイエスさまを弁護者と言っています。

聖霊もまた「弁護者」と呼ばれるのは、イエス・キリストの贖いのみわざにもとづいて、聖霊は弁護士のように神の御前に立つ私たちの傍らに寄り添って、神との関係の回復を、和解をとりもってくださるお方だからです。

聖霊が「真理の霊」と呼ばれるのは、聖霊がイエス・キリストを神の真理そのものとして私たちにありありと示してくださるからです。《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(ヨハネ14章25~26)。

イエスさまはその言葉と行いをとおして、とくに十字架と復活によって、私たちに対する神の愛と真実を示してくださいました。天に戻ったイエスさまは、今度は聖霊を送って私たちの心に愛と真実の神を現わし、信仰を与え、保ってくださっています。

私たちの内に留まる聖霊というお方のイメージは捉えにくいかも知れませんが、復活して今も生きているイエスさまが私たちの心の内にいらして、人生の歩みを共にしてくださっているというイメージなら理解ができると思います。このように、聖霊を「復活されたイエスさまの霊」と置き換えると分かり易いでしょう。

聖霊降臨の日の説教を、ペトロはこう締めくくっています。

《悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです》(使徒言行録2章38~39)。

聖霊降臨祭のきょう、私たちにはすでに約束の聖霊が与えられていることに感謝しつつ、その火が心の内にいつも赤々と燃えているように、キリストの心を心として生活できるように、さらに聖霊の注ぎを祈り求めましょう。そして、求道中の方々には、真理の霊が豊かに注がれ、真実と愛の神さまと出会う恵みが与えられるようお祈りいたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン