2012年6月3日 三位一体主日 「上から生まれる」

ヨハネによる福音書3章1〜12節
説教:高野 公雄 牧師

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

ヨハネによる福音書3章1〜12節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

先週の聖霊降臨祭をもって50日間の、主イエスのご復活を祝う季節が終わりました。それで、お気づきでしょうが、今まで聖卓の横に灯っていた大きな復活のローソクが片づけられました。今週から教会の暦では新しい季節が始まったのです。「聖霊降臨後」という季節で、これから11月一杯まで6か月間続きます。この季節の典礼色は「緑」、この季節のテーマは「教会の成長」となります。

その始まりにあたって、きょうは神の三位一体を祝います。典礼色は「白」です。きょうのテーマは、教会にとって根本的なこと、つまり、私たちの信じる神はどのようなお方かということです。

きょうの主日の名である「三位一体」(さんみいったい)とは、ただひとりの神がつねに父と子と聖霊という三重の仕方で私たちに働きかけるお方であるということを言い表すキリスト教用語です。三位一体という言葉自体は聖書には出て来ませんが、その言葉が指し示す事柄、つまり唯一の神は父・子・聖霊という三様のあり方をするということは、例えば、《わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい》(マタイ28章18~20)というように、聖書の中に示されています。

神さまを人の言葉で言い表すことは不可能なのですが、それでも何とかその神秘を言い表したいという初代のクリスチャンたちの努力の中でこの三位一体 Trinitas という言葉が生み出されました。二世紀後半にカルタゴ(今の北アフリカのチュニジア)の司教であったテルトゥリアヌスという教父が最初に使ったのだそうです。

キリスト教は313年にローマ皇帝コンスタンティヌスの発した「ミラノの勅令」によって禁教を解かれ、公認宗教の仲間入りをしました。キリスト教が社会の表面に出てみると、各地で教えや習慣の違いが著しい現実がありました。とくに問題だったのは、キリストの神性に関してです。ユダヤ教の影響が強く、イエス・キリストは父なる神から生まれた子であるならば、神に似た人ではあっても神ではありえないという立場の人と、イエス・キリストは人を救う力を持つのだから子なる神だという立場の人との間に、激しい論争がもちあがっていました。

この問題を解決するために、コンスタンティヌスは325年に初めての世界教会会議(公会議)をニケア(ニカイアともいう。今のトルコのイスタンブール近く)で開催しました。この会議で、復活祭の日取りが統一され、ニケア信条が定められました。神である父と子であるキリストは同質であると説くアタナシウスらが正統とされ、神に似た人と説くアリウスとその同調者は異端とされ、破門に処せられました。アリウス派を論駁したアタナシウスは後に、アレクサンドリア教会の司教に叙階され、三位一体の教理において第一人者とされました。

この論争はニケア会議以後も続き、正統派の教会では、私たちが現在使っている式文に見られるように、三位一体の神を称える言葉がいたるところにちりばめられることになりました。

私たちの礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で始まり、祝福に続く「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」で終わります。讃美頌に続けていつも「グロリア・パトリ」を歌いますが、これも「父、み子、み霊にみ栄え、初めも今も後も世々に絶えず。アーメン」と三一の神を称える頌栄です。キリエのあとに歌う「グロリア・イン・エクセルシス」は、ルカ2章14にある天使の讃美に、ポアチエ(フランス西部の都市)の司教ヒラリウスが加筆したもので、やはり三一の神を称える頌栄です。この人は東のアタナシウス、西のヒラリウスというように並び称される三位一体信仰の擁護者でした。そして三位一体主日のきょうは、このあと、いつもの「ニケア信条」に代えて「アタナシウス信条」を全員で唱えます。これは毎年この日だけに守られてきた習慣です。この信条は三位一体の神を称えているので、アタナシウスの名で呼ばれますが、本当の著者は不明です。詩編交読と同じように讃美の心をもって交唱しましょう。

「主日の祈り」にも三位一体を称える結びがついています。「あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。この長い結びは来週からの緑の季節には省かれる習慣になっています。もっともこの結びは、「奉献の祈り」にも、聖餐の感謝の祈りにも付いており、こちらは緑の季節でも省かれません。

そして、聖餐設定の言葉に続く「感謝の祈り」の結びの句があります。「すべての栄光と讃美が、教会において、ギリストにより、聖霊と共におられるあなたに世々限りなくありますように。アーメン」

このように私たちの礼拝は、三位一体の神に対する讃美に満ちみちているのです。きょうの説教は、礼拝式文の説明のようになってしまいましたが、礼拝の中で礼拝式の説明をするのも、三位一体主日の守り方のひとつの方法になっています。

さて、きょうの福音はイエスさまとニコデモの対話でした。ここで語られているのは、神の働きが人の心に救い主イエス・キリストを示し、人を新たに生まれ変わらせてくださるということです。そして、それがきょうこの個所が読まれる理由です。

《さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」》。

ユダヤ人の指導者であるニコデモが夜イエスさまを尋ねます。そして、《わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています》と挨拶します。現代でも、この世の闇を知り、真理を求めてキリスト教に近づく人はたいていイエスさまについてこう言います。それが傍観者の公平な判断なのでしょう。

このニコデモは、良識と善意を十分に持ちながらもこの世的生き方に留まり、イエスさまを救い主と告白するに至らない人々を代表しているようです。彼はヨハネ福音書にあと二回登場します。ユダヤ人指導者たちがイエスさまを逮捕しようとしたとき、こう発言しています。《彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」》(ヨハネ7章50~51)。次は、イエスさまを墓に埋葬する場面です。《その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ》(ヨハネ19章38~40)。

《イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》。

イエスさまはニコデモに言います。イエスさまに、またはキリスト教に好意的であり、人柄も誠実で知的にも優れているあなたであっても、生まれたままの人は神を知ることはできません。人は勉強や修行といった自力の努力で神の救いを得ること、キリストを救い主と信じることはできません。神さまの賜物である霊によって上から根源的に生まれ変わることによって初めて、イエス・キリストを通して現わされた真の神と出会うことができるのです。霊による再生を即物的にもう一度母の胎から生まれ直すことと誤解するニコデモは、現代人にそっくりです。ニコデモの信仰は、人の営みの地平に留まっており、人が生ける神と出会うという次元が欠けていたのです。人は自分のできる努力はするのが当然ですが、人の努力を超えたことは、神の働きに委ねる、私たちの心に神が働く余地を空けておく、これが人として大事なことなのです。イエスさまとニコデモの対話から、きょうはこのことを心に留めましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン