2012年6月10日 聖霊降臨後第2主日 「罪びとを招くため」

マルコによる福音書2章13〜17節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコによる福音書2章13〜17節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

先週から教会の暦は後半に入りました。前半は「イエスさまの生涯」をテーマとして、誕生の予告から復活・早天・聖霊の降臨までをたどってきました。先週から始まった暦の後半は「聖霊降臨後」の季節といい、典礼色は「緑」です。これは11月一杯まで6か月間続く長い季節でして、「教会の成長」、ひいては一人ひとりの「信徒の成長」をテーマとして、今日から、今年の福音書、マルコによる福音書を順に読んでいくことになります。

さて、きょうの福音は聖書に「レビを弟子にする」と小見出しがついている個所です。

《イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った》。

マルコ1章に、ガリラヤ湖で漁をする二組の兄弟、四人の漁師を弟子に招く記事がありましたが、今度は、ガリラヤ湖のそばを通っている街道沿いの収税所に座っているアルファイの子レビを弟子として召す物語です。

この物語はマタイ9章とルカ5章にも載っているのですが、この徴税人の名はルカ福音ではレビですが、マタイ福音では、マタイと書かれています。このレビは、マタイという名も持っていたことになります。イエスさまはシモンにペトロという別名を付けたように、レビにはマタイという別名を付けたのでしょう。イエスさまの側近の弟子十二人の表は、マタイ10章、マルコ3章、ルカ6章、使徒言行録1章と4か所にありますが、すべてマタイと書かれています。

マタイ福音書はこの十二弟子のマタイが書いたという説が元になって、マタイ福音書と呼ばれているのですが、直弟子マタイが書いたという通説には、現代の学者たちは否定的です。

また、十二人の表には、アルファイの子ヤコブという名が出てきます。レビもアルファイの子ですから、レビとヤコブもまた、兄弟でイエスさまの弟子になったのではないでしょうか。しかし、これら二つのアルファイが同名異人だったことも考えられます。

イエスさまが徴税人のレビを弟子にしたということは、当時としては異例中の異例の出来事でした。こう書かれています。

《イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。》

ここに「徴税人や罪人」という言葉が3回も出てきます。当時の徴税人と、いま税務署に務めるお役人とは違います。当時、税金は役人が集めたのではなく、入札によって民間人に委託されました。こうして税金を徴収する権利を買い取ったのが、ルカ19章に出てくるザアカイのような「徴税人の頭」です。自分たちの取り分を勝手に上乗せして強引に徴収するので、悪党と見なされましたが、金持ちでした。 洗礼者ヨハネは説教で徴税人たちについて、《規定以上のものは取り立てるな》(ルカ3章13)と言っています。

徴税人の頭に雇われたのが、レビのような下っ端の徴税人です。彼らが収税所で輸出入の税、通行税、市場税などを徴収したのですが、一か所に一人、税ごとに一人という具合に雇われたため、徴税人は大勢いたのです。彼らは、他の仕事が得られず、止むを得ずそういう仕事をしていたのです。

徴税人たちは人殺しや強盗の同類と見なされて、礼拝することも阻止されていました。ルカ18章の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」では、ファリサイ派の人が神殿に入って祈ったのに対して、徴税人は「遠く離れて立って」祈ったと描かれています。ファリサイ派の律法学者が、《どうして彼(イエスさま)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか》と弟子たちに言ったのは、こういう背景がありました。ふつうの人にとって、徴税人と交わるのはタブー視されていたのです。ですから、イエスさまが弟子とするのに一番ふさわしくない人、それが徴税人でした。

《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」》。

ファリサイ派の律法学者たちに対する、このイエスさまの応答は見事です。誰もが納得する言葉でもって世間の常識をひっくり返し、真実に人を見る見方をあざやかに示しています。

世間一般の目で見れば、比較的に良く見える人と悪く見える人がいます。しかし、真実を見通す目で見ると、根本的に正しい人というのは実際にはいなくて、程度の違いはあっても誰もが悪を行なう罪びとです。イエスさまが来たのは、この意味の罪びとに救いをもたらすためでした。マタイ5章45に、《(あなたがたの天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》とあるように、神は人の目による善人と悪人の区別を超えて、すべての人を、すなわちすべての罪びとを救いへと招き入れるために、イエスさまをこの世に送り出されたのです。

ところで、罪びとの罪びとであるゆえんは、自分が罪びとであり、イエスさまの救いを必要とする者だという自覚がないことです。わたしたちは、他人のことはさておいて、自分の幸せを求めて、何を食べようか、何を着ようかと、日夜、思い悩んで生きています。それが人間の生き方だと悟ったふうに言う人もいますが、彼らも実際には日常に埋没してしまい、本当はもっと軽やかで明るい道が、神と人を愛する生き方があるということに思いが及びません。

さらに、自分を善良に生きているほうだと自認する人には、「善人の罪」が加わります。つまり、彼らは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ」るような、人を分け隔てせずに愛する神の心の広さを受け入れることができません。イエスさまと弟子たちがレビとその仲間の多くの徴税人や罪人と同席して、一緒に食事をすることに我慢なりません。先ほど引いたルカ18章は、そういう人を《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々》と言い、彼らの心をこのように描きます。

《ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」》(ルカ18章11~14)。

あなたはファイリサイ派の人と徴税人のどちらに似ているでしょうか。徴税人のような自覚をもつ人こそが、イエスさまの十字架の贖罪、罪びとを義とする神の無条件の愛が自分に向けられていることを知るのです。そこで、イエスさまはファリサイ派の人々に言います。《はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう》(マタイ21章31)。

わたしたちもまたレビのように多くの罪をゆるされ、神の真実と愛に招かれた者です。その自覚を確かなものとなし、真実を求め、真実に目覚め、真実の道を歩む者となりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン