2012年9月16日 聖霊降臨後第16主日 「ろうあ者をいやす」

マルコによる福音書7章31〜37節
高野 公雄 牧師

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
マルコによる福音書7章31~37節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた》。

先週はイエスさまがガリラヤ地方を去り、地中海に面した外国の港町ティルスに行き、悪霊に取りつかれた娘の母親と交わした会話を聞きました。その後、イエスさまは、ガリラヤ地方を取り巻く外国を巡り歩いたようです。シドンはティルスよりもさらに北にある港町です。デカポリス地方とは、ヨルダン川の東側にアレクサンダー大王とその将軍たちが植民地として建てた10の町のことで、やはりユダヤ人にとっては外国です。きょうの話は、イエスさまがガリラヤ湖周辺に戻ってきたときの出来事です。これが、湖の東側の外国での話なのか、湖の西側のガリラヤ地方での話なのかは不明です。

《人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。》

教会に目の不自由な人が来ることはありますが、私は耳の不自由な人を教会で見たことはありません。目の見えないことはずいぶん不自由だろうと思いますが、言葉が通じますから交流をし易いです。けれども、耳が不自由な人とは言葉による意思の疎通ができないので、交流がとても難しいです。耳の不自由な本人とそれを支えようとする人々は困り果てて、イエスさまのもとへ連れてきたのでしょう。イエスさまの救いを求めている人がイエスさまと出会うためには、仲介する人が必要であり、それが私たちに託された役割です。

また、齢をとると聞こえる音の範囲が狭くなりますので、交流が難しくなり孤独感を深めることを、私たちは心に留めていましょう。

《そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた》。

イエスさまを取り巻く群衆の雑踏からその人を連れ出したのは、何が起こっているのか分からず、恐れているその人を安心させたことでしょう。それと共に、イエスさまの、この人と向き合う真摯な心を現わしていると思います。「ローア者と話すときは、ローア者が口の動きから読みとれるように、正面に向き合ってはっきりとゆっくり話しなさい」。私は若いころ、聾学校の先生からそう教えられたことを思い出します。

きょうの物語で珍しいのがこの節の後半の記述です。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」と読むと、迷信的で、気恥ずかしく思います。この物語を、マタイ福音もルカ福音も省いたのは、イエスさまがまじない師のように誤解されるのを避けるためだったかもしれません。イエスさまのこのような所作が記されているのは、四つの福音書全体で、この一個所だけです。当時大勢いたと言われる病気治療師、まじない師とイエスさまとの違いは、イエスさまがここに書かれたような所作をしないで、単純に人に分かる普通の言葉で、「見えるようになりなさい」とか「立って歩きなさい」とかと、力強く言うことによって癒したことです。

しかし、実は、イエスさまのこの行為は気恥ずかしいことでも不名誉なことでもありません。これは、「適応(accommodation)」、つまり当時の人々の必要性に見合うように自分を順応ないし適合させてくださる、イエスさまの人々に対する愛の表れなのです。当時の人々は、言葉の力によるのでなく、頭に手を置くとか衣の裾に触るとか身体接触(スキンシップ)によって癒しの力が伝わると信じていたのです。イエスさまはそういう人々の思いを馬鹿にせず、愛をもって人々の思いにご自分を合わせてくださったのです。それが、神が人となって、人に分かる言葉と振舞いで、神の人に対する信実を表わしたということの意味なのです。

《そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である》。

「深く息をつく」とは深呼吸のことではなく、「深いため息を吐く」とか「うめき声を上げる」という意味です。その人のことを深く憐れんで、イエスさまは全身全霊を挙げて神に執し成しました。

そして「エッファタ」と言われました。これは、イエスさまが話していた言葉「アラマイ語(アラム語とも言う)」で「開け」という意味だとマルコは書いています。マルコはこれによって、「エッファタ」という力ある言葉がとても印象深かったことと、それが呪文のようなものではなく、普通の日常の言葉であったことを示します。

《すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった》。

イエスさまの「エッファタ(開け)」という言葉の力を受けて、その人はたちまち話せるようになりました。耳が聞こえないと自分の話す言葉を聞いて話し方を発達させることができないので、言葉によるコミュニケーションができなくなってしまいます。補聴器などで聞こえるようになると、自分の声を聞くことができるので、言葉をはっきりと話せるようになり、コミュニケーションできるようになります。

あるお医者さんによると、新たに言葉を得ることは時間を要することなので、すぐに話せるようになったということは、すでに話せる言葉を持っていたことになり、こに人はローア者ではなく、精神的に一時的に難聴とか失語症にかかった人であり、イエスさまは精神的な治療をしたのだということになります。この出来事を合理的にそう解釈しても良いし、素直にイエスさまが奇跡に直したのだと受けとめても良いと思います。

《イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた》。

こういうイエスさまの口止めは、治癒奇跡の後にたびたび書かれています。寝食を忘れて人々を教え導き、病者を癒す姿はすでにイエスさまが、世の終わりに現われるメシア(キリスト、救世主)であることを表わしています。しかし、それだけでは、イエスさまは当時大勢いた奇跡行為者の一人にすぎないことにもなります。この口止めは、イエスさまが本当のメシアである所以(ゆえん)は、十字架における贖罪死と復活を待って、初めて十全に明らかにされることを表わしています。

《しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」》。

人々のこの言葉は、きょうの旧約の日課に呼応しています。

《心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う》(イザヤ35章4~6b)。

この呼応は、この物語が単に一人のローア者の治癒を語るのではなく、イエスさまこそが旧約聖書が預言していたメシアであり、すでに新しい時代が始まっていることを示しています。こう理解すると、この物語がひとりのローア者の治癒について語りつつ、人間は他者の話しを聞く耳を持たず、他者を愛し支える言葉を持たない罪人であり、イエスさまが救いへの道を切り開くという普遍的な真実を語っていることが分かります。

現代人は理性を働かせれば、物事を公平に判断して、正しく振舞うことができる。だから、宗教など要らないと思っています。しかし、自分の視点から見えることは物事の一部分に過ぎません。しかも、好きか嫌いか損か得かという自分中心の見方から逃れられません。人はこの限界を持っています。人は宗教に出会うことによって、小さな自分を自覚し、それを克服するより普遍的な視点を与えられるのです。

「群盲象を撫でる」というインドの寓話を聞いたことがありますか。いろいろな変種がありますが、おおよその話はこうです。六人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われます。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と。

この寓話は、元来は、人々が仏の真理をなかなか正しく知りえないことをいったものですが、イエスさまの言行をとおして本当の愛を知り、独り善がりに陥っている自分を自覚して、他者とともに生きるより広い道に導かれる必要を説く話しとしても聞くことができると思います。

きょうの福音を聞いて、私たちもまた、イエスさまについて「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と賛美と感謝をもって称えたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン