2012年9月23日 聖霊降臨後第17主日 「ペテロの信仰告白」

マルコによる福音書8章27〜38節
高野 公雄 牧師

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
マルコによる福音書8章27~38節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、「イエス、信仰を言い表す」と「イエス、死と復活を予告する」と小見出しが付いた二つの段落に別れていますが、著者マルコとしては、少し長いですけれども一続きの物語として読まれることを意図した記事だと思われます。

マルコ福音は16章ありますが、きょうの物語は8章で、ほぼ中央に位置します。また、内容的にも、この物語は、ガリラヤ中心の活動が描かれた前半を閉じて、エルサレムに向かう旅と十字架上の死を描く後半の物語を始めるという、イエスさまの活動の大きな転換点に位置しています。

きょうの記事は、イエスさまが弟子たちに向かって《あなたがたはわたしを何者だと言うのか》と問い、ペトロが《あなたは、メシアです》と答えることから始まります。キリスト教では、「自分にとってイエスさまとはどういうお方か」ということを言い表すことを「信仰告白」と言います。それで、きょうの説教題は「ペトロの信仰告白」としましたが、イエスさまの問いは、私たち一人ひとりにも向けられていると言えます。

舞台は、フィリポ・カイサリア周辺の村です。今のゴラン高原です。そこはガリラヤ湖の北40キロ、ヘルモン山の麓で、ガリラヤ湖の水源付近です。フィリポ・カイサリアという町は、この地の国主フィリポ(英語ならフィリップ)がパニアスという古い町を拡張して、カイサリア(カイサルつまりローマ皇帝の町の意)と改名して、首府とした町で、ユダヤ人にとっては外国です。

これがフィリポ・カイサリア(フィリポのカイサリア)と呼ばれるのは、地中海岸にもフィリポの父ヘロデ大王が建設した同名都市(海のカイサリアとも呼ばれる)があるからです。この町は、使徒言行録によると、執事のフィリポが伝道し、そこに住み(8章と21章)、ペトロもここで伝道し(10章)、パウロも何度か訪れ、最後にローマに連行される前に2年間監禁された所です(23章)。二つのカイサリアはどちらも新約聖書にゆかりのある町です。

さて、ペトロは弟子たちを代表して《あなたは、メシアです》と答えました。ここはギリシア語の原文では「あなたはキリストです」と書かれており、口語訳聖書では、そのように訳されていました。ところが、新共同訳聖書では、原文のキリストを、メシアとキリストに訳し分けています。イエスさまの「称号」として使われている場合は「メシア」と訳し、イエスさまの「別名」として使われている場合は「キリスト」と訳します。新約の文書が書かれる時代にすでに、「キリスト」は称号というよりも固有名として使われるようになっていたのです。

「メシア」は旧約聖書の言葉、ヘブライ語であり、「キリスト」は新約聖書の言葉、ギリシア語で、どちらも「頭にオリーブ油をかけられた人」という意味です。イスラエルでは王(と大祭司と預言者)は、就任に際して、頭にオリーブ油を注がれました。この儀式は、その身分が神からの賜物であること、そして神がその職務の遂行に必要な力を与えてくださるようにという祈りを表わしています。

ユダヤ人の国は、ダビデ王やソロモン王の繫栄のあと、急速に衰えました。ユダヤ人たちは、神が預言者ナタンをとおしてダビデに約束された預言の成就、すなわちダビデの子孫からイスラエルに解放をもたらすメシア王が現われるのを長い間、待ち望んでいました。ですから、ペトロが《あなたは、メシアです》と答えたその言葉の意味は、ユダヤの人々の待ち望んでいたとおりの政治的、軍事的に勝利する王であったようです。

イエスさまは、ペトロの答えを聞くとすぐに、《御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められ》ました。それから、ご自分の死と復活を予告します、《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》。マルコはそれに続けて、《しかも、そのことをはっきりとお話しになった》と書き込みます。

イエスさまは、ペトロにはご自分のことを論じることは厳しくいましめる一方、ご自分の死と復活については公然と語るのです。これは、ペトロをはじめとする弟子たちや民衆の地上的な栄光のメシア像と、神がイエスさまに託した苦難のメシア像とが完全に食い違っていることを表わします。

ところで、旧約聖書のメシア預言の頂点に、イザヤ書40章~55章の「主の僕の歌」があります。この歌に描かれる主の僕は、神に選ばれて、イスラエルを神に立ち返らせ、教えを地の果てにまで至らせるという使命を与えられますが、その使命のために圧迫と恥を受けます。その恥と苦難と死は、自分の罪のためではなく、神へのまったき従順のうちに他者のために身に負うものであり、その苦難によって多くの人がいやされる、と記しています。その一部を引用します。

《彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた》(イザヤ53章3~6)。

これは、福音書に描かれたイエスさまの受難の姿そのものです。政治的なメシア王とはまったく違う、他者のために苦難を忍ぶメシア像です。

《すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」》。

ここで、ペトロは、自分のメシア像に合わないことを言うイエスさまを