ヨハネによる福音書16章25〜33節
高野 公雄 牧師
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章25~33節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
きょうは教会の暦で「全聖徒主日 Sunday of All Saints」といいます。聖徒 Saints という言葉は、聖書ではキリストの贖いを受け取って罪を清められた者という意味であって、すべてのキリスト信徒を指していました。それが迫害の時代に次第に殉教死した人々を指し、迫害が終わると、信徒の模範となるような偉い人を指す言葉となりました。そして、11月1日がそれらの人々を崇敬して記念する日となりました。その日は、全聖徒の日 All Saints’ Day と呼ばれます。
宗教改革者マルチン・ルターは、この日に大勢の人々が教会に集まるので目につくようにと、その前日10月31日に教会の扉に「95か条の提題」を貼り出して、議論を呼びかけたのでした。のちにこれが宗教改革の始まりと見なさます。それで宗教改革記念日は10月31日なのです。
プロテスタントの教会は、カトリック教会が聖人として特別に定めた人々を崇敬する習慣を否定し、この日を信仰の先輩たちを記念して、彼らを私たちに送ってくださった神の恵みに感謝し、信仰弱い私たちも彼らのように信仰の生涯をまっとうできるように祈る日としました。聖徒という言葉の意味が聖書で使われていた意味に戻ったわけです。
その後、近代になって人々の生活が忙しなくなってくると、ウィークデイに礼拝に集うことが難しくなり、11月の第一日曜にこの日の礼拝を守るようになりました。
ちなみに、アメリカでは四年ごとの大統領選挙は全聖徒主日の週の火曜日に行うと決まっています。それで、あさってその投票が行われます。
きょうは、キリストを信じて神の御許に召された信仰の先輩と何らかの形でかかわった方たちが礼拝に招かれ集まってまいりました。本日私たちに与えられたみ言葉は、ヨハネ福音16章からの一節です。これは、イエスさまが十字架に掛けられる聖金曜日の前日、最後の晩餐の席で行われたイエスさまと弟子たちとの対話です。
《わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く》。
弟子たちにとっても、私たちにとっても、問題は、イエスさまとは誰なのかということです。私たちが神に出会うこと、神に救われることに、イエスさまがどう関わっているのかということです。ここでイエスさまはご自身について謎めいた言い方をやめて、はっきりと「わたしは父すなわち神のもとから出て、この世に来た」と言っています。イエスさまはもともとは神の御許におられたのですが、私たちを救うためにこの世に遣わされたのでした。そしてガリラヤ地方を中心に神の国の福音を宣べ伝えました。ニケア信条はこれを「私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人とな」ったと定式化しています。
そして、「今、世を去って、父のもとに行く」と言います。今は弟子たちと会食をしていますが、もう間もなく逮捕され、大祭司と総督ピラトの裁判に付され、翌日には十字架につけられて息を引き取ります。しかし、それで終わりではありません。イエスさまは三日目に復活し、父の許へと帰って行きます。ふたたびニケア信条によると、イエスさまは「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました」。
このように、イエスさまは、ご自分の地上における生涯の使命、その言葉と振舞いの意味を弟子たちに語ります。弟子たちはイエスさまに応えて言います。
《あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます》。
イエスさまのご自分についての言葉を聞いて、弟子たちは、イエスさまがすべてをご存じであって、彼になにも質問をする必要がないことを今理解したと答えます。そして、イエスさまが神の御許から来たことを、つまりイエスさまは神の子であることを信じます、と告白します。
人が洗礼を受けるとき、信仰に入るとき、聖書の知識は乏しく、教義の詳細を理解できていないでしょう。しかし、イエス・キリストが誰であるかを理解し、イエス・キリストを愛し敬い信頼すること、このことだけは信仰にとって欠かすことはできない大事なポイントです。イエスさまは二千年前のパレスチナにおとめマリアから生まれ、すべての人のしもべとなって、人々に仕えて、人々の重荷を担い、人々の罪の汚れを負って十字架刑で死にました。彼はそういう歴史上の実在人物です。イエスさまは人としての地上の歩みをとおして、神がすべての人一人ひとりを愛し、守り、救いへと導いてくださることを身をもって証しされました。ここまでは、現代人も理解し、受け入れることができるだろうと思います。
現代人である私たちの問題はここからです。今述べたことを視点を天に移して見てみます。すると、こうなります。神はイエスさまの言葉と行いを通して、ご自身を、そしてご自身の人に対する信実の心を明らかに現わしてくださいました。神は自らイエスという人となって地上に降り立ち、ご自身の愛と信実を人々に啓示されました。イエスさまは人となった神なのです。イエスさまは私たちと変わらぬ歴史上の人物であると同時に、イエスさまは神が人となった方であって、歴史を越えた永遠の神ご自身であります。これが、イエス・キリストは誰であるかという問いに対するキリスト教会の見出した答えです。私たちは祈りの度ごとに、その結びで「あなたは聖霊と共に、ただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります」と唱えます。そのとおり、イエスさまは私たちの主であり、永遠に生きて治められるみ子なる神でありますが、このイエス・キリストの神性ということが近代的な教育を受けた人は受け入れられなくなってきているのです。私たちは頭の中からも心の中からも神の働く余地を閉めだしています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12)。現代人は、イエスさまについて、こうはっきりと言えなくなっています。キリスト者であっても例外ではなく、この信仰が崩れる危険をつねに抱えて生きています。しかし、イエスさまは、このことをもご存じです。
《だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。
「今、分かりました」「わたしたちは信じます」と答えた舌の根も乾かぬうちに、弟子たちはイエスさまを見棄てて逃げ去り、イエスさまはひとり苦難の道を歩かれることになります。しかもイエスさまはそういう弱い弟子たちを責めるどころか、「あなたがたには世で苦難がある」と弟子たちの負うべき労苦、困難を気遣い心配してくださっています。イエスさまは十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているか知らないのです」(ルカ23章34)と言って、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆、逮捕し裁き処刑するユダヤ人とローマ人の罪の赦しを父なる神にとりなしておられます。
このように、最後まで徹底して罪人を愛し赦し、彼らの救いのために命を差し出されるこのイエスさまのあがないの業において、人に対して慈しみ深い神の思いが明らかに現わされています。この事実こそが、「わたしは既に世に勝っている」とおっしゃる言葉の内実です。イエスさまの神の子としての強さは、あらゆる誘惑を退けて、死にいたるまで人のために仕え尽くした、人にご自分を与え尽くしたことになるのです。そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と言われます。私たちはみな弱いです。けれども優しく強いお方が共におわれるから、私たちは心強いのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とあるとおりです。
イエスさまからいただくこの平和のゆえに、私たちもまたイエスさまと共に「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言うことができるのです。そう言うことができるように、私たちの頭と心のうちに信仰の余地を、神が働かれる余地を開けているように心がけましょう。私たちがきょう記念している信仰の先輩たちにならって、遺された私たちも、こういう信仰に生きたいものです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン