2013年3月17日 四旬節第5主日 「悪い小作人のたとえ」

ルカによる福音書20章9〜19節
高野 公雄 牧師

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』

その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

ルカによる福音書20章9~19節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

《イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。》

四旬節の季節も深まり、来週はもう棕櫚主日です。イエスさま一行がついにエルサレムに到着した日曜日のこと、群衆は小ろばに乗ったイエスさまを歓迎して、棕櫚の枝を手に持って、「ホサナ!ホサナ!」と喜びの叫びをあげたことを記念します。この出来事は、この前の章、ルカ19章26以下に記されています。

そして、その週の木曜日にイエスさまは逮捕され、金曜日には十字架刑に処せられます。その最後の一週間、日曜から木曜まで、イエスさまは毎日、神殿に行って人々に教えました。《毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである》(ルカ19章47~48)。また、《それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た》(ルカ21章37~38)と記されています。

きょう朗読されました「ぶどう園と農夫のたとえ」または「悪い小作人のたとえ」は、神殿において人々に教えられたイエスさまの最後のたとえ話です。

《ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。》

イエスさまのたとえ話に、「ある人が長い旅に出る」ことが大枠になっている話がいくつかあります。「タラントンのたとえ」(マタイ25章14~30,ルカ19章11~27)、「門番のたとえ」(マタイ24章36~44,マルコ13章32~37)など。まず、主人が不在な状況が描かれます。神さまは現にいらっしゃるのですけれども、目には見えません。私たちはついこの世は人間の力と思いとで動いているように思ってしますけれども、実は神からゆだねられた世界であり、神によって守られているのであり、やがて世界は神の前にその歩みの責任を問われる日が必ず来ます。主人が長旅中で不在ということは、このような聖書の主張をたとえで語っているのです。

きょうのたとえでは、ある人はぶどう園の主人です。主人はぶどう畑を農夫に貸すのですが、同じたとえ話であるマタイ21章、マルコ12章によりますと、主人はぶどう畑に、動物が荒らさないように垣を巡らし、ぶどうの実は搾って保存する必要がありますから、搾り場も掘り、収穫が盗まれないように見張りのやぐらも立てる、というように用意周到にぶどう園を作りました。その上で、農夫に貸します。パレスチナの産物としては、ぶどう、いちじく、オリーブ、ナツメヤシといった果物が有名です。それで、聖書ではぶどう園はしばしば神の民イスラエルの国、土地を表わします。

この主人と農夫は、神と民との関係を表わしています。創世記1章と2章の人間の創造の記事も同じように語っています。神は人を作るまえに、人の暮らしのために用意周到な準備をしています。まず世界を造るのですが、光を造り、陸を造り、草木を造り、海の生き物、陸の生き物を造り、エデンの園を造って、人が暮らしていけるように用意万端が整ったところで、神は人間の男女をお造りになったと書いています。このように、人は神に大恩を負っており、農夫は主人に大恩を負っているのです。

《収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。》

収穫の時がきました。ぶどうの木を植えて育て、実をつけるようになっても3年は食べないで、木の成熟を待つ決まりになっていたことがレビ記19章23~25に記されています。今や、待ちに待った収穫の時が来たのです。ぶどう園の仕事を委ねられた農夫たちは、主人に小作料を支払うことが求められます。これは、主が来られるとき、私たちの人生の総決算をするときの比喩でもありますが、ここでは、人生のさまざまな段階における神との関わりの確認または回復の機会と考えても良いでしょう。

ところが、農夫たちは、主人から送られた僕を乱暴に扱い、手ぶらで追い返してしまいます。一度ならず、二度、三度と。これは、神の意思を伝えるために起こされた預言者たちへの仕打ちを表わしています。聖書は一貫して、神の意思を伝える者たちが人々から歓迎されず、むしろ手荒に扱われたことを書いています。預言者たちは心血を注いで神の言葉を伝えるのですが、彼らが人々に歓迎され、手厚くもてなされることはありません。聖書は徹頭徹尾、神の使者の不遇を描きます。

《そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』》

そこで、主人は「どうしようか」と思案します。たとえば、強制的に小作料を徴収するために、怖い人たちを送って脅すという手だってあるでしょう。しかし、心優しい主人はそういう強制的手段を採りません。「どうしようか」と考えた末に、愛する息子であれば、さすがに農夫たちも敬ってくれるだろう、支払ってくれるだろうと期待して遣いに出します。この主人は、農夫たちが無理に支払わされるのではなく、あくまでも自発的に尊敬の念をもって息子を迎え入れ、なすべき当然の義務を果たすよう忍耐強く待つのです。

「わたしの愛する息子」という言葉は、イエスさまが洗礼を受けたときに天からの声がそう宣言しました(ルカ3章22)。また、山上でイエスさまの姿が真っ白に光輝く変容をしたときも、雲の中からそう告げる声がしました(ルカ9章35)。たとえのこの部分は、イエスさまを地上に送り出すときの神のみ心、愛と忍耐を表わしています。

《農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。》

主人が不在であるために、神は目に見えないために、人間はすべてを自分で成し遂げたかのように、すべての自分のものであるかのように錯覚し、神は年老いて死んだ、人は神なしでもやって行けるように十分に成長したと考えるようになります。神のひとり子を殺したら、神の残した遺産はすべて自分たちのものになると考えます。二千年前の人も、現代人も、考えることは同じです。こうして神の愛と忍耐の結晶であるイエスさまは城外の処刑場で十字架に架けられます。しかし、その死は、人々の罪の贖いのためだったのです。《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである》(マルコ10章45)とある通りです。

《彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』》

この話を聞いていた人々は「そんなことがあってはなりません」と応えました。「そんなこと」とは直前の《ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない》ということだという解釈もありえますが、ここでは、農夫たちが主人の愛する息子を殺すことと採ります。その応えに対して、イエスさまは詩編118編22~23を引用して問い返しています。聖書に、建築の専門家が役に立たないと思って捨てた石が、一番大事な隅の親石となった、と書いてあるように、人の目利きは不確かであり、神のご計画は奥深くはかり難い。イエスさまは、権威を自認する者たちが捨てた者、つまり自分こそが実はメシアであって、人の救いの親石であることを宣言しているのです。この言葉は、イエスさまが十字架と復活を通して救い主となられたことを預言するものとして、新約聖書では、ここだけでなく、使徒言行録4章11にも、Ⅰペトロ2章7にも引用されている大事な言葉です。

まったく不信仰な人々の悪行に対して、「どうしようか」と思案した神は、私たちの救いのために、愛するひとり子を贖いとして与えてくださいました。人は、その行為や善行によってではなく、神の愛と恵みを受け入れる信仰、イエスさまの贖いを土台とする信仰によって救われます。神のこの愛の犠牲をいただいた私たちも「どうしようか」と自分の姿勢を思い巡らし、しっかりとこの神に応える決断をしたいと思います。イエス・キリストを救いの土台として、しかりと立って生きる者でありたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。