2013年3月24日 受難主日 「主イエスの受難」

ルカによる福音書23章1〜49節
高野 公雄 牧師

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

ルカによる福音書23章32~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

二千年前の今日、イエスさまは子ろばに乗って都エルサレムに入りました。人々は手に手に棕櫚(なつめやし)の枝をかざし、ホサナ、ホサナと歓呼の叫びで迎えます。また、上着を脱いでイエスさまの通る道に敷いて敬意を表します。今日の礼拝のはじめの歌は、この日を記念しています。今日からの一週間、代々の教会は、エルサレム入城に始まるイエスさまの受難の道を覚えて、私たちへの愛と赦しのために十字架にかかってくださったことに感謝し、罪を悔いて神に立ち帰ってきたのです。

現代人の生活は忙しくてウィークデイの集会が持ちにくくなったため、復活祭の前の日曜日は、昔のように棕櫚主日(枝の主日)として守るよりも、今日では聖金曜日のイエスさまの受難を先取りして、受難主日として守るようになっています。

本日は、ルカ福音23章1~49節を配役に分けて、全員で朗読しました。そうすることによって、イエスさまの受難の物語を観客として聞くのでなく、私たち自身がイエスさまの受難劇に参加していることを体験するためです。

イエスさまは枝の主日に民衆の大歓迎を受けてエルサレムに到着した後、毎日神殿に通って人々に教えを説かれました。しかし、人々はわずか数日のうちに彼に躓いて、口々に「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶようになります。そして、聖木曜日にイエスさまは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕されて、まずユダヤの最高法院で裁判を受けました(ルカ22章14~71)。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれて、ローマ側の裁判を受けるところから、23章は始まります。

きょうの福音は、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1~25節)とイエスさまが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けられます。前半のピラトによる裁判の場面では、《「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう》と、ピラトは三度(4節、14~15節、22節)も「イエスは無実であるから、釈放すべきだ」と語ったというように、イエスさまが何の罪もないのに処刑されることになった様子が描かれています。この「三度」という数は、完全を表わします。ペトロは「三度」イエスさまを知らないと言い、パウロは「三度」肉体のトゲを取り去ってくださいと祈りました。ここでは、ピラトがイエスさまは無罪であることをはっきりと宣言したことを意味しています。福音書の著者ルカはこのピラトの裁きを通して、無罪であるイエスさまが十字架にかけられたこと、つまり、イエスさまが十字架にかからなければならなかった原因は別のところにあったことを示しているのです。

後半のイエスさまが十字架にかけられる場面では、ルカ福音書に特有の話が含まれていて、印象的です。そこで、今日はルカ福音に特有の三つの事柄に目を留めることで、イエスさまの十字架上の死と私たちとの関係について考えて見たいと思います。

その一つは28~31節です。イエスさまはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29~30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。31節の《「生の木」さえこうされるのなら、「枯れた木」はいったいどうなるのだろうか》の「生の木」は、火にくべられるはずのないもの、つまり罪のないイエスさまを指し、「枯れた木」は火にくべられるはずのもの、つまり罪びとである普通の人間を指します。イエスさまはここで私たちに対して、「わたしのために泣くな」、むしろ、自分の本当の姿を見つめ、厳しい裁きに運命づけられている自分のために嘆けと言っています。イエスさまの受難の出来事を通して、自分が本来受けるべきだった裁きの姿を知ることによって、その裁きを自分に代わって受けてくださったイエスさまの愛と恵みを悟ることができるのです。

次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。《そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」》これはイエスさまが語られた言葉としてとても有名ですが、重要な写本でこの言葉がないものがあるので、新共同訳聖書では亀甲カッコ〔 〕で囲まれるようになりました。この祈りは、無実のはずのイエスさまを殺した犯人は誰か、ユダヤ人の側かローマ人の側か、と問うていては理解できません。イエスさまはこの祈りを私たちのために祈っているのだからです。イエスさまを十字架につけた犯人は、神に背き、自分勝手に生きている私たちすべての人間なのです。毎年、聖金曜日に、私たちはイザヤ書の「主の僕の歌」を読みます。そこに、《彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた》(イザヤ53章5~6)とあります。ここに、イエスさまの死は私たちの罪を負うためのものであることが明らかに示されています。

40~43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスさまに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。イエスさまと一緒に、二人の強盗が一人はイエスさまの右に、一人は左に十字架につけられました。その一人がイエスさまをののしって《「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ》と言います。もう一人はそれをたしなめて、《お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない》と言います。彼は、罪のないイエスさまが神の裁き、神の下す罰として十字架刑についていることに衝撃を受けて、神への恐れを抱いた、つまり、彼は生ける神と出会ったのでしょう。そして、自分は十字架につけられて死ななければならない罪びとであることに気づかされました。それと同時に、罪なくして自分と同じ十字架の刑を引き受け、共に苦しみを受けているイエスさまを知りました。イエスさまが《父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈るのを聞いていたはずです。

彼は、《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》と、イエスさまをキリスト(神が油注がれた王)として認め、その救いにあずかることを願います。すると、イエスさまは《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》と約束します。「回心した今」、苦しみの中でイエスさまが共にいてくださることに気づいたとき、もうそこに御国が実現しています。救いとは、イエスさまと共にいる者とされることです。その救いをイエスさまは彼に約束してくださったのです。「あなたは、私が実現する罪の赦しの恵みにあずかり、私と共にいる者となる」、と救いを宣言してくださったのです。私たちもまたイエスさまに出会い、神の前における自分の罪に気づき、イエスさまの十字架による救いにあずかりました。その点では、回心した強盗と同じです。私たちは決して、行いが立派だったから、心がけが立派だったから救いにあずかったわけではありませんでした。

この回心した強盗は「天国泥棒」と呼ばれることがあります。生きている間は盗んだり、殺したりしていたのに、最後の最後にイエスさまの救いにあずかり、天国への切符を手に入れてしまった、天国をも盗んでしまったというわけです。この回心した良い強盗は、伝説によると、ディスマス Dismas または聖ディスマスと呼ばれます。イエスさまの右手の十字架に架けられたそうで、彼に救いの言葉をかけているために、十字架のイエスさまは首を右手の方に向けているのだそうです。

しかし、この天国泥棒という言葉を否定的な意味にとってはいけません。この強盗において、イエスさまの十字架の死によって成し遂げてくださった救いがどのようなものであるかが、印象的に描かれているのです。イエスさまによる救いは、人がどれだけ善い行いを積んできたかによるものではありません。この救いにあずかるのに、こんな罪を犯してしまったからだめだとか、こうなったらもう遅いということはありません。私たちは皆、この天国泥棒と同じように、イエスさまと出会い、その救いにあずかるのです。イエスさまは私たちのために十字架を負っていてくださいます。イエスさまが私たちのために備えてくださった聖餐の食卓を囲んで、私たち一人ひとりがイエスさまに連なる肢体として、豊かな養いをいただくことのできる幸いに感謝しましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。