2013年3月31日 復活祭 「キリストの復活」

ヨハネによる福音書20章1〜18節
高野 公雄 牧師

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

ヨハネによる福音書20章1〜18節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

主イエスさまご復活の祝日です。おめでとうございます。まずは、今日の福音によって、復活日に起こった出来事をたどって行きましょう。

金曜日の正午ころに十字架に架けられたイエスさまは3時ころに息を引き取ります。ユダヤの最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフがローマの総督ピラトに願い出て、その日のうちに遺体を引き取り、新しい墓に葬ります。ゴルゴタの丘まで着いて来た女性たちが、磔刑の様子も埋葬の様子も見つめていました。ルカ福音によると、《婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った》(ルカ23章56b~24章1)と書いています。きょうの福音は、ここから始まります。

《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。》

土曜の安息が終わり、週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に行ったのは彼女ひとりではなかったようですが、ヨハネ福音はイエスさまとの個人的な出会いを描くという特徴があり、ここでも他の女性のことには触れません。

このマグダラのマリアについてルカ福音はこう記しています。《七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた》(ルカ8章2~3)。彼女は七つの悪霊が憑いていたと言われるくらい、精神的にも肉体的にも深い苦悩を負っていたのでしょう。ガリラヤでイエスさまに救われると、一行にずっと従って献身的に奉仕してきた女弟子です。

ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。》(ヨハネ14章1~3)

ご自身の犠牲によって、罪を取り除いて下さった。そういうお方として現れてくださった。それが復活なのです。ただ、死んだ人間が復活したということではないし、そのことを信じるのが復活信仰ではありません。少なくとも、それだけではイエス様の復活を正しく理解しての信仰ではない。イエス様の復活は、私たちの罪を取り除くため、赦すためです。そのためにイエス様は十字架にお掛かりになり、そして墓に葬られ、そして日曜日の朝早く、暗い内に復活されたイエス様は、マグダラのマリアに現れ、その日曜日の夕方には隠れていた弟子たちに現れてくださったのです。そして、聖霊を吹きかけてくださった。その時、彼らは、イエス様の復活を見て信じました。罪の赦しが与えられたことを信じることが出来たのです。

イエス様は甦られましたけれど、それはイエス様の肉体が蘇生した訳ではありません。蘇生しただけならば、そのイエス様はまた何年かすれば死ぬイエス様です。イエス様は復活されたのです。そして、その復活とは神のところへ上ることです。そして、それは実は聖霊において世に降り、マリアや他の弟子たちの罪を赦し、新たな命を与え、共に生きることです。そして、その「主」は世界中の人々の罪を取り除き、新たな命を与える世界の主であって、マリアだけの主ではないのです。

《そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」》

当時のエルサレム付近の墓は、岩をくり抜いた洞窟です。入口を入ったところは人が立てるほどの高さの天井をもつ小部屋になっています。その小部屋に、さらにいくつか細長い横穴が掘られていて、そこに亜麻布で包まれた遺体は安置されます。もちろん、洞窟の入り口は大きな石でふさがれます。「身をかがめて中をのぞくと」という表現が5節と11節に出てきますので、入り口の穴は小さくなっていたようです。

ところで、十字架刑という極刑を受けた遺体は、ふつうは引き取られることもなく、死体捨て場に捨てられるだけです。アリマタヤのヨセフの勇気ある行動によって、イエスさまは《ユダヤ人の埋葬の習慣に従い》(ヨハネ19章40)手厚く葬られることができたのです。

マリアは朝早く、まだ暗いうちに墓に着いて、墓から石が取りのけてあるのを見ました。墓の中をのぞいても暗くて何も見えなかったでしょうが、彼女は墓穴が開いていることから、イエスさまの遺体が移されたと考えました。急いでペトロともう一人の弟子に知らせます。二人の弟子は走って行って、まずペトロが墓の中に入ります。《彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。》亜麻布や顔覆いが残されているということは、遺体は盗まれたのではないことを示しています。《もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。》彼は残された布を見てイエスさまの復活を信じます。しかし、ペトロはそれだけでは信じられません。あとで復活のイエスさまにお会して、はじめて信じます。《イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。》これで、 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と泣きながら天使たちに訴えたマリアは、いまや「わたしは主を見ました」と仲間たちに伝える者に変えられました。どうか、私たち一人ひとりがきょうの福音を通してそれぞれにイエスさまを見、その呼びかけの声を聴き、「わたしは主を見ました」と、愛する人々に証しすることができますように。そして、これからの人生をイエスさまと共に歩めますようにお祈りします。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

父なる神、マグダラのマリアは、「わたしは主を見ました」と弟子に告げ、また主から言われたことを弟子たちに伝えました。この地上を歩まれたナザレのイエス様が、神の御子、救い主キリストであることを、おそらく最初に理解したのはマグダラのマリアであったでしょう。主を愛する人だけが感じ取れる真実があります。わたしたちがイエス様のご復活を喜べることを感謝します。イエス様の父である神が、わたしたちの父でもあることを、また、イエス様がわたしたちを兄弟と呼んでくださることを感謝します。イエス様と共に、これからの人生を歩ませてください。

主のみ名によって願い、祈ります。アーメン。

復活の出来事は、福音書記者ヨハネにとっては、天の父のもとから遣わされること、十字架の死、十字架にあげられること、そして、三日目のご復活、そして、天の父のもとにあげられることと、切り離すことのできない大事な、一体のこととして考えられるべきことであります。

《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行二人の弟子の話は終わりで、話は二人から遅れて墓に着いたマグダラのマリアに戻ります。

墓の外に立って泣いていたマリアが墓の中に入ってみると、二人の天使がいて、《婦人よ、なぜ泣いているのか》と言います。泣く訳を尋ねているのではなく、もう泣く必要も理由も無いことを知らせているようです。マリアが《わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません》と答えながら後ろを振り返ると、そこにイエスさまが立っておられます。しかし、イエスさまだと分かりません。彼女はそれを園丁つまり墓所の管理人だと思って、《あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります》、と語りかけています。「わたしの主」とか「わたしが引き取ります」という言葉に、イエスさまに対するマリアの親愛の情がにじみでています。

イエスさまが「マリアよ」と呼びかけると、彼女は即座に「ラボニ(先生)」と答えます。ヨハネ10章3~4に、《門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く》とあるように、マリアは善き羊飼いイエスさまの声を聞き分けたのです。

《イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。》

ところで、マタイ28章8~9には、こうあります。《婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。》女性たちはひれ伏してイエスさまの足をかき抱いています。マリアもイエスさまにすがりついたのでしょう。また、ヨハネ20章27~28でイエスさまは、《トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った》とあります。復活の姿を現わされたイエスさまは、体をもっておられ、触ることも抱くこともできたし、それを弟子たちに許されたことが記されています。

では、「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。《まだ父のもとへ上っていないのだから》という言葉や、《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」》(ヨハネ20章29)という言葉から考えると、いつまでも復活のイエスさまの声を耳で聞く、目で見る、手で触るということに依りすがっていてはいけない。イエスさまは間もなく天に上ってしまう。これからは天から聖霊を、すなわちイエスさまの復活の霊を送るという仕方で、私たちと共にいることになる。マリアも私たちも、そのことを理解し、受け入れなければならないのです。

イエスさまはマリアにこう諭されると、彼女をご自分の昇天を知らせる使者とされます。《わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」》「わたしの兄弟たち」とは、ご自分を裏切った弟子たちです。ご自分を捨てた弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」と呼んでくださいます。そして、天の父は、わたしの父であり、そして、わたしを裏切って逃げた弟子たち、つまり「あなたがた」の父でもいてくださる。その神の信実のみ心、愛と赦しを伝えるようにと、イエスさまはマリアに語るのです。

《マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。》