2013年4月14日 復活後第2主日 「主の復活顕現」

ルカによる福音書24章36〜43節
藤木 智広 牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

ルカによる福音書24章36~43節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、先週の日曜日は、私の按手、就任式にご参列いただき、全面的にご奉仕してくださいまして、誠にありがとうございました。本当に祝福されたすばらしい式でした。ご参列いただきました皆様からお祝いのお言葉をいただき、牧師としての心構えを改めて身に着けさせていただきました。私はこの出来事を生涯忘れるわけにはいきません。そして、六本木教会の皆さんおひとりおひとりは、私が正式に牧師となり、この教会の牧師として就任されたことの証人であります。証人となってくださった皆様と共に私は、この六本木ルーテル教会で復活のキリストを宣べ伝えながら、共に生きていくという確固たる指針を抱いております。六本木という地で、聖霊の働きに満たされながら、神様の御用にお仕えしていくのであります。そして、この六本木の地から、どこまでも、どこまでも、それは地の果てに至るまで、神様の福音を宣べ伝えていく、その使命に生きる者たちの群れであるこの六本木教会は、神様によって建てられたキリストの御体であるのです。

六本木教会では本日また、新たな一歩を踏み出します。今日の礼拝の中で、新しい役員の方々が与えられるのです。新たなるリーダーたちを迎えて、教会の秩序がこのように整えられていくということに、生まれ変わった新しさに生きる教会の姿を描きますが、それは全くの新しい姿ではありません。教会が辿ってきた信仰の歩みを、今の私たちが継承していくということに他ならないからです。遡れば、ペトロ、パウロの時代、初代教会から続く、使徒的な公同の教会の歩みを私たちは引き継いでいるのです。もちろん、時代も国も、文化も生活形態も全然異なりますが、彼らの歩みは今の私たちの歩み、復活の主と出会った出来事を証する彼らの姿は、今の私たちの姿と変わらないということなのです。なぜなら、パウロがエフェソの信徒への手紙で「主は1人、信仰は1つ、洗礼は1つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して、すべてのものの内におられます」と言いっているとおり、多様なあり方においても、本質は1つであるということだからです。時代も国も文化も生活習慣もすべてを越えて、神様はすべてのものの中におられ、すべてのものを通して働かれているのです。私たちもこの神様のご支配の中にあって、今この時を歩むことが許されている者のひとりひとりなのです。様々な事情を抱えて、問題と向き合いつつも、私たちの心と思いはひとつであるということ、そのことを信じて歩む私たちの信仰の姿が、ペトロやパウロたちの時代から引き継がれているということを覚えたいのであります。

今日の福音書は、主イエスが真の肉体を持って、弟子たちの前に現れたという復活の出来事の核心を描いております。婦人たちは主イエスのご遺体が納めてあるはずのお墓に行きましたが、ご遺体は見つからず、その時、彼女たちの前に現れた2人の天使から主イエスが復活したことを聞きます。そして、生前の主イエスの言葉を思い出し、復活を信じました。弟子たちは婦人たちの証言を信じませんでしたが、エマオへの途上で、クレオパともうひとりの弟子は、主イエスに出会います。しかし、主イエスであるとわかって、そのお姿をはっきりと見ることはできませんでした。時を同じくして、シモン、すなわちペトロたち11人の弟子たちの前にも、主イエスは現れたのでしょう。24章の33節から35節を見ても、福音書はその時の出来事を詳しく描いてはいませんが、おそらく彼ら11人も、主イエスのお姿をはっきりと見ることはできなかったのではないでしょうか。ですから、今聖書の御言葉を聞く私たちは、婦人たちや弟子たちの証言を通して、主イエスの復活の出来事を聞くのですが、いづれもこの出来事の詳細が断片的であるということに気付かされます。皆が皆バラバラの証言をしており、彼らは話し合っているのですが、彼らが共に主イエスの復活を「共に喜んでいる」という場面が、今までの箇所では描かれていないのです。婦人たちやクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子、聖書には記されていませんが、その他の弟子たちも、主イエスの復活を知る体験をしたことかと思われますが、彼らの証言は、ひとつにならないのです。

彼らの証言がひとつとなった出来事を描いているのが、まさしく今日の福音書の出来事なのです。今日の福音書は、主イエスが真の肉体をもって復活されたという出来事を伝えているだけでなく、彼らが一致して、主イエスの復活を共に喜んでいる出来事を私たちに伝えているのです。冒頭の36節に、「こういうことを話していると」とありますから、すぐ前の箇所の出来事から続いていることがわかります。ここにはクレオパともうひとりの弟子、ペトロたち11人の弟子たち、おそらく婦人たちもいたでしょう。他の弟子たちもいたかも知れない。その大勢の弟子たちの真ん中に、主イエスが突然現れ、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福されたのです。主イエスが彼らの真ん中に立たれて祝福されたということが、何よりもバラバラだった彼らの思いをひとつにしてくださる主イエスの愛の招きに他ならないのです。私たちはここに教会の姿を見ます。様々な思いを抱えて、私たちは集められますが、主イエスは私たちの真ん中に立たれて、私たちを祝福される。この祝福のもとに、共に交わり、共に生きよとそのように語られる主イエスのお姿があるのです。

ところが、復活の主イエスを目の当たりにして、弟子たちは恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こし、亡霊を見ているのだというのです。亡霊だと思った、すなわち主イエスのお姿に、生ける者として、その命を見出すことはできなかったのです。亡霊、それは単にオカルトチックな表現には留まりません。真の恐怖です。恐れおののき、うろたえ、心に疑いを起こすもの。あいまいな存在にすぎませんが、しかし、この存在が弟子たちに、そして私たちにも確固たる疑いを引き起こすのです。疑い、そう彼らは信じていなかった。彼らは各々が復活の証言をしていたにも関わらず、信じるには至っていなかったのです。主イエスのお姿を通して、彼らの復活証言、そこには同時に疑いがあったということを伝えているのです。

彼らのこの疑いの出来事、かつて彼らは湖の上を歩く主イエスのお姿にも同様の反応をしているのです。船に乗っていた彼らは、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、「幽霊だ」と叫びます。亡霊と同じように、彼らは主イエスだとはわからなかった。心に疑いを起こし、うろたえていたのです。しかし、その時、主イエスは弟子たちに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わたしだ」と自らを現される主イエス。あながたの知っている私であると、御自身を顕される主が彼らと共にいる。ひどく怯え、恐怖のあまり自分の心を閉ざしていた彼らの心を、主イエスは開かれるのです。

復活の主イエスは今また弟子たちにご自身を顕されるのです。手と足を彼らに見せ、尚も疑う彼らの前で、魚を食べたのです。真の肉体があるということ。主イエスが真の肉体を持ち、復活したことの証明に他ならないということ以上に、主イエスが自らを顕し、彼らの疑いの心を開かれようとしておられるそのお姿の中に、弟子たちとの関わり、弟子たちへの愛がここに示されているのです。婦人たち、弟子たちの証言は真実であれ、やはり断片的であった。主イエスはエマオへの途上で、ふたりの弟子と共に歩まれたが、彼らは主イエスだと気付かなかったのです。気付いて、そのお姿を見ることはできなかった。弟子たちは、証言しますが、そこに復活の主イエスとの関係は見いだせなかったのです。

主イエスは弟子たちの真ん中に現れて、彼らを祝福しました。真ん中ということは、誰にでもわかるように、見えるようにご自身を顕し、一人一人との関係において向き合ってくださるということです。私は先ほど、この場面の中に、教会の姿があると申しました。復活の主イエスのもとで、弟子たちが祝福されている場面に、主イエスを頭とした彼らの交わり、結びつきをも見出します。彼らは真に肉体をもった主イエスの御許で、ひとつとされているのです。主イエスの復活の御体としての教会。そこには当然、手もあり、足もある。ペトロの時代から継承されてきた使徒的な教会を受け継ぐ私たちも、この復活の主と出会い、互いに交わり、関わりをもつ者たちの群れであります。それでは、私たちはどこに復活のキリストの手と足を見出すのでしょうか。

私が卒業したルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の校舎には、手と足のないキリストの像があります。学生たちはなぜ、このキリスト像に手と足がないのかと疑問を浮かべていました。復活の御体を顕してはいないと言う人もいました。この像がどこから来て、どのような由来があるのかということは詳しくわかりませんが、ある先生がこう言ったのです。「私たち一人一人がキリストの手であり、足である」と。私たち一人一人がキリストの手となり、足とされている。手と足がないというわけではない。それらは確かにある。弟子たちの前に顕れた復活のキリストがまさしくそうでありますが、この復活の、手も足もあるキリストの御体は教会であるということ。この教会に集う私たち一人一人がキリストを証する手であり、足であるいうことに他ならないのです。私たち一人一人が、キリストの御用のために、手となり、足となって、福音を宣べ伝えるべく、用いられているということ。私たち一人一人がかけがえのない存在であり、主イエスに愛される存在であります。亡霊なるあいまいな存在としてではなく、真の肉体をもち、復活された主イエス、かつて弟子たちに「安心しなさい、わたしだ。」と言われ、御自身を現されたこの主イエスと共に私たちは歩み続けるのです。

主イエスは確かに生きて、今も私たちと共におられます。復活の御体、それは私たちの目に直接見えなくとも、この御体の中で生き、歩む私たち一人一人が、キリストの手足となって、用いられる姿に見出されるのです。新しさばかりに目を奪われるのではなく、継承されてきた信仰の旅路を更に一歩一歩と前進していくことができるように、共に歩んでいきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。