2013年4月21日 復活後第3主日 「宮清めの祭り」

ヨハネによる福音書10章22〜30節
藤木 智広 牧師

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

ヨハネによる福音書10章22~30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

昨日の土曜日から、関東地区が主催する「信徒塾」が始まり、六本木教会からは、私とKさんが受講してまいりました。教職を含めての参加者は、全部で25名近くもいますので、かなりの反響を呼んでいます。これは大変うれしいことではあります。皆さんは、この信徒塾について、どのような想いを持たれているでしょうか。単なる勉強会というイメージを持っておられる方もいるかも知れません。また、奉仕者訓練の場というイメージも持っているでしょう。参加者の皆様の中にも、勉強目的で参加された方もいるでしょうし、実際に奉仕者として活動するために、卒業を目指して、認定者となるべく、参加されている方もいます。

授業を始める前に、開会礼拝がありました。大宮教会の梁先生が司式を務められ、メッセージをされたのですが、その礼拝の中で、梁先生は参加者の皆さんに対して、この信徒塾にはビジョン、つまり夢があると言われました。明確なビジョン、夢があるということ。希望があるということに思えます。この信徒塾が単なる勉強会や奉仕者訓練の場だけではないということ。目的がある。それも大いなる目的。つまり神様のビジョンにあなたたちが参与するということです。このビジョンを持てることはすばらしいことであると、先生は力強く語られていました。とても私は印象に残っています。

ビジョンを描くということ。会社や学校という組織体だけではなく、一人一人が人生のビジョンを持ち、それを描いていることでしょう。それは期待や願望だけで潰えるのか、実現するだけの実行力と決断力を持っているのか、人によって違います。ビジョン、そこには熱い思いがある。確固たる確信がある。決して大げさな言葉ではありません。なくてはならない指針であります。もはや私の口を通して言うまでもないのですが、六本木教会も、六本木教会のビジョンがある。4月から新しい牧師、役員が与えられ、奉仕者が与えられました。初の役員会も先週いたしました。新しさの中で、慣れないことも多く、戸惑うことも多くありますが、常に前向きにチャレンジしていきたいという皆さんの熱意が伝わってきます。ビジョンが描かれている。しかし、それは私たちだけの思いではないということ、神様の御用にお仕えするという絶大なビジョンの中で、私たちの歩みがあるということ、それに参与させていただいているということなのです。神様が描くビジョンに私たちはお仕えするのです。そのビジョンとは何か、それこそが主イエスを通して働かれる神様の愛、全き愛と、永遠の命を与えられる救いのビジョンなのです。

今日の福音書でありますヨハネによる福音書10章には、主イエスが門であり、良き羊飼いであるという有名な譬え話が記されています。羊たちは、主イエスという門を通って羊の囲いに入って牧草を見つけることができるのですが、その羊たちを導く羊飼いも主イエスであります。しかし、そこには盗人や強盗も同時に入り込んでくる。羊たちを襲うためです。羊飼いは羊たちを守るために命をかける、いやそれ以上に命を捨てるのです。羊たちが豊かに命を得るためです。羊飼いである主イエスはそのために来られたというのですが、17節と18節でさらにこう言われるのです。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」。命を捨て、命を得る。そのどちらも成し遂げられるということが、父なる神様の掟、強いて言えば、御心なのだと証しされる主イエス。この言葉を語られる主イエスのお姿の中に、十字架と復活の主イエスがおられるのです。神様のビジョンを成し遂げるために来られた主イエス。今、苦難のメシアとして、私たちの前におられるのです。

さて、それでは羊を襲う盗人や強盗は何を顕すのでしょうか。文字通り受け止めれば、害をなす者たちです。傷害となる存在。しかし、それは目に見える害だけではなく、痛み、悲しみ、嘆きを与える存在、闇そのものに他なりません。羊である私たち人間にもたらす闇、この闇の只中に生きている私たちの人生があります。この闇から救われたい、光を照らして欲しいと私たちは願う者であります。今日の福音書に出てくる、ユダヤ人たち。彼らも今、ローマ帝国という圧政者、闇を取り払ってくれる光なるメシアを求めているのです。主イエスにその姿を見いだせない彼らは、10章24節で主イエスに詰め寄ってこう言うのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」気をもませる、つまり不安に陥っているということです。浮き足が立ち、不安の只中にある。メシアなのか、そうでないかはっきりしてほしい。不安だけでなく、いらだっているようにも見えます。

彼らユダヤ人たちは今、22節に記されています「神殿奉献記念祭」、口語訳では今日の説教題であります「宮清めの祭り」という祭りを祝っている最中にあります。これはヘブル語で「ハヌカ」と言われるユダヤのお祭りで、「ハヌカ」とは「奉献」という意味を指します。また、このお祭りは「光の祭り」とも言われています。光の祭りと言えば、私たちはまず燭台に火を灯すクリスマスを思い浮かべるかと思いますが、ハヌカもまた、燭台に火を灯す光のお祭りなのです。それは、彼らユダヤ人たちが、過去に、自分たちの国がギリシャに支配されていた時代に、このギリシャを追い出し、首都エルサレムを救った出来事に由来します。ギリシャの支配者たちは、ユダヤ人たちに、神様への信仰を捨てさせるために、エルサレム神殿に豚や偶像を持ちこんで、それらを納めさせ、神殿を汚しました。エルサレム神殿を清めるために、ユダヤ人たちは立ち上がりますが、その反乱軍を指揮したのが、マカベヤ一家のマタテヤという人物。そう、あの「ユダヤのマカべウス」です。ヘンデルが作った「ユダス・マカベウス」という凱旋の歌はこの人物に由来します。彼らは、ギリシャと戦い、見事にエルサレム神殿を奪還することに成功しますが、その時、神殿は完全に荒れ果てていました。彼らは豚や偶像を取り除いて神殿を清めますが、燭台に火を灯そうにも、1日分しか油が見つからず、油の補充には8日間もかかるという状況でした。しかし、火は1日のみならず、補充に必要な日数である8日間も燃え続け、火は途絶えることなく、永遠の火を灯すことができたのです。彼らは神様が奇跡を起こして、8日間も油が尽きないにされたと信じ、神殿の再奉献ということで、ハヌカと呼ばれる祝典を祝うようになりました。そして、このお祭りは、「ハヌキヤ」と呼ばれる特別の燭台に8日間にわたって火を灯すため、「光の祭り」と呼ばれるようになったそうです。

主イエスの時代のユダヤ人たちが、ユダヤのマカベウスを、国を救ったメシア的な英雄として讃えていたことは目に映ります。このお祭りを祝うたびに、今の支配者であるローマ帝国を倒してくれるメシアを彼らは求めていた、そして主イエスがそのメシアなのかどうか、彼らははっきりさせたいのです。しかし、主イエスは彼らに言われるのです。25「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

彼らユダヤ人たちは、主イエスを信じず、その声を聞くことができない。自分たちの描いているユダヤのマカベウスといったメシア像を、主イエスに見出すことができないからです。そして、28節で、主イエスは永遠の命を与えると言われるのです。武力をもって命を削る方ではなく、命を造りだす者、尽きることのない永遠の命を与える方なのです。尽きることのない、永遠の命という灯を照らされるのです。ユダヤのマカベウスたちが、神殿を清めた際、8日間も火が燃え続いて、途絶えることのなかったあの灯のように。主イエスはその永遠の灯を照らされる光のように、今、真の良い羊飼いとして、救いの門として、おられるのです。永遠の命が与えられ、そこに生きるとは、主イエスという光に照らされて、歩むことなのです。その恵みの中で、生き続けられるように、主イエスはあなたを招き、あなたに声をかけています。永遠の命を与えられる主イエスという永遠の灯を照らす光は、私たちの闇の只中で照らされているのです。目の前の困難や痛み、悲しみから逃れるということでなく、たとえそのような状況の只中にあったとしても、それは絶望のままで終わりはしない。あなたはこの光に照らされて、希望を持って歩むことができる。神様はその私たちへの愛、救いのビジョンをもって、愛する御子をこの世界に、私たちの闇の只中に、永遠の灯、光として遣わされたのです。ユダヤのマカベウスが死に、ローマ帝国が支配しようとも、この光は潰えない。私たちの人生の只中においてもそうです。主イエスは復活して、今も私たちと共におられる。永遠の命を与えるために、私たちに呼びかけられています。この命に生きるということは、闇の只中にあっても、もはや恐れることはないということです。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23編の作者はこのように歌います。恐れることはない、それは主が共におられるからに他ならない。迷い悩み多き、羊である私たちであっても、良き羊飼いは私たちを導くとこしえの光として輝いています。この光の道は途絶えることがないのです。

ここに復活のロウソクが灯されています。この復活のロウソクは、礼拝が終わっても、ずっとつけておくということが、教会の習慣としてあるそうなのです。今は礼拝後、この礼拝堂には誰もいなくなりますので、防犯上消しますが、このロウソクの灯が消えないということは、まさに復活の主イエスの光そのものを表わしていると言えるでしょう。この永遠なる灯、燃え続ける灯としての命に与るものとして、私たちの内に、この光を受け入れ、光の道を、共に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。