ヨハネによる福音書13章31〜35節
藤木 智広 牧師
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13章31~35節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
主イエスは言われます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いに愛し合うということ、そのことを主イエスは「新しい掟」として、弟子たちに、そして私たちに与えられました。互いに愛し合うという新しい掟、新しいとありますから、当然古い掟があるわけです。それは旧約聖書にある御言葉、レビ記19章18節に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という愛の掟であります。
古い掟、新しい掟、共に「愛」ということが共通しています。愛する、愛される、愛し合う。当然、それは単に恋愛感情における関係、または家族関係について言っているのではなく、また好き嫌いということについて言っているのではありませんが、私たちは、普段の人間関係において、「愛し合う」という関係、言葉をあまり思い浮かべないのではないでしょうか。協力する、支え合う、仲よくする、一緒に歩むといった言葉のほうが身近にあります。東日本大震災が起こった年では、「絆」と言う言葉をあちこちで聞きました。日本中の人がこの絆で結ばれている、苦しいのはあなただけじゃない、私が、あなたが共にいるよといった、そういうフレーズの言葉をたくさん聞きました。印象に残っている言葉です。
しかし、愛し合うと言えば、やはり恋愛関係、家族関係、または教会、聖書の中にある専門用語みたいな領域に押し込まれてしまうという気がいたします。というのも、根本的に「愛し合う」とはどういうことなのか、尊い言葉に思えて、自分には身近に感じられないから、考えないようにする。どこかそういった思いがある、私自身もそういう思いがどこかにあります。しかし、主イエスが言われた「愛し合う」ということ、愛の群れの中に、今御言葉を聞く私たちはその一人として、その場にいる、その場に立っているということをよくよく踏まえていきたいのです。というのも、「愛し合う」ということが、私たちの教会における愛の共同体としてあるということと、私たちの人生の歩みにおいて、新しい視点を与えてくださるからです。
愛する、愛し合うということが古くからの掟としてありました。ユダヤの世界では、「律法」を通じて、神様と自分、相手と自分の関係を示す大切な言葉として、浸透していました。ところが、旧約聖書の歴史を見ると、神様はどの時代においても、愛の御心を彼らユダヤ人に示し続けるのですが、彼らは神様の愛から離れて、偶像崇拝にふけり、自分たち人間の価値観に軸を置いて、神様を拝まず、その心は神様から離れていたのです。多くの預言者が遣わされましたが、彼らは神様から離れたままでした。そして、父なる神様は愛する御子をこの世に遣わされ、神様の愛を彼らに伝えているのです。主イエスは弟子たちに愛し合いなさいと、従来からの律法の掟を伝えるのですが、それだけにとどまらず、新たな愛の視点を彼らに与えるのです。それが「私が愛したように」ということです。「私が愛したように」ということが「新しい」掟というのは少し変かもしれません。というのも、長い歴史の中で、神様は人々を愛され続けてきたのですから。しかし、その愛に気付いてこなかった、生き方を変えようとしなかった。神様の愛が、どんな愛なのかということがわからないからです。
私たちもそうです。愛がわからない、だから愛し合うと言われると、戸惑うのではないでしょうか。人に優しくする、支える、与えるなどと言う言葉を思い浮かべるかも知れませんが、しかし、実は私たち自身が、まず愛されたいという気持ちが根底にあるということに気付かされます。生きていて、様々な痛み、悲しみ、嘆きを背負っているからです。そんな自分を受け入れてほしいと願うことは誰にだってあります。最近は「愛の欠如」という言葉をよく耳にしますが、私はいつの時代でも、人間は愛に欠如した生き物だと思っています。だから愛されるということを求めます。それは決して悪いということではなく、根本的な私という存在が、愛を求めて生きている存在だからです。私もあなたもそうです。聖書はそんな自分の姿を映し出してくれる鏡のようなものです。本当は愛に飢えている、愛されたいと思っている。決してはずかしいことではない。愛がなければ、私たちは育たない、命の灯を感じられない。命があり、生きているという実感は、愛され生かされているということと、相互不可欠なのです。
では、主イエスはどのようにして、私たちを愛されているのでしょうか。今日の福音書であるヨハネ福音書13章からは、主イエスの告別説教と言われる箇所です。弟子たちとの最後の語らいのとき、この章の冒頭、すなわち13章1節で、主イエスは弟子たちをこのうえなく愛し抜かれたとあります。愛のテーマがこの告別説教の中心なのです。まず、洗足の話が記されています。主イエスは弟子たちの足を洗った後、「あなたがたも足を洗い合いなさい」と言われました。それは愛し合いなさいという掟と同じ響きがあります。しかし、その直後、ユダの裏切りが発覚します。27節で、サタンが彼の中に入ったとあります。ユダはサタンの思い、すなわち人間の思いに立ち、主イエスのもとを離れていくのです。その時、夜であったと30節に記されています。ユダの裏切りが、人間の闇の部分がこの夜という暗さを表わしているかのようにです。主イエスはその闇と向き合いました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。そして今日の福音書、31節で、ユダが出て行くと同時に、主イエスはご自身の栄光を顕されたのです。神様の御姿を現したということです。何が原因か、それはユダによってでした。ユダの裏切りという臨場感の中で、すなわちご自身が捕えられ、十字架の死が確定したということが、主の御心を成し遂げたということにおいて、神様の御姿がそこに顕されているのです。私たちは、この主イエスの御姿から、みすぼらしく、無残な死を遂げてしまう無力なる「人」を思い浮かべるでしょう。どうして、栄光なのか、敗北ではないのかと。しかし、福音書は語ってまいりました。主イエスご自身のお言葉を。「私は復活であり、命であると」。この栄光の中に、その甦りの主が既におられる。失われる命を通り越して、それが死という終わりではなく、永遠の命が輝いているのです。主イエスの十字架という死、その失われる命の中に、ユダの裏切りという闇の勢力が一層際立つように思えるのですが、その闇の只中で、メシアなる主イエスは栄光に満ちているのです。この闇にまさる光を顕している。ユダの裏切り、またそのことに動揺する弟子たちの不安、恐れという闇がここにある。その闇をも照らす光、闇を甘んじて受け入れる神の愛、人間の闇にまさる神の愛が、栄光のメシアとしての主イエスに顕されているのです。わたしがあなたがたを愛した、その愛とは十字架の死という命の消失において、頂点を極めるのです。すなわち、私たちを愛されるが故に、命を捨てたということなのです。
さて、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさいという主イエスのお言葉を聞いた時、私たちはどのようにして互いに愛し合うのでしょうか。神の愛が、十字架の死というメシアの命の消失において、頂点を極めるのであれば、それでは私たちも、互いに愛するというとき、命を捨てるということなのでしょうか。このヨハネ福音書と最も結びつきのあるヨハネの手紙では、互いに愛し合うということについて、こう記しています。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネの手紙13:16-18)。
主イエスが命を捨てて、私たちに神の愛を教えてくださったように、私たちも兄弟を愛するために、命を捨てなくてはならないと、非常に厳しいことが記されています。兄弟のために命を捨てる、そのようなことができるのでしょうか、いや問いかけるまでもないでしょう。そんなことはできない、神様はなぜそのような厳しいことをおっしゃられるのかと、嘆きたくなります。
でも、ここで考えていただきたい。私たちの「命」とは何かということを。この命がどこから来たのかということを。自分で得たものなのだろうか、そうであれば、それを手放すということなどできないと思えます。しかし、この命が、神の愛の息吹によって吹き込まれた、賜物としての与えられた命であると信じるならば、この命の所有者は私ではないということ。私を創り、私に命を与えられた方のものであるということ。そう信じる時、命を捨てるということは、無駄にする、どぶに捨てるということではなくて、命を与えて下さった方に、自分の命を委ねるということ、人生の歩みを、その方に委ねるということです。兄弟のために命を捨てる、すなわち委ねるということにおいて、他者を真っ向から受け入れる。優しくする、支える、与える以上に、その人と生きるということ、そばにいて、共に歩むということに他ならないのです。そのための命、他者を生かす、他者する命として、その灯は燃え続けているのです。なぜそのようなことができるのか、それは私たちが神の愛を知り、永遠の命という希望を見据えて、歩むことが許されているからに他ならないからです。
永遠の命を見据えて、今ある命を委ねる。私たちは命を失うことを恐れます。手放すことを恐れます。安全な囲いの中で、命を守りつつ、歩んでいきたい、その思いがあります。命を粗末にするな、大切にしろ、その通りです。そのことを否定しているわけではありません。粗末にせず、大切にするからこそ、この命を豊かな命として、用いていきたい。失うことを恐れて、この命を守りたいが故に、自分自身の力量や知識に頼って、生きて行こうとする私たちの姿があります。しかし、私たちは、自分の命をコントロールすることはできないのです。いつ失われるかわからない、死という恐怖と向き合いつつ、生きていかなくてはいけないというこの世での生活があります。しかし、主イエスの死と復活によって知りえた神の愛、永遠の命の中に、自分の命、人生を委ねることができたとき、もはや死という闇に恐れることはないのです。死と墓を打ち破った復活のキリストと共に、愛の共同体の中で、羊が緑豊かな牧草地で、草を食むことができるように、その豊かな命の中で生きることができるのです。
互いに愛し合いなさい。その愛の群れの中に生きる者は、命を委ね、永遠の命という希望と喜びに満たされているものたちです。主イエスは、その愛の群れに生きるものたちをご自分の弟子とされました。そう、教会の姿がそこにあるのです。今の私たちの教会の姿、愛の群れに生きる私たちひとりひとりの姿がここにあるのです。その姿を、世にいる人たちが知るのです。豊かな命に生きる信仰者たちの姿の中に、いや姿だけではありません。その言葉、行い、業、全てが神の愛を伝える器として、目に映されているのです。神の愛がここにある、命を委ね、復活の主と共に生きる者たちの歩みがあるのです。
神様がいないかのような時代、愛の欠如だとか言われるこの時代に生きる私たち。私たちは伝道、奉仕の困難さをいやというほど経験してきました。これからもそうでしょう。しかし、それは絶望のまま終わらない、無駄に終わるということはないのです。神の愛を求めている人たちに、少しずつ、伝わっていると信じられる。私たちは神の愛を知り、互いに愛し合うことができるのです。この愛に生きられるからこそ、愛が伝わっていくという確信をもつことができるのです。神の愛を信じて、豊かな命の灯を、これからも灯してまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。