2013年5月5日 復活後第5主日 「神が与える平和」

ヨハネによる福音書14章8〜18節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

一昨日の金曜日、久々に私は実家に帰り、家族と夕食を共にしてきたのですが、その時、私の母親が、「ルーテルアワー」について話をしてきました。「ルーテルアワー」、ここにおられるほとんどの方が、このラジオ放送の内容や主旨に詳しいことでしょう。キリスト教に縁のない私の家ですが、私の母は子供の頃に、このルーテルアワーを毎朝聞いていたようです。毎朝、学校に登校する時間帯に、次のようなメッセージが、ルーテルアワーの放送で流れていたそうです。「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。」毎朝このメッセージが流れるわけですから、子供ながらに意味がわからなくても、私の母はとてもこの言葉が印象に残っていたそうです。

「暗いと不平を言う」。この暗さとは何でしょうか。目に見える問題として考えるならば、経済の問題、社会秩序の問題、具体的に言うならば、就職難、格差社会、原発、いじめ、戦争、自然災害、凶悪犯罪の問題など、挙げればきりがありませんが、そういった社会全体、この世の中全体における暗さだけでなく、私たち一人一人の人生の歩みにおける暗さをも指し示していることでしょう。不安や恐れ、悲しみ、痛みだけに留まらず、怒りや焦り、戸惑いなど、浮き足が立つ状態が続き、先行きの見えない状態が続く、なかなか希望を見いだすことができないということ、つまり平安を保つことができないということです。それはまた、目に見える暗さだけでなく、目には見えない問題、つまり心に平安が保てないということでもあるのです。

そして、それぞれの時代に生きる人々はこう嘆くものです。「今の時代は暗い、今の自分は暗い」と。口にこそ出さなくとも、心の内にはそういったものを私たちは常に秘めているのではないでしょうか。それが悪いこと、というのではなく、むしろそれが私のあなたの在り様、この世界全体の在り様そのものであるということです。偽りでも空想でもない、私たちを含むこの世界は生身の存在であるということに他ならないのです。

ルーテルアワーのメッセージはこう続きます。「すすんであかりをつけましょう」と。すすんであかりをつける、それは楽観主義になれということではありませんし、目の前の暗さから背を向けるということでもありません。目に見えようと見えまいと、目の前の暗さと向き合い、そこにあかりをつけて歩むということ。他人任せではなく、私があなたがともしびをつけていくということです。平安を見出すのです。そのための方法はいろいろあるでしょう。物の見方、視点を変える。自分をもっと知り、世界を知る。他者と協力する、一緒に歩むということ。人のアドバイスを聞く、またいろんな体験をするなどです。

しかし、それでもあなたはこう言うかも知れない。私の暗闇はもっと深く、他人には私の暗闇などわからないと。もう打つ手はない、解決方法は何もないと思っているかも知れない。そこに真の闇があります。すなわち、私の暗闇が何かということを、私自身がどこまで知り、問題意識としているかということです。具体的に言えば、私の、あなたの暗さとは本当は何のかわからないということ、その本質が問われているのです。その暗さ、闇の本質とでも言いましょうか、それを見出し、理解しない限り、真の平安はないのです。あかりをつけて歩むということはできないのです。自分自身、あなた自身では知ることができない本当の闇、その本質を見出し、平安に導いて下さる方こそ、私のあなたの真の救い主(メシア)なのです

今日の福音書も、先週に続いて、主イエスの告別説教の場面であります。夜でした。暗闇で覆われています。その心情を顕しているのでしょうか、14章1節で、主イエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言っています。弟子たちの心は動揺している、あたかも暗闇の中にあって、平安の内にないのです。しかし、主イエスは14章9節で、「わたしを見た者は、父を見たのだ」言い、弟子たちに自分の姿を通して、神の御姿を現されます。また弁護者という霊、すなわち聖霊の働きが示され、父と子と聖霊は1つであるという三位一体の神様を顕されました。三位一体について、ここで詳しく解説することはできませんが、この神様は弟子たちと共にいて、彼らの内にいるということを何度も主イエスの口から語られています。あなたがたをみなしごにはしない、見捨てない、あなたの傍らに私は既に、いつでもいると力強く、弟子たちを慰めているのです。

なぜ、主イエスがこれほどまでに、彼らを慰めているのか。それはもちろん、彼らの心が騒いでいたからと単純に理解できるのですが、主イエスはこの14章で、14章以外でもそうですが、「世」について語っています。すなわちこの世、目に見える世界、人間の価値観、秩序を中心とする世界です。主イエスは弟子たちに対して、自分の教えとこの世の教えは同じではないとはっきり言うのです。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われ、さらに15章18節で「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と、この世の彼らに対する迫害がいづれ起こるということをも預言しています。少し掘り下げて言えば、このヨハネ福音書が書かれた90年頃という時代、このヨハネの共同体は、ユダヤ教徒やローマ帝国といったこの世の支配層、権力者の迫害下にあり、その只中でこの福音書が記されたという背景があるのです。この背景の中で、尚ひたすら主イエスの教えから離れず、神様を信頼し続けることができたのは、彼らがこの世の教え、この世の価値観だけに縛られていたのではないということ、いやむしろ彼らは主イエスの教えを何よりも第一として、大切にしていた、そこに留まっていたということです。そのひとつが、彼らは互いに愛し合っていたということです。互いに愛し合うことができた、それは彼ら自身が、自分たちも神様から愛されていると、確信することができた所以でありあります。そこに教会というところがあった、そして今もあるということです。

主イエスは、御自身とこの世が異なる教えをもうひとつ今日の福音書で語っておられます。それがこの27節の御言葉、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」主イエスが与えられる平和とこの世の平和について語られています。それは「与え方」という方法だけが違うのかというと、そうではありません。口語訳聖書では「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」となっています。すなわち、主イエスが与える平和とこの世が与える平和は本質的に異なるということなのです。

この世が与える平和について、多くを語る必要はないでしょう。一昨日は憲法記念日でした。平和憲法という別称をもつ日本国憲法が今、その改訂に向けて議論されていることはご存じの通りです。この議論も「平和」ということについての概念が基にありますが、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちはこの問題と向き合わねばならないでしょう。この世がもたらす平和について、主イエスは否定しているのではないのです。

教会に対する迫害がなくなれば、それも平和の訪れと言えるでしょう。自分たちが安心して、教会に通える、礼拝ができる、祈れる場が与えられる、自由に伝道ができる、何よりもこの福音書を書いたヨハネの共同体は、そのことを願っていたはずです。闇がなく、光だけがある状況。平和とはその象徴だとも言えるのです。私たちはその平和を願う者です。

しかし、主イエスが与えられる平和は違うと言うのです。憲法がもたらす平和を目指す、または害悪といった闇のない光だけがある状態にするということではないのです。主イエスが与えられる平和とは、まさにこの闇の只中にある平和です。闇の只中で、光が輝き出でる、そういう平和です。闇がなくなるというわけではない、暗さがなくなり、不平を言わなくてすむようになるということではないのです。暗さは暗さとしてある。不平は絶えないのです。そう、むしろ主イエスは私たちに暗さを、闇をお示しになるのです。私たちが知らない、または触れたくない闇、暗さです。真に、私たちを縛り続けているものが露わになるということです。主イエスは神の御子として、私たちの人生の闇に、この世の闇の只中に入ってこられたのです。

ヨハネ福音書は冒頭の1章で証しします。「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(1:9)
神の御子、主イエスキリストは光として、来られた。私たちの知らない闇、触れられたくない闇が露わにされる。私たちが気付かされるのです。それはとても辛いことでもあります。闇を知りたくない、触れられたくない、関わりたくない。いや、実はその闇とは、自分が一番大切だと思っているもの、手放したくないもの、自分の価値観そのものではないのか、それがあなた自身を縛り続けているのかも知れないのです。

主イエスの説教を聞いている弟子のペトロは漁師です。主イエスと出会ったとき、漁に出ても魚が取れない日々が続いていました。自分の漁師としてのプロ意識に立ちづけていたのです。ところが、そのとき主イエスは、彼の船の中に、漁師としての「自分という船」の中に、あたかも彼の人生の中に乗り込んで来られたかのように、彼の中に来られたのです。そして彼に言いました。「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」、主イエスはなんとペトロにむちゃくちゃくなことを言ったことでしょうか。いや、このむちゃくちゃに思えるような言葉が、彼の価値観を、ひっくりかえした。言われるがままにしたら、大量の魚が取れたのです。しかし、彼はそれに喜んだのではない。ルカ福音書では、彼は驚き、主イエスにひれ伏しているのです。大量の魚を見て、その計り知れない神の御業を知り、自分自身を知った。自分の小ささ、限界を知った。今までそのことを知らず、己の思いだけに立ち続け、闇の只中を彷徨っていた。それが今、己を曲げたくないという闇を知り、受け止めた時でした。「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」実にこの神の御言葉が、彼の人生を動かした。いや、その御言葉は、主イエスを通して、彼の只中にあったということ、己の闇を見つめ、受け止め、神の光を光として知ることができた。プロ意識としての、人間の価値観が、この世の価値観が、神の御言葉によって、打ち砕かれた。すなわち自分が打ち砕かれたということです。真の闇を知り、キリストの御言葉という光が、彼に真の平安を与えたのです。

主イエスがもたらす私たちへの平和。それこそ、私たちの闇を示し、神の光を光として受け止めることができるように、闇の中で輝く光を与えて下さることということです。そして私たち一人一人が、人生の闇、この世の闇の中で、そのことを見つめつつ、キリストの光を受け取り、闇の只中で、光を照らして生きていくという希望が与えられているのです。

みなさん、私たちはこの主イエスが与えて下さった真の平安の中で、この世の平和を願い、祈り、実現に向けて歩んでいくのです。目の前の暗さ、闇に恐れることもあるでしょう、逃げ出したい時もあるでしょう。生きていて、その現実からは逃れることができない。しかし、闇は闇のままであろうと、そこで光輝くものがある。闇ばかり見えてしまうかもしれないけど、キリストが与えて下さる光の只中で、私たちは生かされているということを忘れないでください。「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」キリストは絶望という闇の只中でペトロを光へと導かれました。闇の向こうにある、平安が彼に与えられました。

もはや闇に縛られることはないのです。闇の只中で光るキリストという一筋の光を信じて、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。」。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。