2013年5月12日 昇天主日 「永遠の祝福」

ルカによる福音書24章44〜53節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

渡辺和子さんという方をご存知でしょうか。ノートルダム清心学園の理事長であり、テレビにもよく出られ、講演されている方です。私はNHK教育番組「こころの時代」という番組を見ていた時、この番組に出演されている渡辺さんを知りました。彼女の著作の中で「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。この言葉は、彼女自身の言葉ではなく、彼女が修道士として生活していた時に、ある宣教師が彼女に渡した詩の言葉でした。詩の言葉は「置かれた場所で咲きなさい」に続いて、「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と書いてあったそうです。この詩を頂いた背景には、当時、渡辺さんが、修道院生活の中で抱いていた不平や不満がたくさんあったということを著作の中で語られています。真に印象深い言葉です。「置かれた場所で咲く」それは、各々が与えられた状況の中で、行動する、歩む、今与えられている道を突き進むということでしょう

私たちは自分の生まれた環境を受け入れるしかありません。また自分の思い描く通りに人生を歩んでいる人は少ないでしょう。今置かれた状況の中で生きるしかないということ。それをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかはその人次第ですが、私たちはやはり何かしらの不平不満を抱いて生きています。それが当たり前だと言われるでしょう。わかっていることだけど、でも実はわかっていないことも多くあるものです。その一つは「私」という存在、「あなた」という存在です。私たちは自分の意志で、生まれたのではなく、また自分が望んだ通りの命の在り方が与えられているわけでもないのです。今この場に私を、あなたを植えらえた方を通して、今の私、あなたがある。その置かれた場所があるのです。私たちの置かれた場所。そこで花を咲かすようにと植えられた方の御意思がある。その方は言うまでもなく、主なる神様です。

当然ですが、花を咲かせるには、養分と水が必要です。人間を花に譬えるなら、水や養分と言った神様の恵み、祝福なくしては生きられない、率直な問題です。養分や水といったそれを受ける土台、それこそがキリストという土台でありますが、その土台の中で培われていても、真に花が咲けないことがある。それはつまり、人生における苦難や困難、それだけでなく、先ほど言いました不平不満がつきまとうわけです。それでも、「置かれた場所で花を咲かす」ということ。どのような状況、環境の中にあってでもです。満足に水や養分が与えられていないと思える時でも、それを受けるキリストという土台の上で怒りや悲しみで揺れ動こうとも、その根元に秘められている喜び、そう、大きな喜びがある。笑顔で幸せに生きれるという希望、その確信が持てるなら、花を咲かせることができるのだと思えるのです。

本日は、主イエスの昇天を覚える、昇天主日です。今日の第1日課、及び福音書に主イエスの昇天の出来事が記されています。これらの聖書箇所によりますと、主イエスは復活して40日間弟子たちと共におられ、彼らが見ている内に天に上げられて、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったとあります。そしてこのとき弟子たちは天を見上げて立っているのですが、白い服を着た2人の人が弟子たちに「あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有り様で、またおいでになる」と言われ、主イエスとのお別れであるのと同時に、また私たちのもとに来られるという約束を彼らに伝えたのでした。つまり、主イエスの再臨と言われる出来事の約束です。

主イエスの昇天、それは確かに、見た目には主イエスとのお別れであると言えるでしょう。弟子たちは主イエスが天に昇って、自分たちの目には見えなくなった有り様を確かに見たのです。この主イエスの昇天が私たちに何を意味しているのか、伝えたいことなのかということについて、毎年この昇天の箇所を読み、聞くごとに、考えさせられることであります。

ローマ教皇フランシスコ1世は主イエスの昇天について次のようなことを人々に宣べ伝えたそうです。記事の一部ですが、「なぜ天を見上げて立っているのか」という白い服を着た2人の人の言葉を受け止めて、教皇はこの聖書の諭しを、「天を見上げたままでいないで、天に昇るのを見たのと同じ有様で、イエスがまたおいでになるという確信を生活と証しの中で育むように」との励まし、「イエスの統治を観想し、そこから福音を告げ、証しするための力を得るように」との招きとして解説。「観想すること、行動すること」その両方がキリスト者の生活に必要と説かれた。と記事は紹介し、さらに「主の昇天は、イエスの不在をいうのではなく、イエスがわたしたちの間に新しい方法でおられることを意味する」と教皇は述べ、わたしたちを守り、導き、天に引き上げるキリストの愛を世界に伝えていこうと、信者らを励まされた。とありました。主の昇天を通して、主イエスの統治、その御業に心と思いを向け、祈り、そして積極的に行動していく、伝道、奉仕していくということ。そして、主の昇天は、主イエスの不在ではなく、今も私たちと共におられるということだと言われ、それは新しい方法でおられると言われました。この「新しい方法」ということに関しては、具体的に記されてはいなかったので、わからないのですが、今日の第2日課でありますエフェソ書には「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」とあります。昇天されたキリストは、神の右の座につき、この私たちが生きる世界を統治されている、支配下におかれているということです。続いてエフェソ書には「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」教会がこのキリストの頭であると言うこと、復活の御体を示しているということです。つまり、教会を通して、キリストと一つであるということ、教会生活を通して生きると言うことは、キリストと共に生きる、歩むということに他ならないことなのです。

福音書には、ベタニアに連れて行った弟子たちの前で、主イエスが昇天されたことが記されています。その時、主イエスは弟子たちを祝福された、いや祝福しながら天に昇られたとあります。祝福しながらです。終わりがないのです。常に祝福しているのです。その光景を見た彼ら弟子たちは、主イエスを拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神殿で神をほめたたえていました。

祝福を受け続けている彼らの弟子たちの姿、それは後の教会の姿と重なります。つまり、主イエスの祝福は、絶えることのない永遠なる祝福は、彼ら弟子だけに限らず、後の教会、そして今の教会の中で生きる私たちへと向けられているのです。この祝福の御手の中で生きるものとして、弟子たちは大喜びしていた。神様をほめたたえていました。主イエスとの別れを経験しつつも、その別れは主イエスの不在を意味するのではない。目に見えるという限りある存在としてではなく、全世界の主として、目には見えなくとも、自分たちとつながっていると確信できた。イスラエルだけでなく、全世界の救い主として、このキリストは自分たちとつながり、今も自分たちを祝福していてくださる。主イエスと目に見えて離れ離れになっても、そして残された自分たちがどんな境遇の只中に立たされようとも、苦しみを受け、悲しみを受けても、この復活のキリストの祝福は自分たちを離れないということが確信できたとき、喜ばずにはおられないだろうか。弟子たちの気持ちが、彼らの心深くから、魂の声が響いてくるのです。

もちろん、彼らは自分たちがこれから受ける境遇を予想していたに違いないのです。迫害が起こる。同族のユダヤ人から憎まれる。殉教する。社会の権力者に付け狙われる。現実は暗いとしか言いようがない状況が彼らを待ち受けていると言えるでしょう。しかし、彼らの喜びは喜びそのもの。希望を見据えている喜びです。もう安心できるという状況では全くないのに、彼らは救いの完成を、神様の約束がすべての人に与えられていることがはっきりと分かったのです。

今を生きる私たちに、この時の弟子たちの喜びが、教会の姿を通して伝わってきているでしょうか。主イエスの絶えざる祝福を受け取っていると確信していますか。この喜び、祝福の内にあっても、私たちは弟子たちが受けた境遇と同じところに立っています。時代は変わろうとも、不平不満が絶えない、苦しみ、悲しみがあり、矛盾だらけの現実世界で、神様の御言葉を聞き、恵みを受けています、いや受け続けているのです!今この時も!!

私たちには、ちゃんと養分も水も与えられている。教会というキリストの土台に連なって、今という時代に蒔かれ、その置かれた場所で花を咲かすことができるのです。さらに、神様の御業を証しし、御言葉を通して、周囲の人を幸せにすることができる、なぜならあなたは既に主イエスと繋がり、その命に生きる者として、幸せの只中にあるからです。その喜びの希望が与えられているからです。

ですから、大喜びでエルサレムの神殿で、神様を賛美している弟子たちの姿は、私たちの今この時の姿そのものです。現実を忘れ、理想の世界の中で喜んでいるのではなく、むしろ現実世界の只中で、私たち一人一人を救おうと、愛の祝福の御手を常に指しのばしてくださる方が今私たちの真ん中におられます。キリストの福音という香り豊かな花が満開となって、咲き誇っています。あなたの人生の只中で、あなたの置かれた場所で。この福音に生きる時、私たちは置かれた場所で、花を咲かすことができるのです。キリストの永遠の祝福が、今を生きる私たちへの養分となり、水という糧として、私たちを生かし続けてくださいます。どのような境遇にあろうとも

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。