2013年5月19日 聖霊降臨祭 「変わり続ける」

ヨハネによる福音書16章4b〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

皆さん、ペンテコステおめでとうございます。教会の誕生を思い起こし、聖霊の御力によって、今、私たちはこの2013年のペンテコステを迎えることができました。毎年このペンテコステにおいて、第2日課は使徒言行録2章から御言葉を聞きます。

2章1節~4節を見て見ますと、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という弟子たちの証言が記されています。弟子たちは、主イエスが語られた約束の聖霊を実際に見て、その音を聞くことができたのです。これは弟子たちにしかわからない感覚でしょう。私たちはこの弟子たちのように、実際に聖霊を見たり、聞いたりすることはないからです。

しかし、ペンテコステの出来事が私たちに伝えようとしていることは、聖霊の形や音がどうだったかということではなく、彼らが聖霊を受けて、その御力に満たされたということであり、そして彼らはどうなったかということです。彼らは霊が語らせるままに、他の国々の言葉で、話し出しました。(4節)そして、2章5節以下で、多くの外国の名前が記され、五旬祭に集まっていた人々は弟子たちの言葉を聞き、その出来事を「神の偉大な業を見た」と証言しています。戸惑い、驚く者もいれば、彼らはぶどう酒に酔っていると言って、あざわらう人々もいました。この時、本当に異様な空気に包まれていたのでしょう。神の業が働いているその時、私たち人間の理解、その感性を越えて、出来事として私たちに伝わってくるものがあるのです。

あざわらう人々に対して、最初に口火を切ったのはペトロでした。自分たちはぶどう酒に酔っているわけではないと弁明し、人々に語り出します。ペトロは預言者ヨエルの預言が成就したことを明らかにし、続いてダビデの歌を引用して、主イエスの十字架と復活を力強く証ししました。そして、このペトロの説教を聞いて、心を打たれ、洗礼を受けて、彼らの仲間になったのは、3千人だと言われています。1章15節を見て見ますと、120人ほどの人々が集まっていたそうです。120人の群れに一気に3千人が加わったのですから、驚きです。そして、42節で02:42「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあり、彼らのこの姿を通して、教会の始まりを私たちは見るのです。

ここで聖霊に満たされたペトロたちという弟子たちの人物像に注目したいと思います。ルターは1534年のペンテコステの説教で、ペトロたちの姿を通して次のようなことを述べています。「あの力と権威はいったい何によるのでしょうか。それはみことばと御霊にほかなりません。ペテロはなんと驚くべき力をもっていたことでしょうか。しかも、ペトロだけでなく、他の人たちも同様だったのです。彼らはいかに確信をもってメッセージを語ったことでしょう。あたかも10万年も学んできて完全に知った人のようです。私は神学博士で、彼らはそれまで聖書を学んだことのない漁師でしたが、私は彼らのように聖書をものにすることができなかったのです。このようにキリストの国は、貧しい漁師たちのことばと、十字架につけられたナザレのイエスと呼ばれる神の、侮辱され軽蔑されたわざとにより始められたのでした。」ルターは、あのペトロたちの姿を見て、神学博士として、聖書知識において右に出る者はいないはずである自分自身よりも、聖書知識がほとんどない彼ら漁師たちのほうが遥かに聖書を知っている、確信をもって語っていると、言うわけです。彼は決してペトロたちに対して謙遜に浸っているのではなく、むしろペトロたちそのものではなく、彼らに働きかけているみ霊、すなわち聖霊に、その力と権威を見出しています。どんなに聖書を読みこなし、知識を得ても、聖霊が働かなければ、意味がないし、何も伝わっては来ない。ただ聖霊により頼み、祈り求める以外にはないということなのです。

ペトロの説教を聞いた人々は、その内容に喜び、共感したのではなく、「心を打たれた」のです。心を打たれる、それは自分自身の奥底にある魂に触れたということ、絶対に曲げられない価値観の転換が起こったとも言えるでしょう。また、悲しくて、苦しくて、絶望の内にある者を、慰め、立ち上げる力があるということです。ここに聖霊の働きがあり、聖書を読み、聞くことへの姿勢が私たちに語りかけられているのです。そして、私たちの生き方が、人生の歩みが変えられる、いや今も御言葉と聖霊の働きを通して、私たちは変わり続けている。時代が変わり、物事の価値観、思想が変わる、目に見える形でこの世そのものが変わろうとも、御言葉の真理は変わらないのです。神様の福音は、その中心的なメッセージである愛は、絶えず、私たちに語られている。説教者、奉仕者の口を通して、どんなにつたなく、魅力がない言葉を使おうと、その口を聖霊が清め、聖霊が働くことにおいてのみ、私たちの心は打たれる、魂に触れ、響き渡るのです。

このような聖霊の働きについて、今日の福音書で主イエスは、この聖霊を「弁護者」と呼んでいます。今日の福音は主イエスのヨハネ福音書13章から始まる告別説教の場面ですが、この告別説教の中で、弁護者と言う言葉はたくさん出てきます。14章16-17節で「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」この聖霊は弟子たちと共におられ、内にいてくださるということです。そしてこの聖霊は弁護者であるということ、これは助け主、慰め主とも訳せますが、もとの言葉は「呼んでそばに来てくれた人」という意味なのです。ですから、聖霊とはずっとそばにいて助けてくださる神の御力ということであり、主イエスが昇天された後に、弟子たちに与えられるということなのです。しかし、この世にはこの聖霊が見え、知られ、受け入れられるというものではないと言うのです。

そして、今日の福音であります16章8節で「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。世の誤りを明らかにする、口語訳聖書では「世の人の目を開くであろう」となっています。罪と義と裁きについて、9-11節まで主イエスは語られますが、弁護者と言われる聖霊がこの世の人の目を開くために、神の御業を証しするというのです。それが今まさに、ペトロたちの口を通して語られている、主イエスキリストの救いの出来事なのです。罪について、義について、裁きについて、ペトロたちは証しできるでしょう。彼らは主イエスを信じ、その救いを体現しているからです。しかし、証しするのは、彼等ではない、彼らと共にいてくださる聖霊だと言うのです。

実に、ペトロたちはこの世に対して、無力であります。誰も彼らの話を真剣に聞こうとはしない、それどころか彼らはこの世から迫害されるということを、主イエスは見通して、ペトロたちに語っているのです。使徒言行録4章13節で、ペトロとヨハネが人々からこう見られています。「二人が無学な普通の人である」と。彼らは律法の教師ではないし、地位のある議員でもない。教養がある学者でもない、ごくごくふつうの人。面白半分に彼らの話を聞いても、人々は信じることはないでしょう。まして、彼らに聖書の知識はほとんどなかったでしょう。彼らは自分たちの体験を軸に、福音を語る以外にないのです。それも人生の教訓でもないからこそ、彼らには弁護人が必要なのです。彼らにはその弁護人なる聖霊が働かれている、彼らの口を清め、無学であるが、彼らに言葉を与えられるのです。与えられた言葉を、彼らは口に出しているだけなのです。そう、与えられた言葉、受け止めた言葉をただ人々に語る、説教とはそれに尽きるのみです。神学博士であるルターが10万年かかっても、無学な人たちであるペトロ、彼らが語るメッセージには及ばないのです。彼らは聖霊に満ちて、人々の魂に語りかけているわけですから。

世の中には、名言やはやり言葉がたくさんあります。私たちの日常生活において、どれだけの言葉が生きた言葉として、心に響いているでしょうか。聖書の言葉も、その一部分だけを、抜き出して、ただ名言として聞こうとするのであれば、それは世の中に価値観に重点を置いて、聞こうとする言葉に過ぎないのです。そこで混乱が起きる。理解できないものを無理やり理解しようとして、様々な解釈を持ちこんで、味付けしていく。ちょうどいい味になるまで。しかし、その味のある言葉、元の味はなんだったのか。改良に改良を重ねれば重ねるほど、本質を見失うということを、私たちは歴史の中で垣間見てきているのではないでしょうか。

また、学者や教養ある人、政治家などが発する言葉は確かに重く、影響のある言葉ばかりです。生きていくうえで、それらの言葉は知恵の言葉として、必要なわけです。しかし、時代の変革において、それらの言葉はいづれ廃れていく人間の言葉です。

当然ですが、私たちは人間の言葉を通して、人とコミュニケーションします。人と関わり、社会と関わります。でも、最近コミュニケーション傷害(略してコミュ症)という言葉を聞きます。自分の意志を伝えられない、理解されない、言葉が出てこない。言葉だけの問題じゃないかも知れません。対人関係などいろいろな事情はあります。しかし、誰しもがそういう問題を抱えているのではないでしょうか。悩み、苦しみ、誰からも理解されないという苦痛。言葉にならない言葉しか出ない。そう、気付いたら、沈黙が支配している。この世に生きている私たちが直面しなくてはいけない問題はいくらでもあるわけです。

言葉にならない言葉、でも誰かに聞いてほしい、受け止めてほしい、そういう思いがあります。そんな時、私は思うのです。祈りを通して聞いて下さる方、受け止めてくださる方がいる。そう、主なる神様という方が。胸の奥にある「伝わらない」という葛藤を抱えつつ、その思いを神様に向けて解放する、心を開く、それが祈りです。神様はあなたを受け入れ、あなたを愛の言葉で包んでくださいます。神様に思いを向けていくということ、すなわちペトロが使徒言行録2章38節で、心を打たれ、自分たちはどうすればよいのかと迷っている3千人に言った言葉はこうです。「悔い改めなさい。」と。神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だからということです。神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。主イエスはそう言われました。この世を愛されている、だからこの世に生きるあなたがた一人一人を愛さないでいようか。今は、この世に属し、この世の価値観で生きている。それも必要です。しかし、主イエスはこの世に勝る救い主です。この世の価値観という縛りを解かれた方です。あの「死の力」をも克服された救い主なのです。この救い主を信じ、仕えていく時、聖霊が与えられるのです。

無学なペトロたち。この世から相手にされない彼らが、聖霊に満たされて、世界中の言葉を話だし、3千人が心打たれた説教、その言葉を話した出来事。教会はここから始まりました。世の無学な者たちが、聖霊に満たされて、神様の愛を伝え続けていった。そして今の私たちも、彼らに続いています。悔い改めなさい、神様の懐に飛び込みなさい、大丈夫だから。神様はあなたを受け入れ、愛される。そう信じて、そのことを人々に伝えながら、私たちの伝道は今日も始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。