2013年5月26日 三位一体主日 「近き真理」

ヨハネによる福音書16章12〜16節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

三位一体主日を迎えました。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の働きについて、私たちは使徒信条や二ケア信条などの信仰告白を通して、三位一体の神様の働きを覚えます。ルーテル教会で洗礼を受けられた方は、ルターの小教理問答書を勉強されたかと思います。私も勉強しました。この本の使徒信条の解説の中で、ルターは三位一体の神様の働きを3つのテーマに分けて述べています。父なる神様の創造の働き、子なるキリストの救いの働き、聖霊なる神のきよめの働きという3つのテーマです。そして、解説の中でルター自身は三位一体の神様の働きを要約して、こう告白します。「私を創り、私を贖い、私をきめてくださる」神様を信じますと。私は信じますという告白の中に、「私をも」と言う思いから、より具体的に神様の働きが絶えず、自分自身に向けられているという信仰者としての、彼の生の歩みが実に示されていると言えるでしょう。

神様が私を創り、私を贖い、私をきよめてくださる。それは私という存在が、私の人生全てが神様の御手の中に、すなわち神様の愛のご支配の中にあるということに他なりません。それらの神様の働きを改めて想起させられる三位一体主日を迎えて、私は自分の信仰生活を振り返る機会が与えられました。

今年の10月31日で、私は洗礼を受けて9年目を迎えます。この六本木教会もこの建物に変わって今年で9年目を迎えますね。今私が牧師としてこの教会で仕えさせていただいているということに導きを感じます。9年間の歩みを成してきました。9年前に洗礼を受け、5年前に牧師になる事を決意し、今牧師になりました。いや、正確には牧師として、神様に遣わされてまいりました。

言うまでもありませんが、9年間の信仰生活の中で最大の転機を迎えたのが、牧師になることを決めた時です。牧師になると決めた時、何とも無謀な挑戦をするものだなという思いしかありませんでした。そう、ひとつの「挑戦」として私は受け止めていたのです。とても傲慢で、自分勝手な思いだなと改めて感じるのですが、しかし、無謀だという思いがあったことも事実でした。自分の力や知識では無理だけど、こう決断したのは、挑戦だと思っていても、導き以外の何ものでもない。何かの助けが必要だし、神様が必要だと思わなければ、最初の神学院の面接で落ちるだろうと思っていました。今でも覚えていますが、私は神学院の入学試験の面接で、「私には召命観というものがよくわかりませんが、ただ導きがあったということ以外に、言えることは何もありません」と言いました。召命観とは神様からの召し(呼びかけ)をどのように聞き、受け止め、牧師を目指す者として自分自身がどこに立たされているかということを確認することです。牧師になろうと思っている者が、召命観がわからないと言うのは、本末転倒だとしか言いようがないのですが、そのように答えたのは、私が自暴自棄になっていたのではなく、それしか答えがなかったからです。今までの信仰生活から出た率直な答えでした。ただ自分は導かれたとだけ、その思いだけに立った。そこに立ち続けていただけです。しかし、よくよく考えてみますと、その後の神学校生活、また牧師になった今の自分以上に、この時の私は、自分自身が「オープン」であったと思えるのです。召命観を答えられないという以上に、それがわからないということですから、面接を受ける前から、私は落ちていたようなものです。しかし、面接は受かり、結果は逆転した、奇跡そのものだと、何か感動を生むようなエピソードとして思いを振り返っているのではなく、あの時の私は本当に自分自身に「オープン」だった。自分自身を開いていた、開放されていた、自由な者であったと思えることです。その思いに立てたのは、やはり私の口から出た「導いてくださった」方の御力であるということだけです。無謀な挑戦だと思いつつも、私に虚勢を張らせるようなことをその方はさせなかったのです。はたから見れば、召命観もわからず、牧師としてふさわしい器を何等見いだせないような者です。しかし、真の自分、オープンな自分という存在が、この導きなる方によって前面に押し出されました。結果的に、このことが私の召命観となったわけです。すなわち主イエスが言われるように、「あなたが私を選んだのではない、私があなたを選んだ」ということなのです。そして私をオープンにし、導いてくださった方こそ、聖霊なる神様であり、きよめの働きであると私は今も信じています。

さて、今日の福音も、主イエスの告別説教の場面です。私たちはペンテコステを迎え、聖霊の働きについて、主イエスのお言葉と、使徒言行録の弟子たちの体験を通して、聞いてまいりました。

ペトロたちはこの世で無学な者でした。しかし、先週の説教の中で、ルターのペンテコステの説教を紹介しましたが、その中で、ルターは告白していますが、神学博士の自分なんか到底及ばないようなペトロの説教に心打たれているのです。語っているのはペトロの口を通して語られる聖霊なる神様なのです。

この聖霊は私たちの弁護者、助け主、慰め主です。世の誤りを明らかにする、私たちへの約束の聖霊です。弟子たちは主イエスが自分たちのもとを離れ去っていくという悲しみの極みの中にありましたが、主イエスはそれが弟子たちのためになると言われました。16章7節で「実を言うと」という主イエスの言葉は、「真理を言うと」という意味です。主イエスは「真理」を語っておられる。あなたがたのためになることであると。しかし、今日の福音書の箇所、16章12節で主イエスは言われるのです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」彼らに言いたいことはまだたくさんある、全てを語りつくしたのではないと言われます。しかし、それらのことを言ったところで、今はまだ、あなたたちには理解できないとも言われました。主イエスの遺言とも言える、この時の言葉を、弟子たちは真剣に聞いていたことでしょう。しかし、今の彼らには理解できない。この理解できないというのは単なる知識としての理解ではありません。口語訳聖書では「あなたがたには堪えられない」と訳されています。主イエスが彼らに語ろうとしていることは、今の彼らには堪えられない、受け止められないことなのです。悲しみの極みの中にあった弟子たちの心情をよく示している一言です。その堪えられない、受け止められないことが、「出来事」として起こってくるのです。すなわち主イエスのご受難と十字架の出来事であります。無残とも理不尽とも言える十字架の死、この世の敗北者として、惨めな主イエスのお姿の中に、彼ら弟子たちはそれが自分たちへの贖いの業、救いの業であるということを見出すことはできないのです。彼らはあの十字架から逃げ去ってしまうからです。

主イエス御自身は今、語らないのです。語られることは、語られるだけに留まらず、出来事として、彼らに、いや彼らだけでなく、イスラエルの人々に、さらに私たちに示さなくてはならないあの十字架の出来事だからです。子なるキリストの贖いの業を成就させるために、主イエスは今お語りになることが出来ない堪えざる真実を弟子たちに、私たちに示しておられます。しかし、それは耐えざる真実に留まらないのです。そう、堪えることではなく、それが救いの出来事として、喜びへと変えられる。それでも、この世の価値観が逆転するのではなく、堪えざることは耐えざるままです。現実は変わらない、自分たちでは変えられないのです。

しかし、彼ら弟子たち、そして私たちを変えて下さる方を主イエスは証しされる。それが「真理の霊」です。私たちを導いて、真理を悟らせる方。その方は「自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方は主イエスに栄光を与える、すなわちそれは、主イエス御自身に神様が顕されるということ、もっと、具体的に言えば、あのみすぼらしく、無残な十字架上の主イエスのお姿の中に、神様が、その愛が示されていると言うのです。弟子たちは、この神様の愛を、真理の霊によって受け止める。パウロがローマの信徒への手紙5章5節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言っていることなのです。

今、弟子たちのもとを離れ、十字架、復活、昇天へと突き進まれる主イエスは、14章6節で御自身を真理であると示されました。そして同じヨハネ福音書の8章32節では「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理、すなわちキリストが私たちを自由にしてくださるのです。

キリストは神の愛を、ご生涯の中で言葉と行動で私たちに示されました。それは私たちの価値観を覆す、ある意味では非常識な神の愛です。放蕩息子の譬え話にでてくる父親や、ぶどう園の主人の譬え話にでてくる主人の姿がまさにそうです。愛するに値しない者を、無条で愛するお方です。愛するに値しない者を造ってしまうのは私たち人間です。真理から目を遠ざけ、目に見える事実、その価値観に縛られ、他者の目からおが屑を取ろうと、他者を裁こうとしてしまう人間の罪があります。そして、人間の尊厳が奪われています。私たちも奪われ、奪ってしまうものです。日常生活の中で、社会の中で。私たちのかたくなな心が、そうさせてしまうからです。

神の愛は奪われた人間の尊厳を回復される大いなる愛です。自分が自分らしく、オープンに生きられる、いや生かされる人生。キリストは私たちに、神様の御心を顕された方、神様の愛をオープンに示してくださった方なのです。十字架の赦し、復活という永遠の命の約束は、この世の価値観では、虚無に等しいけれど、理解されないけれど、神はあなたを愛す、そのメッセージを、御身を持って示されたキリスト。その喜びを真に私たちに悟らせてくださるのが真理の霊、聖霊なるお方なのです。私たちのかくなな心をきよめてくださるお方。そのお方は弁護者であり、あなたの内におられるのです。

私を創り、私を贖い、私を清められる神様。このお方は唯一のお方です。それぞれの働きを通して、私たちは自由に生かされる、永遠の命に生きることができるのです。虚勢を張らず、自分をオープンにする生き方です。堂々と、希望をもって生きるのです。

改めて、私たちも自分の信仰生活を振り返り、伝道について考える機会が与えられたのではないでしょうか。「大胆に罪を犯し、大胆に福音を宣べ伝えよ。」ルターの有名な言葉です。そう、大胆にです。大雑把で雑なイメージを抱くかも知れない。でもオープンな姿です。神様の御名をまだ知らない私たちの隣人に、大胆に、自分をオープンにして、伝道していく。それでも私たちの伝道は失敗だらけかもしれない、すぐに成果が出ないことだらけかも知れません。しかし、聖霊にきよめられ、真理を悟った者たちはもはや恐れることはないのです。本当の自分を知ることができるからです。本当の自分を知り、大胆に、自分をオープンにして、豊かに神の愛である福音を伝える者として私たちは生かされるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。