2013年6月2日 聖霊降臨後第2主日 「敵を愛す」

ルカによる福音書6章27〜36節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「敵を愛しなさい、憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」主イエスはこう言われました。包括して、「敵を愛しなさい」という教えです。キリスト教の「崇高な教え」として、まるで天然記念物を扱うかの如く、この教えが大事にされているというイメージを、まずは取り払い、御言葉に集中していただきたい。世間のイメージと重ね合わせますと、ますますこの教えの意味がわからなくなり、混乱するからです。そのイメージがこの教えをより「難解」なものに作り上げられてしまっている気が致します。これは御言葉を聞く私たちの問題なのです。そして、愛するということは好き嫌いではないということです。

さて、御言葉に聞いてまいりますが、ルーテル教会が発行している「聖書日課」の今日の箇所には、このような解説が記されています。「27節に敵を愛すと書かれています。直訳はあなたがたは愛しなさい、あなたがたの敵たちをです。敵というギリシャ語は憎しみという言葉から派生していて、憎まれているとか敵視されているという意味での敵です。あなたがたが敵視しているではありません。あなたがたが敵視されているのです。そのあなたがたの敵たちをあなたがたは愛せとイエスさまは言われます。」と解説しています。直訳の解説を含めて、「あなたがたが敵視されている」という解説は的を得ていることだと私も思います。その根拠は、この福音書が書かれた時の時代背景、特に教会をとりまく周囲の状況から察することができるからです。当時は、まだキリスト教が公認されていない、激しい迫害の只中にあった時代です。周りはキリスト教会を敵視、憎んでいる勢力だらけであった。ローマ帝国やユダヤ教は特にそうでした。自分たちを憎み、迫害する者たちが後を絶たない状態です。それはまた、外部だけに存在した問題ではありません。教会内部でもたくさんの問題があり、意見の違いなどから会員同士で敵視、憎み合うことはよくあったことでしょう。コリントの手紙などを読みますと、よくわかりますが、実にパウロは、生涯の宣教活動の中で、この外と内からの勢力、圧力に常に苦悩されていたことかと思います。

主イエスのこの教えを聞いた当時の教会の人々は、どのような想いにあったのでしょうか。今日の福音書の箇所は、主イエスの「平地の説教」と言われる場面です。マタイ福音書の山上の説教とは異なり、ルカ福音書では、主イエスは山から降りてきて、弟子たちと群衆に教えておられます。そしてすぐ前の6章20節の「幸いと不幸」の教えからは、特に弟子たちに目を向けて主イエスは話しておられます。群衆もたくさんいたでしょうが、まず何よりも初めに、弟子たちに語るのです。「敵を愛せ」と。当時の教会の人々は、自分たちの姿をこの弟子たちに重ね、この教えを聞いていたことでしょう。自分たちを敵視し、迫害するローマ帝国やユダヤ教の人々を愛せと。そう彼らは受け取ったはずです。そして、私たちと同じように、この教えを聞いて、彼らも戸惑ったかも知れないですし、困惑したかもしれません。でも、この教えを無視して、敵を憎み、武器を取って立ち上がろうとはしなかったのです。もちろん、ささいや小競り合いはあったかも知れない、しかし、彼らの信仰告白は、この主イエスの教えを土台としていたに違いないでしょう。その結果彼らは何をしたか、いやされたのか、それは殉教していったということです。殉教、それは単に「死」を意味することではなく、その人を通して、キリストを証ししたということです。殉教した人の姿を通して、キリストが真にそこにおられると人々は受け止めたことでしょう。あの敵を愛せと言われたキリストがそこにおられる。十字架を通して、とことん敵を愛し抜かれたキリスト、このキリストの十字架こそが私たちの救いとなった。赦しとなった。神に敵対していた私たちへの赦し、それが愛の実践となって、生きる活力となった。そう断言できるのは、キリストが復活したからです。敵を愛し抜き、敵から殺されてそれで終わったのではないということです。敵を愛すその「愛」は敗北し、死んでしまったのではない。最後に残ったのは、憎しみではなく、愛だからです。復活がまさにそのことを語っています。愛が憎しみに勝ったのです。人々は信じたことでしょう。そこに希望を抱いたことでしょう。敵を愛せと言われた主イエスの言葉の中に、人々は真理を悟ったはずです。

しかし、現代の私たちはキリスト教の歴史を知っています。それもキリスト教が公認されてから現代に至るまで、キリスト教が、教会がやってきた様々な問題と向き合わなければなりません。十字軍は掠奪と侵略の歴史を作りました。キリスト教国は互いに愛し合うどころか、戦争を繰り返してきました。今もそうです。敵を憎む歴史、その歩みそのものです。主イエスの教えと全く反対の歩みを成してきているではないかと、批判される。真にその通りです。罪の歴史があります。でも大切なことはその罪を知る事です。敵を愛せないという罪です。そう、私たちは真に敵を愛せない、人間の力では、その思いの中ではそうです。愛であられる方のとりなしなくして、愛の世界には生きれない、いやその愛の世界を見出すことができないのです。ここはエデンではない。エデンの園から追放された人たちが生きる世界です。憎しみに満ちている世界です。クリスチャンであろうと、なかろうと全て肉なる存在は、この世界に生きています。憎しみがあり、憎しみが増す世界。その勢力は偉大で、人間の心もそこに縛り付けられているのです。だから、自分を愛してくれる人を愛することで、精一杯なのです。さらに、精一杯どころか、自分がその人に愛されていると確認しなくては不安で不安でしょうがないという思いに苛まれることだってあります。さらにまた、時に自分を愛してくれる人でさえ、愛せなくなることがあります。その逆もあります。愛の領分というものを、自分のはかりではかってしまうからです。そこにはやはり、「憎しみ」という力が働くからでありましょう。憎む者をも自分のはかりで作ってしまうという現実があるのです。

改めて、考えさせられます。私たちは「敵を愛する」ことなど到底できないと判断してしまいます。だからと言って、「敵を憎む」ということを願っているのでしょうか。憎まずにはおられないということはわかります。その思いは私にもあるからです。しかし、「憎む」ということを心の底から願っているわけではない。「致し方なく」と言う思いがどこかにあるはずなのです。憎しみに歯止めが利かなくなり、敵を増やしてしまうという状況にあっても、それを決して望んでいるわけではない。むしろ、本当は敵を憎まざるえない、敵を愛せないという自分自身こそが、まず愛されたいという思いがあるのではないでしょうか。愛を受けたい、愛を知りたい。愛の只中に生きていきたい。敵を愛すなんて不可能だと一蹴してしまう自分の思いの中に、むしろ自分こそ愛されたいと思っている。自分も敵から憎まれている。そういった緊張関係を感じる中でこそ、神経を尖らせている時にこそ、真の愛をお互いが、憎み合う者同士が願っているのです。

私たちが生きる世界、憎しみが蔓延している闇の世界に、神の御子イエスキリストは光としてこの世界に降ってきてくださいました。その父なる神様の御心、ご意志を聞いてください。ヨハネによる福音書3章16節―17節です。「03:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 03:17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」この世界を愛されるがために、私たち一人一人を愛されるがために、愛する自分の子どもを送って下さった。大切な宝物を贈って下さった。罪故に神様から離れ、神様に敵対していた人間を愛するためにです。敵を愛する、それこそがこの世を救うことであると、父なる神様は愛のご意志を、主イエスを通して示されました。主イエスのご生涯、それは愛のご生涯とも言えるでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙2章6-8節でこう言います。「02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」自分を無にして、へりくだって、死に至るまで、その道を歩まれた。誰のためにか、無論私たちのためにです。この信仰告白とも取れる御言葉の中に、主イエスの、神様の全き愛が示されているのです。そして、大切なことは、主イエスは「人となった」ということです。私たちと同じように。それどころか、何の力ももたない「無力な人」として。でも、主イエスはただ私たちに愛を携えに来られたということだけでなく、御自身が父なる神様から愛されているということを生涯語られるのです。主イエスはその愛に信頼していたと言えるでしょう。

またパウロは、コロサイの信徒への手紙3章14節でこう言います。「愛は全てを完成させるきずな」であると。この全てということの中に、敵への愛が込められています。主イエスのご生涯、それが愛のご生涯であるということは、御自身の十字架と復活によって明らかになるのです。愛だけが残り、愛が全てに勝る。好き嫌いはあっても、愛だけが真実を諭してくださいます。

主イエスは36節でこう言われます。「06:36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」父なる神様の憐れみ、その深さはこの方、キリストを通して私たちに示されています。愛に困窮し、憎しみに縛られる私たちを救われるために、キリストは同じ人となって、私たちに絶ええない愛を、御言葉と行いを通して、どこまでも憐れみを持って教えてくださるのです。その憐れみを知った者、弟子たちにまずキリストが語られているということに注目してください。あなたがたも憐れみ深い者となりなさいと言われます。主イエスは弟子たちに憎しみに縛られている人に、愛を示しなさいと言われるかの如く、弟子たちに語られます。弟子たちは愛を知っているからです。

敵を愛しなさい。どこまでいっても、私たち人間には到底守れそうにない教えです。自分の思いの中ではきっとそうかも知れません。しかし、主イエスは私たちを、敵を愛するという新しい愛の歩み、生き方を教えてくださいました。そう、新しい教え、新しい歩みです。それができるのは、すべてを完成させる愛のきずなに他ならない。自分自身がこの愛のご支配の中で生かされていると信じたい。敵を愛する、それができるのは、愛に信頼することです。憎しみに勝る愛を信じる時、私たちは敵を愛することができるのです。

主イエスの十字架と復活を通して、御自身が私たちのためにどこまでもへりくだってくださる御姿を通して、憎しみに勝る者を私たちは知っています。未だに、憎しみはあります。至る所であります。しかし、愛の灯はそれに勝る。主イエスの愛を知る私たちが、その愛の灯を灯し続けるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。