2013年6月9日 聖霊降臨後第3主日 「自分を知る」

ルカによる福音書6章37〜49節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私が高校生の時、マザーテレサの特集がテレビで放送されていたのを見たことがあります。その特集の中で紹介されていたのですが、ある時、彼女はある人に こう語ったそうです。「人は私のことを聖人だとか敬虔深い人だと言いますが、私はただの罪人です」。「私はただの罪人です。」当時この言葉を聞いた私は、 彼女のような立派な人でも、このように謙虚な態度でおられるということに感銘を覚えたものでした。当時私自身はまだキリスト教に少し関心を持ち始めていた だけなので、「罪人」という意味をよく理解はしていなかった故にそう思ったことでした。しかし、彼女は謙虚な態度であの言葉を述べたのではなく、(もちろん謙虚さもあるでしょうが)他人から聖人と言われようと、自分は神様との関係において、自分自身は神様から離れている罪人に過ぎないという告白をしていた、強いて言えば悔い改めていたのだと、後になって私は理解致しました。

「私は罪人です」。クリスチャンであれば、誰もが自分をそのように受け止めています。そしてそれは自分だけに向けて言っているのではなく、「神様の御前」 において受け止めているということです。それも「いつ、どこででも」です。何か悪事を働いて反省をする時ということに限らず、良いことをしている時もそう です。しかし、私は自分自身にこう問い続けます。「私は罪人である」という自覚に、私自身、どこまで真剣に立たされているのか、そんな自分を知りえている のかということです。本当に自分は己の罪を見つめているのだろうか。いやむしろ、こうも考えられる。罪あるが故に、己の罪を認められない、しっかりと向き 合うことができない。自分の罪ではなく、相手の罪ばかり気にしてしまい、その相手の罪と自分の罪をはかりにかけている、そんな自分自身の姿が垣間見えてく るのです。罪というフィールドがあるこの世界の中で生きているのに、なぜか自分は浮き足立っていて、人の罪ばかりを見るという物見遊山にふけっている。罪 という足場にしっかりと足をつけていないのは、真に自分自身である。そのように思わされることがたくさんあるのです。

「私は罪人です」そう語られたマザーテレサ。聖人であり、良い行いをたくさんした彼女の姿の中にではなく、罪人であるというその言葉の中に自分の身を神様 の御前に置いている姿の中にこそ、私は彼女の中にキリストを見出します。キリストは罪を犯したわけではありませんが、あのキリストがヨルダン川で何をされ たか、思い起こしてください。御自身も洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、人々と同じように、ヨルダン川に入っていったのです。罪人たちの中にそのご生 涯を、その御身を捧げました。ですから、罪人である、その自覚に立つとき、あなたは一人でそこに立つのではない、キリストが共にそこに立って下さる。いや むしろ、そこに立てない私たちのために、キリストは十字架に立たれ、罪を贖ってくださったではないか。尚、罪というフィールドの上に立たされている私たち を根底から土台となり、支えてくれるのはこの十字架の救いに他ならないのです。その十字架に信頼するとき、私たちは告白できるのです。罪人であると。罪人 である自分を知ることできる。相手ではなく、自分自身を見つめるということです。そして何よりも、罪を知るということは、悲観的になるのではなく、神様の 恵みを恵みとして受けとめることができるようになる。心が開かれ、福音を聞くことができるということに他ならないのです。そして神様が見えてくるのです。 キリストは御言葉を通して、私たちにそう諭しているのです。

本日も主イエスの平野の説教を聞いてまいります。「人を裁くな、罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい」と主イエスは言われます。どうしてそう言われ るか、その理由として、「自分も裁かれることがない、罪人だと決められることがない、赦される、与えられる」からだと言います。教訓的に、また道徳的に受 け取れる言葉ですが、38節の最後にこう言われます。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。自分の量る秤、それはすなわち自分の価値観 を基準とする捉え方と言えるでしょう。人を裁く時、何が基準になるかと言いますと、もちろんそれは公に定められている法律が軸となりますが、最後の判断は 自分の価値観が軸となります。善悪の判断をするのは自分自身であるから、当然裁く対象になる相手よりも説得力を持ち、その判断基準に誤りがないようにしな ければならない、自分の量りで他者を見極めるのです。そして、その自分も、相手の秤で量られているということは容易に想像できるわけです。お互い様と言え ばお互い様ですが、主イエスは39節からこういう譬えも話されています。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。2人とも穴に落ち込みはしない か」、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さ あ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるよ うになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」盲人が盲人の道案内はできないし、自分の目におが屑があるのに、相手のおが屑など取れるわけ がない。主イエスは難しいことを語ってはいるわけではなく、私たちも容易に理解できます。どちらの譬えも、目で見るということが共通していますが、盲目で あり、おが屑がある目で、強いて言えば、その目を通して見る自分の価値観を軸にして、相手を裁いてしまっているということを主イエスは私たちに促すので す。

確かに自分の目は完ぺきではない。時に盲目であり、おが屑があるかも知れない。それは理解できる。しかし、相手のしていることは、明らかに過ちではない か、誰がどう見ても間違っている。あの人は裁かれるべきではないかと私たちは思うことがあるでしょう。裁く、裁かれるのはお互い様かも知れない、でも程度 の差はある。こちらが1%悪くとも、99%は相手に非があるではないか、それが分かっていながら、それでもなぜ、主イエスは私たちに裁くなと言うのでしょ うか。

ヨハネ福音書8章1-11節に、姦通の罪を犯した女性を赦すお話があります。このお話の内容を知っておられる方が多いかと思います。姦通の罪を犯した女性 が広場に引きずり出され、群衆から石を投げられそうになります。モーセの律法では、姦通の罪を犯した男女は、死刑に処せられるということを群衆は理解して いました。石を投げようとしているその時、主イエスは群衆に言いました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。 この主イエスのお言葉を聞いた群衆は誰も石を投げず、年長者からその場を立ち去っていきました。残されたのはその女性と主イエスだけです。その後の 10-11節に2人の会話があります。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イ エスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」誰もこの女性に石を投げなかった、いや投げれな かったということです。罪を犯したことのない者などいないということが分かるのですが、主イエスが言われたことは、どのくらいの罪を犯したかという「程度 の度合い」ではないということです。群衆の目から見たら、明らかにこの女性に非があったことでしょう。石を投げられて当然だという思いがあったかも知れな い。でも主イエスの視点はそうじゃない。誰しもが盲目であり、おが屑という罪をもったものたちであるということ。人間の視点ではなく、神様の視点に立って いるということです。ようするに、彼らは神様から与えられた律法(モーセの律法)を持ち出して、その女性を咎めようとしましたが、主イエスはその律法を全 て遵守できるものだけが、石を投げなさいと言われたということなのです。

群衆から見て、主イエスの言われることは最もだと頷ける反面、やはりどこか納得ができないという思いがあるのではないでしょうか。誰にも裁く権利、罪に定 める権利はないということ、そうだとするなら、私たちはただキズのなめ合いをするだけなのでしょうか。お互い様だからと妥協し、我慢することを主イエスは 私たちに教えているのでしょうか。視点を群衆ではなく、この女性に向けて見たいと思います。女性の立場からしたら、自分は当然罪に定められ、石を投げられ るはずだった。結局群衆は誰も投げれなかった。しかし、その場で石を投げることができた方を忘れてはなりません。そう、主イエスです。主イエスも彼女に石 を投げなかった、罪に定めなかったのです。その女性の罪を見逃したかったのか、感情に訴えたからか、決してそうではありません。その理由は、主イエスもこ の女性の罪を担った、同じ立場に立ったということです。一言でいえばこの女性を「憐れんだ」のです。この女性の罪が無条件に帳消しになったということでな く、自らが背負われた、痛みを伴われたからです。裁くためではなく、赦すために、救われるために、憐れまれたということなのです。

聖書の中にこの「憐れむ」と言う言葉はたくさん出てきますが、その言葉のひとつの、元の意味は「はらわた」という意味です。はらわたが痛むという言葉があ るように、憐れむということは単なる同情ではなく、はらわたが痛むように、その人の痛みを思う、その痛みに立つ、さらにその痛みを「背負う」ということで あります。善きサマリア人のお話で出てくるあのサマリア人が、倒れた人を見て「憐れんだ」というのは、この言葉が使われています。先ほどのお話の中で、姦 通の罪を犯した女性は、ただ主イエスに「憐れまれた」ということです。自分は裁くどころか、裁かれて当然だと群衆から思われていた中で、赦された。弁明が 通じたのではなく、もうどうしようもないという状況の中で、それと同じ立ち位置に立って下さり、自分の罪を背負われた主イエスが、自分の前におられたとい うことだけなのです。

ヤコブの手紙2章13節にこう記されています。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」。憐れみの ない裁き、ぞっとする言葉です。いろんな解釈があるでしょうが、憐れみは裁きに打ち勝つ、そうはっきりと記しています。そのことを、御身を持って私たちに 示してくださったのが、主イエスであり、十字架のキリストなのです。裁くためではなく、生かすために、ただ憐れまれたということ。私たちがこの憐れみを、 神様の憐れみをどこで知りえるのか、それこそ自分が「罪人である」という思いから、罪を知るということから、恵みとして、受け止める、知ることができるの です。

聖書は自分を知る書物と言われます。私たちはどこまで行っても、相手のおが屑が気になり、それを取り払おうと裁いてしまう者です。自分にはそんな資格がな いと自負しつつも、「程度の差」を気にして、相手と比較して、心の中で相手を裁いてしまいます。その程度の差に縛られている私たちこそが盲目であり、目に おが屑のある者であると主イエスは言われます。しかし、主イエスは私たちを裁かれるために、私たちの前におられるということではありません。私たちの目を 見開いて下さり、私たちの苦しみを、痛みを負われる救い主として、私たちの只中にいてくださるのです。

ですから、私たちはこの罪のフィールドに足をつけて歩むことを恐れる必要はないのです。足をつけ、罪を知り、神様の計り知れない憐れみと言う恵みがあなた の人生を包み込みます。他者を自分の量りにかけるのではなく、私が、あなたがキリストの量り、神様の秤にかけられて、ただその憐れみの中で生かされている ということに信頼していきたい。そこに希望を見出して、私たちも裁くのではなく、憐れむものとして、相互の交わりを大切にしていきたいと願う者です。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。