ルカによる福音書7章11〜17節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
星野冨弘さんの詩集の中に、こういう詩があります。
いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが、苦しかった。
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
いのちより大切なものがある。星野さんはこう言われます。いのちより大切なもの、本当にそういうものがあるのでしょうか。いのちあっての私があり、あなたがある。いのちがあるから、この世界のあらゆる生命体の鼓動を感じとることができますし、赤ちゃんを見て、いのちの輝きに思いを深く寄せることができます。「いのち」が土台となってその存在を認識するのです。それ以上に大切なものがあるなどと考えられるのでしょうか。
この詩の中で、星野さんは「生きる」ということについて語っています。生きるのが苦しいか、嬉しいかと思えるのは、この「いのち」について、自分がどう思っているか。与えられたいのちを生きなくてはいけないという義務感に駆られた生涯を過ごすのか、それとも、与えられたいのちに喜びを抱いて生きていくという解放感に満たされた生涯を過ごすのか。いのちに対する考え方は個々人で異なるでしょう。前者はいのちを消極的に、後者はいのちを積極的に捉えています。しかし、結果的に私たちが命についてどのような想いを抱こうと、いづれは肉体的な死を迎えて、いのちの終焉があるという答えにいきつくかと思います。いづれ迎える「死ぬ」という出来事。その出来事に向かって私たちはただ生きているだけなのか、生きるためのいのちが与えられているだけだと考えてしまうのでしょうか。星野さんが言われるように、そこには苦しみしか見いだせないと思います。喜び、楽しみだけでなく、痛み、苦しみ、悲しみを背負って生きている私たち。この世のいのちを生きるとはそういうことの連続です。
私たちはどんなに自分のいのちに目を向けても、それをコントロールすることはできません。医学の発達によって、「延命治療」という一時的にいのちを長らえさせるという技術が存在する現代世界の中で私たちは生きていますが、それはやはり一時的なことなのです。自分のいのちに目を向け続ける限り、このいのちに苦しむ自分自身の姿がそこにあるのではないでしょうか。この「いのち」より大切なものがあるという。改めて考えさせられます、いのちについて。そしてひとつの答えに私はいきつきました。それは、このいのちをもたらされる方、私たちの創造主である神様です。どうして私たちはいのちを与えられたのか、それは神様が「良し」とされたからです。良しとされた神様の御心の中にこそ、いのちが見出されるのです。それは耐えず、神様が私たちを愛されているということ、憐れまれ、顧みてくださるということに、生きていく力が湧き立たされるということです。生きているのが嬉しいと受け止められる時、私のいのちをこのお方に委ねることができる。いのちを、自分の力ではどうすることもできないけど、このいのちに生きる力を与えてくださる方が、今も私たちと共にいてくださるのです。
今日の福音は、ナインの町で、やもめの一人息子を生き返らせる奇跡物語です。主イエスと弟子たち、その他大勢の群衆がその町の門に近づいた時、やもめの一人息子が納められた棺が担ぎ出されるところでした。お墓は町の門を出た郊外、人里離れた場所にあったと言われています。今まさに、その墓地に向かって、棺が担いで行かれ、やもめが泣きながら、町の人たちに付き添われながら、行進しようとしていたのです。この時、ナインの町の人々が主イエスのことを知っていたのかどうかはわかりません。ナインという町は、ナザレから南東に10キロほど離れたところにある、ガリラヤ地方の南端にある町であったと言われています。主イエスの噂がそこまで広がっていたのかも知れませんが、人々の方から主イエスに声をかけることはなかったでしょう。息子は既に「死んでいた」からです。死者を生き返らせることなど誰にでもできようがないと人々は思っていたからだと思います。町の人々はやもめの女性に付き添い、彼らもまた、やもめと同じように、悲しみの只中にあったことでしょう。やもめというのは、夫に先立たれた未亡人です。旧約聖書のルツ記をお読みいただければ分かるかと思いますが、当時の社会の中で、夫に先立たれた女性が生きていくことは大変なことでした。再婚して新しい夫に養ってもらうか、息子に養ってもらうかしないと生きてはいけませんでした。ですから、自らが愛し、頼りにしていた一人息子を失うということは、その悲しみを背負いつつ、困窮した生活をこれから送っていかなくてはならないということを意味するのです。
愛する息子を失った悲しみに暮れるこのやもめという遺族に、町の人たちはきっと何も声をかけることはできなかったかのかも知れません。寄り添い、すすり泣くことしかできなかったでしょう。一人息子がどんな亡くなり方をしたのかはわかりませんが、母親より早く亡くなったという深い痛みと悲しみが、その場に満ちていました。死ということに対して、どうすることもできない者たちの姿、現代に生きる私たちと同じ姿です。私たちも、人生において、愛する者を失った遺族に付き添い、共に泣き悲しむ経験をし、また自分自身が愛する者を失った遺族となり、深い悲しみの只中に突き落とされる経験を誰しもが致します。目に見える死が全ての終焉を迎えると理解しているからです。そして、自分たちもまた、他者の死を経験しつつ、死に向かって生きている存在であるというところに立たされます。やもめや町の人々、棺を担ぐ人々が墓に向かって行進していくが如く、私たちの人生も、墓に向かって歩んでいる。その終着点である「死の世界」に日々近づいていると実感させられます。この死の行進は誰にも止められないのです。それが自然だ、ありのままだ。それで良いのかもしれません。でも、死の訪れは、そんな生易しい人間の認識を越えて、突如として現れるのです。「死」を受け止めるという心の準備など間に合わない、本当に一瞬のうちにです。このやもめのように、ただ泣き叫ぶことしかできない境地に立たされます。
しかし、今この死の行進を前にして、主イエスがそこにおられます。葬列者は主イエスを通り過ぎようとしたかも知れない、でも、主イエスはこの行進を引き留めたのです。墓地という死の世界への行進を引き留めた。そして、何をされたか。まず何をされたかということです。このやもめを「憐れんだ」のです。前の説教でお話ししましたが、ここで使われている「憐れむ」という言葉の元の意味は、「はらわたが痛む」という意味です。主イエスが痛まれる、神が痛む思いを持って、このやもめに愛の目を向けている、主イエスを通して出会って下さっている。そして「もう泣かなくともよい」と言われた。これから一人息子が埋葬されるという究極の悲しみの只中で、主イエスはやもめに言われたのです。死の行進を引き留めただけではない、それを押しかえそうするほどの力と慰めのあるお言葉。死の力に対するいのちの御言葉として、このやもめに語られ、人々は聞いているのです。主イエスは棺に手を触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われ、一人息子を生き返らせました。その一人息子にいのちを与えられ、やもめにお返しになったのです。死の力を打ち破ったキリストが、今このやもめを憐れまれ、共におられる。死に向かって歩むいのちを見出すのではなく、このキリストと共に歩むいのちを見出すようにと、このやもめに目を向けているのです。ただ生きるだけのいのちではなくて、生きていく力を与えられた希望のいのちに新しく生きなさいとこのやもめを招いておられるのです。
主イエスの力に驚きの反応を示したのはやもめではなく、人々でした。彼らは主イエスを恐れ賛美しているのです。自分たちもまたこのやもめに付き添い、寄り添いつつも、人生の途上において、ただ死へと向かう道のりを歩んでいた。やもめと共に死の行進を進まざるえなかった自分たちにも、はっきりと神の憐れみを見出した。死の行進を引き留め、これを押し返したいのちの御言葉を聞くことができた。「神はその民を心にかけてくださった」のです。神が顧みてくださったのです。主イエスの視点はやもめだけに留まらなかった。自分たちイスラエルの民にも、神は痛まれ、その救いの御手を差し伸べておられる。神から離れ続けてきた、罪にまみれた民を、神様は顧みて下さると喜んでいたことでしょう。人々は方々に、このキリストを伝えて行ったのです。
私たちも彼らと同じように、死への行進を突き進んでいる途上で、それは人生における様々な痛み、悲しみ、苦しみを担いながら生きている途上で、主イエスを横切って通りすぎようとする私たちに、主イエスは出会って下さり、私たちは憐れみを知りました。憐れみの中に、真のいのちを知りました。そして、主イエスを信じ、招かれて洗礼を受け、古い自分に死に、キリストと共に新しい生を歩んでおられる方がいます。まだ洗礼を受けておられない方も、今このキリストの憐れみが向けられ、真のいのちに招かれているのです。
私たちはいづれ、肉体的な死を迎えなくてはなりません。この生き返った若者もいづれはまた死んだことでしょう。目に見える肉体的な死を経験するということにおいて、私たちは死への行進を歩んでいるのです。しかし、この行進の行きつく先は墓ではありません。キリストの下へと繋がっています。キリストの下に向かう希望への道、その信仰の旅路を私たちは歩んでいるのです。
私たちはいついのちを失うかわかりません。そのいのちより大切なものはないと思い、そのいづれは失われるこの世のいのちにだけ目を奪われるならば、私たちは痛み、悲しみ、苦しみを体験するごとに、生きる力をなくすでしょう。私たちにいのちを与え、ただありのままに私たちを憐れまれ、愛される方、主イエスキリストと出会い、このお方にいのちを委ねるならば、私たちはいづれ朽ち果てるこの世のいのちに優る尊き恵み、真のいのちを知ることができます。真に私たちを生かしてくださる恵みを知り、生きる力を得ることができるのです。それは決して平坦な道ではありません。試練の連続かも知れません。みすぼらしくて、愚かで、無力な自分と常に向き合わなくてはなりません。とても辛いかも知れない。辛いけれど、それは私たちの生きる力の本質ではありません。それらは表面的なことに過ぎないのです。主の憐れみはどれほど深い事か。私たちの心に、魂の奥底にいのちを与える方なのです。
だから私は最後に言います。いのちよりも大切な賜物を私は知った。主と共に生きているのが嬉しいと。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。