2013年6月30日 聖霊降臨後第6主日 「これ以上ない愛」

ルカによる福音書7章36〜50節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

イエスキリストの十字架、罪の赦しとは何か。誰しもが疑問を抱きます。私は大学生の時に洗礼を受けましたが、その時には、この疑問に対する答えは見つけられませんでした。聖書を読んでも、人から教えもらっても、何か実感がわかない。何となく頭の中で理解できそうだけど、これが自分とどう関係があるのだろうかというリアリティーがなかったために、終始疑問を抱いていました。

そんな時、ある小説に出会って、深い印象を与えられました。その小説は三浦綾子の「道ありき(青春篇)」です。ご存じの通り、この小説は三浦綾子の13年間の闘病生活の只中で、自己の青春、信仰生活を描いた作品であります。この小説を読んだ読者は彼女の人生に大きな影響を与えた人物、「前川正」を思い浮かべずして、感想を分かち合うことはできないでしょう。

この小説の中で、私に大きな印象を与えてくれたシーンを、今でも忘れられません。敗戦を迎え、教師として教えてきたことを否定され、その後、肺結核における長き闘病生活を強いられる只中で、自分の人生と真っ向から向き合えず生きている三浦綾子(堀田綾子)に前川正が寄り添い続けますが、彼女は前川正に心を開きません。ある日、彼が彼女、三浦綾子を連れて、旭川の町を眺めることができる丘、確か「春光台の丘」という名前だったかと思います。2人で景色を眺めていた時、生きることに消極的な発言ばかりをする彼女に対して、前川正は彼女に諭します。しかし、そんな彼の発言に反発するかの如く、彼女は身体に悪影響のあるたばこに火をつけて、たばこを吸おうとします。その時、彼は彼女の健康を心配する言葉を発しながら、深いため息をつき、そして、傍にあった小石を拾って、突然自分の足に打ち付けました。彼は涙を流して、自分の足を打ち付けながら、自分がいくら神様に祈っても、自分には彼女を救う力がないということを悔やみます。彼女はそんな石を打つ付ける彼の姿、涙を流す姿に呆然としつつも、彼の姿から、己の生きる道を指し示されました。小説の中で、彼女はこう語っています。
「自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。」

前川正の姿にキリストを見出した彼女の人生は大きな転機を迎えます。その後、このキリストが彼女の人生の土台となっていくのです。心を開き、現実を受け入れて、前向きに生きていく彼女の姿が描かれていきます。彼女に生きる力を与えたキリスト。石を打つ付ける前川正の姿の中に、十字架の贖いを、彼女は、そして私は見出したのです。やっと二十歳そこそこを迎えた当時の私に、この場面は驚きそのものでした。キリストの十字架は、かたくなな私という存在を受け入れてくださり、生きる道を指し示してくれる神の愛であると知った時、「救い」とはこういうことなのかと、私は実感しました。罪赦されて、神様と向き合い、自分を神様に委ねるという新しい命に自分も与っているのだという導きを、改めて今も感じております。

今日の福音、罪深い1人の女性が主イエスと出会います。彼女は終始しゃべりません。会話を交わしたわけではない。彼女は主イエスと涙で交流しているのです。あたかも、この彼女の涙がこの物語の全体の雰囲気を醸し出しているかのように。

主イエスはファリサイ派のシモンの邸宅に招かれ、食事の席に着きました。そのことを知った一人の罪深い女性がうしろから、主イエスの足元に近寄り、涙で足を濡らし、自分の髪で拭い、足元に接吻して、香油を塗りました。主イエスがどうして食事の席に招かれたのか、この女性はどこで主イエスの存在を知ったのか、どんな罪を犯して「罪深い者」となったのかはわかりません。この席にはシモンの仲間たちがいた。おそらくシモンと同じファリサイ派の人々だったでしょう。その席に主イエスを招いたシモンの思いとして、今やユダヤ全土に名の知れた預言者である主イエスを自分の家に招き、食事の席についてもらうということは、自分の権力を誇示するためのものだったのかも知れません。しかし、そこに、シモンをはじめとしたファリサイ派の人々にとって、招かざる客が入ってきて、涙を流しながら、主イエスに触れるという女性が現れました。シモンは彼女の行動を見て、彼女を非難しただけでなく、主イエスをも侮りました。彼の彼女を見る眼差しは、まさに「裁き」のまなざしです。そういう眼差ししか向けられなかったのです。彼女の涙に目もくれなかった。彼女の行動に留意もしなかった。他人の目のおが屑ばかりが気になるのです。シモンは自分の目のおが屑、裁きの眼差しに気付いてはいなかったのです。さらに、シモンは、彼女の涙を受け入れる主イエスの彼女への憐れみ、神の憐れみを見出せませんでした。それはなぜか、シモンには既に、ファリサイ派としての、自分の人生の土台が築かれていたからです。ファリサイ派としての自身の真面目さ、正しさ、神様への敬虔深さという土台を。そして、今、何を持って彼はその土台に立っているかと言いますと、まさに彼女の姿、罪深い姿の中に立てられているのです。彼女を見て、自分の立ち位置を確認できた。自分は大丈夫だ、安全な所にいる。そう思ったことでしょう。私たちも「自分自身」という土台を持っています。その土台がどういう土台なのか、どういう状態にあるのか、それを知る手がかりとして、時に他人の言動、態度、行動が対象になります。平ったく言えば、他人と「比較」するということです。他人と比較するな、自分のペースを貫け!よく聞く言葉です。自分の立ち位置をしっかり把握しろということでしょう。しかし、私たちは、そんな自分のペースを貫く時でも、相手のペースを見ないわけにはいかない。なぜなら、他者と関わって生きているからです。自分のペースの源は、知らず知らずの内に、相手のペースと言う土台の上に築かれているのです。他者からの影響が大きい。良くも悪くもです。その中で、私たちは本当の「自分」、自分の姿をどこに見出すことができるのでしょうか。

主イエスはシモンの、女性を見つめる鋭い裁きの眼差し、彼の目のおが屑を見逃しませんでした。ある譬え話を彼に話し始めます。借金の譬え話です。金貸しは50デナリオン、500デナリオンを貸した者たちの借金を帳消しにするというお話です。徳政令みたいなものでしょうか、現実的ではありませんね。そして主イエスはどちらがこの金持ちを多く愛したかと質問します。質問に対し、シモンは500デナリオン借りた人の方が、多く金貸しを愛すと答え、主イエスは彼の答えを肯定しました。しかし、シモン自身はこの譬え話を聞いてどう思ったのでしょうか。主イエスの意図は何だったのかと疑問を感じたのかもしれませんが、主イエスの意図は、シモンに答えさせた、質問の内容を答えさせたというところにあります。主イエスの質問は「多く愛したか」と言っているのです。「借金を帳消しにしてもらって、どちらが多く喜んだか」と言っているのではなく、「愛する」という言葉を使っています。帳消しにしてもらった人が、喜びに満ちて終わるということに留まらない。金貸しと「愛する」という関係性にまで発展しているのです。そして主イエスは「多く」という言葉を使っています。多さ、少なさという対象が起こるのも、2人いたからです。愛するということに多さ、少なさということがあるのかと思われるかもしれません。そういう疑問を抱く私たちに、敢えて主イエスは私たちに言われるのです。それはなぜか、次のシモンへの言葉でわかります。44節です。主イエスは女性の方を向いて、シモンに「この人を見なさいか」と言われました。「この人を見ないか」。印象深い言葉です。主イエスに言われなくとも、シモンはこの女性を見ていた。何を見ていたのか。この女性の罪深さです。涙ではない。裁きの眼差しで見つめていた。そして、彼女を見て、自分の立ち位置を確認した。彼女は自分より罪深いと。そこで安心しきってしまった。そして、彼は主イエスを見てはいないのです。神ではなく、自分ばかりを見ていた。主イエスは言われました。「この人を見よ」と。見方を変えろとまで言っているかの如く。シモン、あなたは私を見ていなかったと言われるかのように、自分に対するもてなしは一切しなかったと、シモンに言われます。それでも主イエスは尚自分を見ろとは言っていない、この人を見よと言われる。何を見るのか、「愛の大きさ」を見よと言われるのです。愛の大きさに見られる罪赦された彼女の姿を、愛に生かされて、新しい歩みを成そうとしている姿に目を向けなさいと、主イエスはシモンに言われるのです。それは彼女の主イエスへの愛の大きさに示された彼女の姿の中に、主イエスはおられるということなのです。神の御心がそこに示されているのです。主イエスは彼女の涙を受け入れ、その涙の中に留まれた。涙に示された罪深さの中に、共におられたのです。シモンは彼女の涙の中におられるキリストを見てはいなかった、いや見出すことはできなかったのです。

「あなたの信仰があなたを救った。」立派な信仰とは主イエスは言われない。またあなたは救われたという主イエス御自身の行為に主イエスは言及しません。彼女の信仰なのです。その信仰を彼女の涙に見られます。ただ泣きじゃくった涙ではなく、キリストが受け止めてくれた涙です。その涙の中に示された彼女の罪深さと赦し、そしてキリストへの愛。この涙こそが彼女を救ったのです。彼女に新しい愛の命が与えられ、新しい歩みが示されました。

私たちは、彼女の涙を通して、その涙に示された罪深さの中に共におられるキリストを仰ぎ見たいものです。私たちは何を見るのか、何を見て自分の土台を築くのか、人生を歩んでいくのか。他人の落ち度でしょうか。失敗でしょうか。弱点でしょうか。そこにしか目を向けられないところに、人間の盲目さが現されます。人間の弱さ、みじめさ、無力さの中に、嘲りを見出しますか、それとも、神の憐れみを見出しますか。問われているのは私たち一人一人です。しかし、私たちがどのような目で、何を見ようとも、キリストは私たちに十字架を示してくださいます。私のため、あなたのための十字架です。だから、あなたは赦されている。愛に生きることができるとキリストは言われます。愛の招きがあなたに向けられています。神への愛の大きさは、神への信頼です。この信頼へと思いを委ねて、自分自身の土台を築いていきましょう。

この人を見よ。主イエスは女性の涙を、そこに示された主イエスへの愛を見よと言われました。この愛はどこから来たのか、そう天から降臨されたのです。この世を愛されている神から出た愛です。この愛が、あのみすぼらしい飼い葉おけ、それはあたかも人間自身の心の暗闇、貧しさを示すかのような所に、宿られたのです。その無垢な赤子をこそ、見るのです!

教会讃美歌307番「まぶねの中に」の4節の歌詞を思い越してください。この歌詞をお読みして、終わります。

この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ 人となりたる 活ける神なれ。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。