2013年7月7日 聖霊降臨後第7主日 「真の命」

ルカによる福音書9章18〜26節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

最近私は、「キリスト新聞」を購読し始めました。毎週土曜日に送られてくる新聞ですが、その新聞の記事の中に、「論壇」というコラムがあります。昨日7月6日の記事で、そのコラムの見出しのタイトルが「日本伝道について考える④ 教会は『真の救い』を語れ」というものでした。実に刺激的なタイトルです。この記事を書かれたのは、日本基督教団前総幹事の内藤留(とめ)幸(ゆき)という方で、私は、面識がないのですが、内藤先生は記事の中で、『救い』についてこう語っています。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。

今日の福音はまさに、この「真の救い」について、主イエスが私たちに語っておられることなのです。内藤先生は、信仰、希望、愛に生きること、キリストにつながることだと言われました。それは具体的にどういうことかと言いますと、「自分の十字架を背負う」ということに他なりません。自分の十字架を背負う、その響きからして、重く受け止めてしまう私たちの姿があります。自分の十字架を背負うことがなぜ「真の救い」なのか。主イエスの厳しい言葉です。しかし、「十字架を背負う」ということは、何か悪いことをした罰として与えられるということではありません。「わたしに従いなさい」と言われる主イエスの招きの言葉であります。十字架を背負って、主イエスに従う歩みの中にこそ、「真の救い」が示されているからです。
本日はペトロが信仰を告白する場面から、福音のストーリーは始まります。主イエスが祈っておられたところに、弟子たちも共にいました。彼らは常に群衆たちに取り囲まれる日々を送っていたでしょう。今は祈りを通して、父なる神様と交わりを共にし、あたりにしずけさだけが漂っている雰囲気を彼らの姿から感じ取ることができます。そして、主イエスが弟子たちに尋ねました。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか。」主イエスの噂は、もうこの時には、ユダヤ全土に知れ渡っていたことでしょう。数々の奇跡や癒しを垣間見てきた群衆は、主イエスに力ある預言者としての期待を抱いていました。洗礼者ヨハネやエリヤ、その他の預言者が生き返り、再び自分たちのところに来てくださり、自分たちを救ってくれるという期待です。世間一般では、今最も注目の的であるお方であったということでしょう。そして、主イエスは弟子たちにも聞きました。即座に答えたのがペトロでした。「神からのメシアです」そう答えたのでした。

「メシア」、これはそのまま「救い主」と訳せますが、元々の意味はヘブル語で「油注がれし者」と言います。サウルやダビデなど、イスラエルの王様となる人物が授かっていた称号でした。ギリシャ語では「キリスト」という意味です。

「あなたこそが私たちの救い主です」。ペトロはそう答えたようなものです。しかし、主イエスはペトロたちを戒めました。メシアということを人々に知れ渡らないようにするためだったからです。それはなぜか、人々が願う「この救い」を与えるために、主イエスは来られたということではなかったからです。ペトロたちもそうでした。この「メシア」がどういう救いをもたらすのか、分かってはいなかったのです。そして、主イエスは言います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」、「人の子」、福音書に出てくるこの言葉を、私たちはすぐに主イエス御自身のことであると当てはめてしまいますが、実はこの言葉は旧約聖書にたくさん出てきます。その語源となっているヘブル語では「ベン・アダーム」と言い、それは一般の人を指す言葉です。学者の間でしばしば議論となる言葉ですが、本来はただの「人」を指すということなのです。

「人の子」、確かにそれは主イエス御自身のことを指しますが、主イエスは預言者や祭司、まして「メシア」ということに直接言及しません。ペトロたちが理解できていないのであれば、また彼らを戒めてでも、「人の子」に拘ったのはなぜか。そのひとつの答えが、今「聖書を分かち合う会」で学んでいるフィリピの信徒への手紙にあります。有名な言葉ですが、フィリピの信徒への手紙2章6節から8節でパウロはこう言っています。

02:06キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 02:07かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 02:08へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

これは、キリスト教会の最も古い信仰告白の言葉として、知られています。ここでははっきりと「キリスト」という言葉が言われていますが、このキリストは人間と同じものとなったとはっきり記しています。しかも、王様や権力者としてではなく、かえって自分を無にして、僕の身分とあるように、無力な存在として現れてくださった。その歩みは、十字架に至るまで従順だった。脇道にそれることなく、また抵抗することもなく、ただその道を歩まれたということです。メシアあるいはキリストとして、権威ある神の御言葉を人々に教えつつも、自らは、無力な者として、今ペトロたちの前に、私たちの前におられるのが主イエスというお方、主イエスキリストという神の子なのです。そのご生涯は、あのみすぼらしい飼い葉桶から始まりました。羊飼いたちは、天使からこう告げられたのです。02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 02:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書2章11-12節)

あなたがたへのしるし、いともみすぼらしく、貧しいこの幼子こそが、真の救いのしるしとなった。メシアという救い主、私たちの救い主として、私たちの只中に宿って下さったこの救い主が、今、その神の御心を、私たちへの真の救いを示されているのです。今やそのしるしは、「人の子」として、十字架につけられ、三日目に復活するという約束にはっきりと示されています。ここに希望があります。私たちの罪の贖いのために、無残で残酷な十字架に架かられ、死を迎える。しかし、それで終わりではない。黄泉の国から復活するという希望があるのです。ペトロたちはそれを聞いてどう思ったのでしょうか。同じお話のマタイ福音書16章22節では、十字架の死に向かう主イエスを、ペトロはいさめ、留まらせようとします。主イエスはその時ペトロに言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」激しい言葉です。ペトロの行為は人間の行為、神に反する行為だと言われる。神の真の救いを妨害する人間の救いの行為なのです。十字架という苦難から逃れようとするこの世の救いです。しかし、主イエスはその救いをもたらすためではなく、父なる神の御意思、つまりこの世、全被造物への滾る(たぎる)ことのない愛、真の救いをもたらすために、サタンを振り切り、この世の救いという誘惑を振り切り、十字架への道を歩まれていくのです。

そして、主イエスは私たちを招きます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 09:24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

わたしに従いなさい。それはどういうことか。信仰のために命を捨てろと言っているようなものです。しかし、自分の命を捨てて、それで終わりというわけではない。それを救うと言っているのです。そう、新たに創造されるということです。分かりやすく言えば、あなたの真下、いや心の奥底に土台が築かれるのです。キリストという土台が。その土台を受け入れることによって、ますます私たちの人生の嵐は激しくなるかも知れません。常に揺れ動き、不安、悩みは絶えないかも知れない。苦難が待ち受けている。しかし、その苦難を通して、あなたはキリスト、永遠の命をもたらすキリストという土台の上で、生きながらえるのです。どんなに揺れ動かされても、大丈夫!あなたの中にあるキリストの土台が支えてくれるから。神の愛ががっしりとあなたを掴んでいるから。だから、あなたの土台となってくれるキリスト、安心してこのキリストを信じてください。いつ崩れるかわからない自分自身という土台を払って、このキリストの土台を受け入れる。それこそが、自分の命を失い、キリストが与えてくださる命に生きることなのです。

だから、もはや健康で安定した幸福のある生活だけを願うということに縛られる必要はありません。自分の命を守るために、それらのことに煩わされて、自分の人生の歩み、その基軸を見失うことはないのです。ここに、キリストへの信仰、希望、そして愛があります。真の救いがあります。困難や苦難の只中に立たされようとも、生き生きと生きていける。外見はそうは見えないかも知れない。何も変わっていないかも知れない。相変わらず、揺れ動かされ、振り回される人生。しかし、真の救いを知ったあなたは、あなたの心の中にある命の灯は輝き続けている。キリストに従う限り、その灯は消えないのです。

今日の第2日課でありますガラテヤの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。3章26-28節です。03:26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。03:27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 03:28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

神の子として、キリストを着ている。パウロはこう表現しました。そう、キリストに覆われているのです。この覆いがあなたを支えてくれる。さらに、この覆いに入っているのは、あなた一人ではないということ。キリストによって、ひとつされている私たち相互間の歩み、愛し合う友がいつもいてくれるということであります。男も女も、人種という壁を突き破って、キリストに連なる私たちの姿があります。ここに真の命があり、その喜びを分かち合いましょう

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。