ルカによる福音書10章25〜37節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音は「善きサマリア人のたとえ話」です。放蕩息子のたとえ話と並んで、最もよく知られている、主イエスのたとえ話だと思います。その理由としては、この物語は、内容自体にそれほど解説がいらない、解説がなくとも、理解しやすい。子供たちにもよくわかる物語であり、聖書を知らない人でも、一度は聞いたことがある物語である、といった具合に、わたしたちになじみのある物語です。私がはじめて説教をした箇所も、この善きサマリア人のお話しでしたので、とても印象に残っている箇所であります。
善きサマリア人、これは英語の辞書で「グッド・サマリタン」と記されています。良い、立派なサマリア人という意味です。サマリア人と言えば、グッドな人ということです。あたかもそれは、道徳的な民族の代表格という形で、模範化されている印象を受けるのでありますが、この物語をよく見て見ますと、通りがかったサマリア人は、倒れている人を「憐れに思って」、彼を助け出し、介護したのでした。サマリア人の行為はこの「憐れみ」の思いに先行したということです。みなさんはもう気付いておられるかと思いますが、そうです、この憐れむという言葉は、あのナインのやもめの一人息子が死に、棺が担ぎ出される時、泣いていたやもめの姿に、憐れみを抱かれた、主イエスのあの憐れみという言葉と同じです。原語のギリシャ語で「スプランク二ゾーマイ」。はらわたが痛むということです。名詞形で「内臓」という意味です。倒れている人を見かけて、サマリア人は痛みを覚えた。まるで自分自身が倒れて、痛みを患っている人であるかのように。サマリア人は憐れみを覚えたということですから、「善いサマリア人」という題よりも「憐れみ深いサマリア人」といったほうが、聖書の物語に近い印象を受けるのであります。
私たちに、このようによく知られている物語ですが、主イエスがたとえを話されたのは10章の30節からです。この物語の内容は主イエスの「答え」そのものでした。何の答えかと言いますと、すぐ前の箇所を見ればわかりますが、25節からの律法の専門家との問答における答えです。律法の専門家が主イエスを試そうとして言ったことがきっかけでした。この試すと言う言葉は口語訳聖書で「試みる」と訳されています。解釈によっては、「罠にかける」といった、あまり良いイメージがない言葉です。律法の専門家の、主イエスに対する心情そのものを指し示している言葉である言えるでしょう。この25節からの今日の物語ですが、25節も、冒頭は「すると」という接続詞から始まっているのです。ですから、いきなりこの物語がこの箇所に記されたということではなく、明らかに前の箇所と結びついているという経緯が伺えるのです。この箇所との結びつき、その軸となっているのは、主イエスが72人の弟子を派遣したことです。そして、10章17節からは、この72人が帰ってきて、その宣教の成果を主イエスに報告しています。主イエスも彼らの働きをねぎらっているかのように、その報告を聞いてます。そして、この宣教の実りを、こう喜びなさいと言いました。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。20節の主イエスの言葉です。あなたがたはこの世で生きながら、もう天に属している、神に信頼して生きているんだ。そのことを喜べと言わんばかりに、彼らに語っているのです。そして、21節では、主イエスが神様に向かって、この弟子たちが「幼子のような者」であると祈り、その後、23節から24節で、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」幼子のような弟子たちは、幸いだと言われる。歴代の預言者や王たちが見る事、聞くことができなかったものを、彼らはそれを見て、聞くことができるのだと。それは一体何か。21節に「御心に適うこと」とありますように、天の神様の御心を見たり、聞いたりすることができる、ようするに知ることができる幸いに彼らは与っているのだということです。そして、具体的にその御心とは、今まさに彼らの前におられる主イエスキリストにおいて示されたものなのです。あたかもそれは、弟子たちは天に名をつらねている、すでに永遠の命を得ているんだと、主イエスが語っているようなものです。
72人の弟子たちに語った言葉を律法の専門家も聞いていたことでしょう。きっと驚きが隠せなかったはずです。なぜ、彼らが先に救われるのであろうかと。律法の知識もたいしてないであろう彼らが、なぜ先に救われるのか。そういった不満はあったと思います。そして、22節の主イエスの言葉「主の御心は知恵ある者や賢い者には隠されている」というこの言葉に、彼は反応したことでしょう。なぜ自分には隠されて、あの弟子たちには表わされているのか。納得ができない、思わず立ち上がって、主イエスに質問した。こういう流れから、主イエスとの問答が始まったとも考えられるのです。
前置きが長くなりましたが、律法の専門家の質問の内容は、彼が抱いていた疑問、不満から出た者だったのかも知れません。どうすれば、永遠の命、救いに与ることができるのですかと質問しました。「律法には何と書いてあるのか」という主イエスの聞き返しに、それは神への愛、隣人への愛であると彼は答えます。それを実行せよと主イエスは答えます。しかし、彼は引き下がらない。じゃあ隣人とは誰かという問いをぶつけます。私が愛すべき隣人とはいったい誰なんですか。その人なら、私だって当然愛しますよ。口先だけじゃなくて、行動に表わして、ちゃんと愛しますよと言わんばかりに、彼は「隣人」という概念を限定づけようとするのです。
「隣人」と言う言葉を聞いて、みなさんはまずどういう人を思い浮かべますか。私がまず思い浮かべるのは隣ご近所さん。そして、待合室などで、たまたま居合わせて、隣の席に座った人を思い浮かべます。また、そういった距離的な意味だけではないでしょう。ごく身近な人を思い浮かべるかも知れません。たとえば、家族、親戚などの身内、友人や知人と言った人たちです。では、隣人を愛する「隣人愛」というのは、どういうことでしょうか。家族や親戚などの身内、友人や知人といった人たちには、大切な人たちですから、その人たちを愛するという「隣人愛」が成立するかも知れません。しかし、近所の人や待合室の人は見ず知らずの他人です。「愛する」という思いにまでなるでしょうか。その人たちとの関わりの中で、何かしらの助け合いはするかも知れませんが、愛するなどという関係ではないと思うかも知れません。むしろ、その助け合いですらしないかも知れない。お互い無関心でいるほうがトラブルを避けることができる。だから、無関心でいようとする。どこかそんな思いが私たちにはあるのかも知れません。
30節からの譬え話。強盗に襲われ、倒れた人が登場しますが、神様にお仕えする祭司、レビ人はその人を見て、道の向こう側に行ってしまいました。その理由としては、律法で死体に触れてはいけないとあるから、それを守ろうとした、またはとばっちりを受けたくはないから、急いでいたなど、いろんな事情があったことでしょう。どうあれ、目の前で倒れている人を無視しました。この人たちの行為を私たちは攻めるかも知れません。しかし、自分もまた、彼らと同じようなことをしていたのかも知れないと思うかも知れません。そしてサマリア人が登場します。当時のユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人です。サマリア人はユダヤ人たちから罪人だと思われていました。律法にもそんなに詳しくなく、律法の規定通りには生きていない、正しくない人だと思われていました。しかし、彼は前の2人とは違いました。倒れている人を見て、「憐れに思った」、痛みを覚えたのです。そして、近づいて、倒れている人を介護した。さらに、ろばに乗せ、宿屋に連れて行き、宿代を払い、またさらに、不足分をすべて支払ってあげたのです。サマリア人は、この倒れている人に、すべてを与え尽くしたと言っていいでしょう。お金、時間、手間暇全てを。この人が怪我が治って、起き上がり、日常生活を送ることができるようにするために。この人がこの後どうなったかはわかりませんが、たとえ話はここで終わり、36節で、主イエスは質問します。だれが隣人になったかという質問です。隣人とは「誰か」ではなく、「なったか」です。「その人を助けた人です。」彼はそう答えました。敵対するサマリア人の名称は出さず、「その人」という答えでした。
彼のこの答えから、このたとえ話の背景にある憎しみに気付かされます。根深い憎しみです。先ほど、隣人とはどういう人かということについて、考察致しましたが、このお話では、律法の専門家から見て、敵であったサマリア人が隣人でした。彼から見て、あり得ない人が、隣人だった。いや、隣人となったということです。憎い相手、自分から最も離れていた人です。サマリア人だって、この倒れていたユダヤ人に憎しみを抱いていたことでしょう。今までユダヤ人が自分たちにしてきたことを許せなかったはずです。しかし、このユダヤ人は倒れて、痛みの最中にあった。祭司やレビ人といった同胞の者たちにも見捨てられて、孤独になり、痛みもがいていた。サマリア人はその悲惨さに心を打たれ、自分も痛み出したのです。憎しみ以上に、痛みが増したのです。
この痛みとは何でしょうか。当然痛むものにしかわからない感覚です。でも、私たちも痛んでいませんか。突然強盗に襲われるということはほとんどないかも知れませんが、突然の不幸や、病に襲われて、痛むことはあります。日々の生活の中ではどうでしょう。どこか、自分でも気づいていないところで、痛んではいないでしょうか。そういった自分が痛んでいる姿に、心配してくれる人、気遣ってくれる人。そういう人たちはたくさんいるかも知れません。そういう人たちが隣人なのかも知れません。でも、自分の痛みをどこまでわかってくれるのか、共に痛んでくれるのかということはわかりません。常に不安の只中の中で、歩んでいる姿があるのかも知れません。
私たちの人生の歩みは、学校の雲梯にしがみつきながら、前に進んでいるかのような歩みなのかも知れません。雲梯につかまって、自分という体を、存在を、自分自身の手でなんとか支え続けながら、歩んでいる。この雲梯とは社会の法律、この世の力、知恵、地位、名誉、財産、などです。それらのものにしっかりと結びつかないと生きてはいけない、手でつかまっていないと、雲梯から落ちでしまうのです。そこから落ちないように、てばなさないように、なんとかしがみついているのです。でも手は痛い。全身で支えている体にも負担が蓄積されています。本当はいつも痛いんだとそこで気付かされる。そして、突然の不幸や病が襲ってきて、落ちてしまう。または、何か過ちを犯して、落ちてしまうことがあります。世間は落ちた人に関心を払わない。過ちを犯した人は、落ちた所から引き揚げられるのではなく、炎上やバッシングを容赦なく浴びせられて、あたかも、もうつかむことすらできないという状況にまで追い込まれます。結局誰も助けてはくれない、雲梯から落ちた自分の痛みはどこまで行っても、自分の痛み、他人の痛みはどこまで行っても他人の痛みです。
しかし、私たちはどこかで、その雲梯から手を外して、落ちて、痛みを知っている者たちです。日々痛みを背負い、倒れているのかも知れません。ものすごく痛いし、誰も助けてくれないという境遇が、自分の傷口を広げるのです。でも、その自分の有り様を見ている方がおられる。痛みを覚えて、サマリア人が近寄ってきてくださるのです。自分に全てを与えて下さる方、生きる力を与えて下さる方です。
私たちは手をはずして、落ちたのです。痛みを覚えたのです。でも、そこで出会ったのです。介護者なるキリストに。身体も心も介護されて、再び歩んでいます。それでも現実の歩みは雲梯のようなところでの歩みかも知れない。また落ちるかも知れない。しかし、私たちは、自分が落ちて、目に見える痛みを覚えたとしても、心のクッションになってくださる方を知っています。何回落ちても、私たちの心のクッションとなって、痛みをカバーして下さる方が共におられるのです。私たちの痛みを負って下さる方の十字架を垣間見るのです。
でも、全く痛みがないということはないでしょう。その方が共に負って下さる痛みがあり、その方のくびきを共に負っていく私たちの姿が、歩みがあります。主イエスは最後に、言いました。あなたも同じようにしなさい。そう、私たちは痛みを知ったものたちです。雲梯から落ちてしまうことを知っています。痛みは痛みとしてあるけど、私たちの心のクッションとなってくださる方を、私たちは知っています。だから、私たちは動ける。生きていける。行ってあなたも同じようにしなさい。そう、私たちがキリストのクッションとなって、今落下してしまいそうな人、落下して痛んでいる人のクッションとなるのです。ひとりのクッションではすごく痛いでしょう。でも、ひとりではありません。教会という交わりの中で、教会がクッションとなって、その方の隣人となるのです。パウロは言います。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむと。教会は倒れた人の痛み、苦しみを共に担うのです。自分の痛みだけではない、相手の痛みに気付かされる。だからこそ、この教会で、自分の痛み、相手の痛みをみんなで支えていく、助け合っていく。私の、あなたのクッションとなって。
主があなたを招かれます。「行ってあなたも同じようにしなさいと」。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。