2013年7月28日 聖霊降臨後第10主日 「救い主を迎えて」

ルカによる福音書10章38〜42節
藤木 智広 牧師

※説教題変えました。
「大丈夫!やり遂げなさい」→「救い主を迎えて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

忙しい日々を送っている方がほとんどだと思います。本当に毎日が忙しい。皆さんはしっかりと休息を取っていますか。なかなか十分に取れない方も多いかと思います。体力や精神の限界を超えて働く、活動している、そんな自分自身の姿を見つめる機会があるかと思います。休みたくても休めない、熱があっても働かなくてはならない、活動しなくてはならない、そのように無理をされている方もたくさんおられるかと思います。でも、やはり人間は生身の存在です。どこかで休まないと、脳が機能しなくなります。無理をして無理やり、働こうとすると、よけいに体調が悪くなり、倒れてしまい、他人に迷惑をかけてしまうということもありえます。

聖書には、「安息日」という日が定められています。ご存じのように、神様は6日間でこの世界を造られ、7日目に休まれました。全知全能の神様も休んだわけであります。その安息日に則して、旧約聖書の律法の規定にはこういう言葉が記されています。出エジプト記23章12節です。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためでもある。」7日目には、休まなくてはならない。それはなぜか。あなたが休まないと、あなたより立場の低い人が休めないと、こういうのです。あなたが休まないと、周りの人たちが休めない。あなたが休まず、無理をして働いていると、周りの私たちも、あなたに常に気を配らなくてはならない。だから、私たちも休めないということです。様々な事情があって、休めない方がおられるのも事実ではありますが、それでもなんとか折り合いをつけて、休むことは大切なことだと思います。やはり、周りの人たちが休めないからです。自分では大丈夫だと思っていても、周りの人たちが、なかなか休まないあなたを見て、周りの人たちがあなたの健康を心配します。直接目には見えなくとも、さりげない言動や行動の中に、あなたの疲れを見出すかも知れません。自分でもわからないくらいに、疲れが蓄積されている。相手に指摘されて、初めて気付かされる、そういうこともよくあります。

さて、うしやろばなどの「動物」には休ませると書いてありますが、女奴隷の子や寄留者と言った「人間」については、「元気を回復するため」とあります。肉体的な面のことだけでしょうか、それとも精神的な面における回復も含まれてのことでしょうか。どちらにもとれるかと思います。聖書が言う安息、元気を回復するということは、そういった人間が考える癒し、回復に留まりません。安息日、これはモーセの十戒、その第3のいましめに、「安息日をおぼえて聖とせよ」と記してあります。安息日、神様が人間に与えた安息、元気を回復させるというのは、神様を覚え、神様をお迎えすることなのです。労働や行動を完全に中断して、神様に心を向けて、向き合うのです。しかし、私たちはこう思うかもしれません。なんで身も心も疲れているのに、神様をお迎えし、神様のことを考えなくてはならないのか。神様にご奉仕しなくてはならないのか、そんな負担をかけなくてはならないのか。家でごろごろしていたり、好きなことをしていたりしたほうが、よっぽど休むことができる、元気が回復するではないかと。確かにそうしたほうが、気軽に休めそうです。気分転換できます。しかし、それだけでは、休めない、回復しないほどの疲れを負っている時もあります。自分の力だけでは解決できない、または未だに解決の糸口が見つからないほどの悩み事や心配事を抱えていた時、そういったものを抱えたまま、休日を過ごそうとしたときに、本当に身も心も、休まるのでしょうか。そういったものに思い煩って、心の奥底からは休めず、むなしさが残るということであれば、休日の日も、結局は心の中で労働しているのです。心の中で労働し、心が休めないと、その疲れが肉体に顕れてきます。ですから、心を休め、クリアにしないと、肉体も休むことはできません。身も心も休まる、真実の安息、命の安息が人間には必要なのです。

安息日に、神様を迎える。どこにか、もちろんそれは私たちの只中、私たちの心の中に迎えるということであります。悩み事、心配事が尽きない私たち人間の只中にです。どうお迎えするのかということを、今日の福音から聞いてまいりたいと思います。

今日の福音は、マルタとマリアの物語です。主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅の途上にあって、ある村に入り、マルタの家に迎え入れられました。マルタという名前は「女主人」という意味です。この家の主人であるマルタは主イエスと弟子たちのことを知っていたのでしょうか、快く彼らを迎え入れました。彼女にはマリアという姉妹がいました。聖書は先にこのマリアのことを記しています。39節ですが、彼女は、主イエスの足元に座って、話に聞き入っていました。マリアも主イエスのことを知っていたのかも知れません。

主イエスは72人の弟子たちを派遣する際に、彼らにこう言いました。すぐ前の10章8節からですが、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』」と言いなさい。」「神の国が近づいた」、こう告げるように、弟子たちに命じたのです。この言葉は、後に主イエスが徴税人ザアカイの家を訪れたとき(19章1~10節)、「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスがおっしゃった言葉と同じニュアンスです。神の国という救いの支配が、この姉妹の家に訪れた。マリアは、主イエスが語るこの救いの支配、神の国の教えに耳を傾け続けていたのです。

さて、一方のマルタですが、40節の冒頭の箇所を口語訳聖書で読みますと、「ところが」という接続詞が挿入されています。原文で読んでも、「しかし」という接続詞が、ここには挿入されているのです。「ところが、しかし、マルタは」と繋がります。マリアとは異なった行動をしたという強調が込められているのでしょう。マルタは主イエスの話を聞いているどころではなかった。旅人である彼らを、主人である自分がもてなさなくてはならないという思いにあったからです。彼女はせわしく立ち働き、主イエスと弟子たちをもてなしていましたが、姉妹のマリアは手伝おうとはしなかった。彼女はこう思ったでしょう、主人である自分だけが、なぜこんなに立ち働き、自分の言うことを聞くべき立場にあるマリアは、手伝おうとするどころか、動こうとさえしないのかと。マルタは最初、マリアの行動に驚いていたのかも知れません。別に彼女はお客さんである主イエスと弟子たちを無視しているわけではない、お話の相手をしているようには見えるけど、遠路はるばる来られた旅人に接する態度としては、不適切だった。快適なもてなしをすることが、旅人への心遣いというものではないのか、さらに人手が足りないんだから、手伝うのもあたりまえだと、マルタは思っていたことでしょう。

そして、とうとう彼女の怒りが、爆発します。でも、その怒りは直接マリアに向かって、言ったものではありませんでした。「マリア、こっちに来て、あなたも手伝いなさい」とは言わず、お客さんである主イエスに向けて彼女は言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています。」わたしだけにと、自分のことをマルタは言っている、いや訴えていると言えるでしょう。「わたしはこんなにあなたに尽くしているのに、このマリアは手伝おうとしない。マリアにも手伝うように言って下さい。」マリアに手伝うよう言ってほしいという思いはもちろんありますが、その思い以上に、マルタは自分の境遇を主イエスに訴っているのです。わたしはこんなに働いているのに、尽くしているのに、なぜあなたは黙っているのか。わたしはこんなに一生懸命あなたがたをもてなそうと、動き回っているのに、あなたは自分の足元にいて、手伝おうとしないマリアを迎え入れ、お話をしている。なぜ何もしないマリアをあなたは受け入れているのですか、あなたはそんなマリアの態度に怒りを覚えないのですか、そして、この私のことは何とも思わないのですかと、マルタは自分の心境を主イエスに訴っていたと言えるでしょう。

その彼女の姿を、主イエスの目にはこう映ったのです。「思い悩み、心を乱しているマルタという一人の人間。」マルタは、主イエスと弟子たちを迎え入れたのです。仕方なくでも、強制されてでもない、自分の意志で、良心とも言えるでしょうか、とにかく快く受け入れた。だから、一生懸命にもてなそうとしたのです。私たちだって、大切なお客さんがはるばる自分の家を訪ねてきたら、快く迎え入れ、もてなそうとします。相手に尽くす、奉仕しようとします。ですから、マルタの立ち振る舞いはごく自然なものなのです。しかし、彼女の心は、乱れていたというのです。最初は快く迎え入れたのに、次第にマリアの姿が気になり、自分の行動にむなしさを覚えた。やがて、途方もない義務感に駆られ、彼女は思い悩んでいたのです。そして、主イエスは彼女に言います。「必要なことはただひとつである。マリアは良い方を選び、それを取り上げてはならない」と。必要なことはただひとつで、マリアは良い方を選んだということは、マリアは最も必要なただひとつのことを選んだと言えるでしょう。主イエスの足元で、神の言葉を聞いていたマリアの姿、姿勢こそがそうでした。マリアはお客さんである主イエスに話題をふって、おしゃべりをしていたわけではない。主イエスのお話に聞き入っていただけなのです。主イエス御自身に思いを向けていた、足元に座るとうことは、自分は僕の身分であるということです。神様の御前に立つときの姿勢です。マリアこそが主イエスに迎え入れられているのです。

「もてなし」という言葉、これは英語で「サーヴィス」という意味です。サーヴィスというのは「礼拝」という意味があります。サーヴィスの他にはワーシップという礼拝を顕す言葉がありますが、今、この場で皆さんと一緒に神様から招かれている礼拝という意味のサーヴィスです。また、原語のギリシャ語で「ディアコニア」という言葉です。ディアコニア、そうです、「奉仕」という意味です。マルタは奉仕していたのです。礼拝奉仕の奉仕、私たちもする奉仕です。

礼拝はドイツ語で「Gottesdienst(ゴッテスディーンスト)」と言います。ゴッテスは神という意味です。神の奉仕、神奉仕です。神が人間に奉仕するのです。礼拝は、人間の奉仕、人間のもてなしの行為が中心にあるのではなく、神の奉仕、神の人間へのもてなしが中心にあるのです。他の宗教とは決定的に違うところです。神は人に仕えられたり、ささげられる必要もないのです。神の方から、私たちを招き、私たち人間に仕えて下さる。私たちが気苦労し、どうしたら神に喜ばれるか、受け入れてもらえるだろうかと、思い悩む必要はないのです。必要なことはただひとつなのです。この神の奉仕に招かれ、心を開いて、神の福音に耳を傾けることなのです。それが第一とすることです。

先ほども言いましたが、マリアが、主イエスの足元に座り、お話を聞いている姿は、マリアが主イエスに迎え入れられている姿です。お客さんである主イエスではなく、マリアこそが主イエスに招かれている。必要なことはただひとつ、良い方を選んだマリア、主の足元に座り、神の御言葉を聞いているマリアがいます。そう、マリアは神の奉仕に招かれているのです。マリアが主イエスに奉仕しているのではなく、主イエスがマリアに奉仕している、主イエスこそがマリアに奉仕しているのです。マリアがもてなされている、奉仕されている、サーヴィスを受けている。そう、このマリアの姿は、礼拝に招かれている者の姿なのです。ここで礼拝が行われているのです。

マリアはこのように良い方を選びましたが、主イエスはマルタの行動、働きを否定しているわけではありません。マルタも、私たちも奉仕者として、招かれているからです。でも大切なことは、それは義務感、使命感から、奉仕するのではないということ。礼拝は神の行為、神の奉仕が中心です。その恩恵を受け、救われた者たちが、神に応答する、感謝の思いを持って仕えることが奉仕なのです。神は私たちに赦しと憐れみを語りかけておられます。この語りかけに耳を傾け、喜びと感謝をもって、私たち人間は賛美し、神への信頼を持って、神に信仰告白するのです。神が私たちを受け入れ、御言葉を通して、私たちへの愛の御心を示してくださる。その愛への応答として、私たちは神と隣人とに愛をもって仕える、奉仕するのです。

マルタとマリアの家を、主イエスは訪れました。マルタは家の主人として、主イエスを迎え入れましたが、迎え入れられたのは、彼女たちだったのです。神の国が近づいた、神の救いが彼女たちの家に訪れたのです。主イエスキリストがその救いを成し遂げるために、主イエスこそが、救いの創始者として、彼女たちの家を、彼女たちの心の中を、そして、私たちの心の中を、訪れてくださったのです。そして、今もここで私たちを訪れてくださり、あなたの心に、あなたの只中に救いの御言葉を語りかけておられます。ここに礼拝があります。神が訪れ、神が奉仕して下さる礼拝に私たちが招かれているのです。

マタイによる福音書11章28節で、主イエスはこう言っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私たちは日々の忙しさの中で、疲れを覚えているものたちです。肉体的にも精神的にも。休みたくとも休めない、休んでも、心の疲れは取れないという現実があります。悩み事、心配事は尽きず、思い悩み、心を乱している姿がある、そういった重荷を背負って生きています。マリアもきっとそうだったのでしょう。だからこそ、主イエスの御足に座り、御言葉を聞き、もてなされて安息を得ていたのです。彼女に必要な休息だったのです。そんなマリアを、マルタを、そして私たちを主は招かれます。わたしのもとに来なさいと。休ませてあげると、言われます。元気を回復してくださるために。安息日に、礼拝に招かれ、神のもてなし、奉仕を受けて、私たちの心に安らぎが与えられるのです。主イエスは私たちを訪れて下さり、主イエスこそが私たちに奉仕してくださいます。主イエスがここにおられます。この方を自分の心に迎え入れて、元気を回復しましょう。あなたは真実の安息、命の安息日に招かれたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。