ルカによる福音書11章1〜13節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
「私たちにも祈りを教えてください。」(11:1)弟子の一人がこう主イエスに尋ねました。「祈りを教えてください」と。弟子の方から訪ねて、主イエスは彼らに、そして私たちに祈りを教えてくださったのです。祈りは力である。祈りは人を変える。そういったことを聞きます。自分がクリスチャンになりたての頃は、その意味がわからなかった、信じられなかったというのが私の体験です。祈りはクリスチャンの日課みたいだと、形式的というか表面上のこととしてしか理解できなかった当時の私の姿を、この弟子の質問から思い出します。
しかし、祈りは力、人を変えます。皆様の、この六本木ルーテル教会の皆様の前で、このように申す根拠は、今私がこの説教壇に立っている牧師としての姿そのものにあります。今の私の姿が証ししていると、私事で恐縮ですが、私はそう確信しております。なぜなら、それは皆様が証人、祈りの証人だからです。私のために祈って下さった。私が神学生の時から、私がこの教会で実習させて頂いた時から、祈り支えて下さった。そして、神学校を卒業し、今この教会で牧師として、この説教壇に立たせていただいている。もちろんそれは神様の導きが先導したということでありますが、その導きも、皆様の祈りが届いた、聞き入れられた故に、起こった出来事である。それ故に、ここに今の私がいる、ここにいるのだと実感しております。それ以外に、真にこのような偶然があるでしょうか。皆様への感謝の思い、嬉しさは当然のことながら、やはり祈りは力であり、人を変えるものであると、私は信じております。私たち人間の思いを越えた遥かなる力が働いているのです。
主イエスの弟子たちはユダヤ人です。彼らは主イエスに祈りについて尋ねるまでもなく、祈ることはしていたし、祈りを知っていたはずです。しかし彼らが知っていた祈りは、主イエスの祈りとどう違っていたのでしょうか。彼らが知っていた祈り、模範となり、祈る者として身近にいた人たちは、ファリサイ派の人たちではないかと思います。彼らの祈り、その姿勢を後に主イエスが批判しますが、それは大勢の人の前で祈る、人に見てもらう祈り、内容が整った立派な祈りというものだったでしょう。祈りは立派なものでなければいけない、律法の知識をしっかりともった立派な人でなければ祈るに相応しくない、そういったイメージを弟子たちはもっていたのか知れません。私たちも、人前で祈るということは気恥ずかしくて、抵抗をもつということがあるかも知れませんが、人前で祈る時、何か立派なことを言わなくてはならないという思いを抱いてはいないでしょうか。祈りが難しくて、なかなかできない、予め祈ると分かっていたら、よく考えて、文章にして、表現を整えて、万全に準備する。そうしないと人前で祈れないという思いは誰しも抱いていることなのかも知れません。
主イエスの祈りはどうだったのでしょうか。福音書を見て見ますと、朝早くに、誰にも見つからないように、人里離れた所で祈っていたと記されています。誰かに見せるためということではない、敢えて人前を避けていた。ファリサイ派の人たちとは違うあり方だったのです。主イエスはその祈りへの姿勢、思いを込めて、弟子たちに祈りを教えてくださいます。それが今日の福音、2節からの主の祈りです。
私たちが礼拝式文の中で祈る、「主の祈り」は、マタイ福音書に記されているほうの祈りです。それに比べて、このルカ福音書の主の祈りはその一部です。マタイ福音書は祈りについての具体的な手引きが、主イエスの口を通して、記されていますが、(マタイ6:5-8)このルカ福音書では、それがなく、代わりに5節からのたとえ話を通して、祈りの本質を主イエスは教えておられるのです。
この主の祈り、クリスチャンであれば、誰でも自然に祈る祈りです。暗記しているというより、自然に祈れる祈りです。故に、この祈りを集会や会合の終りに、祈る習慣があります。よく言われるのは、この主の祈りを、まるで題目を唱えるかのように、ただひたすら祈る、早く祈ろうとするということです。それでいいのかと言えば、良いわけがない、そのことはお一人お一人がお分かりになっていることだと思います。祈りとはそういうことではないということ。そう考えますと、この主の祈りも含めて、祈るとはどういうことなのかということを、私たちはわかっているようで、わかっていない気が致します。
祈りについての本や教えはたくさんあります。たとえばルターは祈りについて、1520年に書かれた彼の著作「善き業について」という書物の中で、こう言っています。「祈りは祈祷書の頁を数えたり、ロザリオの玉を数えたりするような習慣に従ってなすべきものではない。心にかかる緊要事をとりあげて祈り、それを真剣に求めるべきである。そして、この祈りにおいて、神への信仰と信頼とを練り鍛え、その祈りが聞きとどけられることを疑わないようにならねばならない。」またヤコブ書を引用しながらこうも言っています。訳は違いますが、ヤコブ書4章3節です。「あなたがたが多く祈り求めながら、何も与えられないのは、正しい求め方をしないからだ」。続けてこう言います。「信仰と信頼とが祈りの中になければ、その祈りは死んだ祈りであり、もはや重い労苦以外の何ものでもないからである」題目のようにただひたすら祈る、早く終わらせようと、早く祈る姿の中に、信仰や信頼があるのでしょうか。義務的なこととして捉えてしまっている。それこそ労苦ではないでしょうか。どこまで言っても自分たち人間のペースで、習慣づいたものとなっている。神様に何を求めているのかということを真剣に問うているのだろうかと、疑問に思うのであります。ルターが強調して言うように、信仰や信頼なくして祈りは祈りではないということ、それは自分たち人間が神様に委ねきれないということでしょう。題目のように祈る、早く祈る、またファリサイ派の人たちみたいに、立派な祈りにしようと、祈りを着飾ろうとする。対象は神様であっても、その祈る者の心は、神様ではなく、自分を向いている。やはり自然と人目を気にしているのです。
ですから、「わたしたちに祈りを教えてください」この願いは弟子たちの願いだけではありません。今の私たちの願いです。この福音書の箇所を読むたびに、いや常に私たちが問われるものです。形式化された祈りから、信仰と信頼をもった委ねる祈りへと、一人一人の祈祷者に主は御言葉を通して、教えられるのです。
そうして、主イエスは5節からのたとえを話されます。旅行中の友人が訪ねてきたが、食べるものがない。なんとか友人に食べ物を出してあげたいために、真夜中に、別の友人の家を訪れます。そこでパンを3つ貸してほしいと願いますが、友人は言います。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』(7節)この後の8節はこのたとえ話の結論へと続きますが、8節冒頭の「しかし、言っておく」という主イエスの言葉は、何かの発言があって、それに対する答えだったのではないかという解説があります。主イエスはこのお話を弟子たちにされています。途中で話を止めて、弟子たちに感想を聞いたのかもしれません。それは、旅行で尋ねた友人のために、真夜中にも拘らず、友人のもとを訪ねたが、友人はパンを貸してくれなかった。その友人を薄情者だと、弟子たちは感想を述べた、非難したのかもしれません。
そんな感想を述べたであろう弟子たちの思いとは予想を遥かに超えて、主イエスはこのたとえ話の結びを話します。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)友人だからということは関係ない、しつように頼めば、何でも必要なものを与えると主イエスは言われます。しつように頼めば与えられる。そう言われます。諦めずに何度も何度も頼みこむということでしょうか。この「しつように頼む」と言う言葉、これは「強情な」とも訳せますが、元の言葉は「廉恥心」とか「恥知らず」、「厚かましい」という意味があります。しつように頼むということですが、その頼みこんでいる者の姿がここで示されています。全く遠慮なんてしていられない、恥知らずな厚かましい思いで、態度で、頼み続ける。求め続ける。人の迷惑なんて考えない、そんな姿が見えます。そうすれば、必要なものが与えられると主イエスは言うのです。このお話の後に、主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 11:10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(9-10節)と言われました。求める者、探す者、門をたたく者。たとえ話から結びつけると、その者たちはあたかも恥知らずな、厚かましい思い、態度で求め、探し、門をたたいていると言っているようなものです。しかし、そういった者たちに、与えられる、見つかる、開かれるというのです。
主イエスがこのたとえ話をされたきっかけは、弟子たちに祈りを教えることです。正確には「祈ること」ということですが、ルターが言うように、信仰、信頼なくして祈りは祈りではない、そういった思いがなければ、ただの労苦であるということです。神様に委ねるということ、それは自分を着飾らない、自分のペースにしないということ。徹底して委ねるということ。祈り、そこに人間の意図はないのです。形式やふさわしい者などいないということなのです。
真夜中に扉を叩いて、懇願する人。願い求める姿、祈る者の姿は、この人のように見えます。しかし、家にいる友人の目から見たらそうではない。そこには恥知らずで、厚かましい思い、態度である人の姿がある。そういう人が懇願している。着飾るどころか、全く恥知らずな者の姿があるのです。そう、この恥知らずで、厚かましい者の姿、この者こそ祈る者の姿なのです。この者の祈りこそ聞いて下さるのです。その恥知らずな者の願いを聞き入れて、必要なものを何でも与えてくれる方がおられる。扉の向こうにいてくださるのです。
人に頼む態度、礼儀などはないに等しい。このように求め続ける自分の姿、この姿は空っぽの姿です。祈る者の姿、神様の目から見て、祈る者は全くの空っぽであるということ。恥知らずな、厚かましい祈る者、そんな者だからこそ神様は聞いて下さる、門を開けて必要なものを与えて下さるのです。それはこういうことです。祈る者たち、神様の御前で、祈る私たちには何もないのです。赤子同然、ただなきじゃくって、一人では何もできない者です。空っぽの自分がそこにいるだけなのです。しかし、なきじゃくる者の涙にこそ、キリストは目を向けられるのです。本当は、私たちは友人にあげるパンなどない、自分ができることなど、たかが知れている。いざとなったら誰でもそうです。この友人という愛すべき隣人が私の、あなたのもとに来た時、私たちはその人の隣人となれるのか、食べものなどを出して、その人を助けてあげられるのか。そういった保証はないのです。真夜中、そう、それはまさに突然起こるということを象徴しているかのように。右往左往し、戸惑う私たちの姿がある。自分には何もできないと思い知らされる。そんな自分を知った時、出会ったとき、「必要な糧をお与えください」。そう祈り願う自分の姿がある。ただそのように、恥知らずな思い、態度を持ってしても、しつように祈り願う。神様の御前において、その姿が示されているのです。
主イエスは13節で言います。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」恥知らずな者のように、祈り求める者に神様は聖霊を与えて下さる、神様と私たちを結び付けてくださる神様の霊を、私たちの只中に送って下さいます。神の霊、生ける主が共におられるということ。私たちの祈りを聞いて下さる生ける主が与えられ、共におられるのです。
祈りは力、人を変える力です。なぜか、それは私たち人間には全くないもの、全くない力です。この神様の霊が働かれる力だからです。祈り求める私たち、それは恥知らずな、厚かましい姿の私たちかも知れない。空っぽで裸な、無力な者の姿かも知れない。だからこそ、神様は顧みて下さる、扉を開いて、必要なものを与えて下さるために、私たちを迎えてくださいます。その信仰と信頼をもって、私たちは祈り求めるのです。門は必ず開かれます。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。