2013年8月11日 聖霊降臨後第12主日 「神の豊かさ」

ルカによる福音書12章13〜21節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

古来中国の政治家、思想家である孔子は、ある時弟子の子(し)貢(こう)という人から、こういう質問をされたそうです。「政治の基本とは何ですか」と。孔子はこう答えました。「食糧の充足、軍備の充実、政治家と国民との信頼関係の3つである」と。すると子貢は孔子に「その3つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どれを犠牲にしますか」と訊きます。孔子は「軍備である」と答えました。子貢はまた孔子に訊きます。「残った2つの中で、どうしても何か1つを犠牲にしなくてはいけないとなったら、どちらを犠牲にしますか。」と。孔子は「食糧である」と答え、続けてこう言いました。「食糧の充足を欠けば、国民は飢えて死者が出るかもしれない。しかし、人は遅かれ、早かれ、死から免れることはできない。政治家と国民の信頼関係さえあれば、弱くても貧しくても国を維持できるが、信頼関係がなければ、どれほど強く豊かでも国は維持できない。」孔子が言った3つのことは、原文で「子曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」となっています。食糧は「食」、軍備は「兵」、信頼関係は「信」。信じるの「信」です。この「信」が一番大切だと孔子は言いました。

政治家と国民の信頼関係と言われても、あまり実感は湧かないかも知れません。政治家は確かに国民の民意、信頼を求めているかもしれない。「信」です。でも国民はどうか。政治には期待できない、不信感ばかりが募るといった思いがあり、とにかく景気が回復してほしい。給料が上がって欲しいという声が聞こえてまいります。「信」よりも「食」を求めている。そんな気が致します。国民の生活に寄り添う政治、マニフェストを守る政治、もうそんな言葉は聞き飽きた。支持を得るための様々なパフォーマンスを見てきた。でも、もう見飽きた。具体的にどうしてくれるのかがわからない。国民への「信」を求めている政治家からは「食」に対する慎重さ、危機感が感じられない。だから、そういった表向きの「信」などは必要ない、そういう声が聞こえてまいります。国民が求めているのは、「食」、また外交、領土問題などを含めた「兵」、これらのことをしっかりと考えてくれる「信」ではないでしょうか。「食」や「兵」ではなく、「信」を先に犠牲にしてしまっているという現実の姿があるように思えます。

今日の福音は、群衆の1人の言葉から始まります。この人は主イエスに財産のことでお願いをしています。遺産を分けてくれるように、自分の兄弟に言って欲しいと。おそらくこの人は弟で、財産を独り占めしているのは兄、家の長男だと思われます。伝統的に相続の大半は長男が受け継ぐようになっているのです。弟であるこの人は、自分の兄が相続を独り占めにしていることに腹を立てていたのでしょう。この人は、主イエスに何らかの期待をもってお願いしますが、主イエスは「私はあなたの裁判官でも調停人でもない」と言ってその頼みを断ります。そして、15節で、この人を含めた大勢の人に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と言われました。「貪欲」と聞かされて、最初にお願いしたあの群衆の1人の人は、納得がいかなかったでしょう。貪欲にまみれているのは、財産を独り占めにしている自分の兄だと。兄にこそ聞かせてやりたい言葉なのに、なぜ自分が「貪欲に気をつけろ」などと言われなければならないのかと、この時主イエスに対して憤慨したのかも知れません。

しかし、この15節の主イエスの言葉は、ただ貪欲に気をつけろとは言っていません。財産がいくらあっても、命はどうにもならないとも言われました。命は財産ではどうすることもできない、買うことはできないということ。これはそのまま理解できます。命はお金では買えない、他のどんな価値あるものとも交換できない。まさにその通りです。たとえ兄から財産を分け与えられても、寿命が延びるわけではない。命はその財産ではまかなえないわけです。

財産の問題に対しての、この主イエスの言葉は一見おおげさに思えるかも知れませんが、この「貪欲」という言葉と「命」には深い結びつきがあります。「貪欲」という言葉を辞書で調べますと「執着して飽くことを知らない」という意味があります。単なる執着心ということではなく、飽くことを知らないということです。つまり、欲しいものが尽きないということ、欲しいものが手に入っても、もっと欲しいと執着することです。飽くこと、尽きることなき欲望です。また、聖書では、「貪欲」について、パウロが今日の第2日課のコロサイの信徒への手紙3章5節でこう言っています。「貪欲は偶像礼拝に他ならない」と。

旧約聖書の歴史は偶像崇拝の歴史でもあります。イスラエルの民は、エジプトから自分たちを救ってくれた主なる神様から何度も離れて、豊穣をもたらしてくれる外国の神様を崇めていました。この豊穣の神様を信じれば、畑が豊作となり、作物が与えられ、食べ物が与えられる。財産が豊かになる。豊かに生きられると信じていました。目に見える形で、安心を与えてくれる存在とは確かに心強いものです。しかし、周辺の外国が攻めてくると、彼らはあっさり打ち負かされます。田畑は荒れ果て、財産は奪われ、挙句の果てに、命を奪われていきました。イスラエルの預言者は、それを主なる神様の裁きであると国民に訴え、悔い改めを何度も呼びかけて、神様の御許に立ち返るよう、訴えてきたのです。危機の度にイスラエルの民を救済してきたのは、豊穣の神様ではなく、主なる神様です。豊穣の神様は確かに彼らに作物を与え、実りをもたらしてくれると信じられた魅力ある神様であったのかもしれませんが、主なる神様は「命をとる」お方であり、「命を与える」お方です。偶像崇拝をいくらしたところで、どんなに目に見える形で豊かになろうとも、命の保証はない。しかし、イスラエルの民は偶像崇拝を繰り返し、目に見える豊かさを求め続けました。偶像崇拝、それはパウロが言うように、豊かさを求め続ける貪欲です。飽くことなき、願い、欲望を抱くことです。しかし、それで満たされても、命は満たされない。生きられないのです。

16節からのたとえ話も、この「貪欲」がテーマにあります。ある金持ちの畑が豊作を迎え、有り余る穀物や財産を保管するために、倉を壊して、それらを全て収納できる大きい建物を立てました。そして19節で「こう自分に言ってやるのだ」と、自分に言い聞かせるのですが、口語訳聖書を見ますと、「そして自分の魂に言おう。魂よ」という言葉になっています。そうしてこう言います。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』この言葉を自分の魂に語りかける。「大丈夫だ、安心だ。」そういった救いの言葉を自分自身に語りかける、自己完結しているのです。確かにこの金持ちは賢いでしょう。豊作を迎え、実った作物を無駄にすることなく、全て保管したのです。将来に向けての備蓄ができたわけです。これから先豊作だけでなく、飢饉が起こるかもしれない。また戦争が起きるかも知れない。そういったいろんな災害に備えることができて、安心することができたと思うのは、私たちもそうでしょう。この金持ちのように、財産や食料の備蓄を確保できれば、安心できるのです。この金持ちを安心させているのは、この有り余るほどの食糧、財産です。それらが基盤としてある、飽くことなき貪欲の中に、安心感、確かさを求めているのです。

金持ちの人に言われた神様の言葉は非常に厳しいものです。「愚かな者よ。今夜お前の命は取り上げられる」と、衝撃的なことを言われるのです。当然命を失ったら、彼が築いた有り余る食物、財産は他の人の手に渡ってしまいます。命を失うことは全てを失うことであります。「命は取り上げられる。」。この言葉は理不尽な言葉に聞こえます。この金持ちはたまたま豊作を迎えたとはいえ、その後は自分で努力して、築いた食物、財産をしっかりと管理していたからです。悪いことをしていたわけではない、罰を受けるようなことはないのです。しかし、少し視点を変えて見ますと、この「お前の命は取り上げられる」という神様の言葉。これは一見その日に病気などで、死んでしまうということも考えられるのですが、他にも彼の有り余る食物、財産を狙って、強盗たちが夜に彼の家を襲撃し、命を落としてしまうとも考えられます。有り余る食物、財産がなければ、彼の家が襲われることはない、命を落とさずにすむということにもなります。有り余るものが返って仇となってしまったということです。

孔子は「食」よりも、「信」が一番大事であると言いました。「信」がなければ、国家は維持できないと言いました。国家の命はないということです。もし、「信」ではなく、「食」が一番大事であると言ったら、どうでしょうか。確かに国民は飢えることはありません。しかし、その「食」を巡って、争いが絶えなくなるでしょう。「食」は食べ物に限ったことではなく、財産、名誉、地位、領地など、目に見える価値ある物です。「信」がないわけですから、弱肉強食の獣の世界です。小さい者、弱い者への配慮、助け合いという概念はない、そういった人々が真っ先に犠牲になる世界です。欲望、貪欲のために、助け合い、協力関係を築くことはあるかも知れませんが、そこに「信」はない。信頼関係、具体的に言えば「愛」がないのです。己の貪欲のために、人の命を奪う、または奪われる、そんな世界の中では、人間は生きてはいけないのです。貪欲のために、有り余る物を手に入れ、その中で安心感を得ても、いつ自分の命が奪われるだろうか。遅かれ、早かれ、死から免れることはないのです。「食」という財産では命をどうすることはできないのです。

主イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と最後に言いました。自分のために富を積む。貪欲になるということ。それでは生きられない、命を失ったら、全てを失うのです。

主イエスが私たちに示している道は「神の前に豊かになる」ということです。これはどういうことでしょうか。単純に貪欲になるなと言っているのでしょうか。私たちは、貪欲を抱かずに、貪欲に目を奪われることなく、歩んでいく。本当にそのように生きていくことができるのでしょうか。

今日の福音は21節までですが、実は22節からの内容と今日の内容は繋がっているのです。お読みいただければわかりますが、12章22節から主イエスはこう言っています。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」思い悩むなと言われます。「思い悩む」、これも自分の魂に語りかけていることです。「安心だと」言うのとは反対に「不安でしょうがない」と自分に言い聞かせているようなものです。そして烏を例に挙げて、この烏が神様の養いの下で、生きていることを弟子たちに話しています。この烏は「納屋も倉も持たない」とあるように、あの金持ちの人とは全く正反対な生き方をしている、生き方と言っても人間と烏とでは比べようがないのですが、烏は貪欲でも、思い悩んでもいない。ただ神様の養いの下で、自分の命を委ねて生きている、いや生かされているということです。また、27節、28節では、野にある花ですら、美しく装って下さる神様の愛が語られています。だから、あなたがた人間はなおさら、神様の養いのもとにあるではないか、神様の愛が向けられているではないか、そのように主イエスは言われるのです。

そう、神の国という愛のご支配の中で、私たちは生かされている。貪欲を抱く必要はないのに、飽きることのない執着に支配されている私たちの姿があります。貪欲は偶像崇拝、偶像崇拝は神様から離れること、いわゆる罪の只中にあるということです。キリストは、貪欲という罪の只中にある私たちを救うために、この世界に降誕され、十字架に架かられました。私たちの貪欲という罪がキリストを十字架につけた、しかし、それこそが神様の愛なのです。貪欲から解放され、キリストの命に生きる新しい道を、この十字架が指し示しているのであります。この新しい道を歩む、キリストの命に生きる者こそ、神の豊かさに生きる者であります。

神の豊かさに生きた者たちの証を聞いてまいりたいと思います。使徒言行録4章32節から35節にはこう記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」初代教会に生きた人々の姿がここにあります。現代に比べて、物資も少なく、格差社会の激しい時代です。その中で、彼らは心も思いも1つにして、持ち物を分かち合い、そして貧しい人は誰一人いなかったと言われています。彼ら一人一人が、神様から与えられた賜物を分かち合うこの神の豊かさに生きる姿、神の豊かさを分かち合う歩みを証ししているのです。

将来の不安を見通して、有り余るほどの食糧、財産に安心感を求めていく私たちの姿があります。しかし、私たち人間は、本当は貪欲では生きられない、自分にどれだけ富を積んで備蓄し、安心感を得ても、いつ命を失ってしまうでしょうか。むしろ、貪欲に縛られて、真の「命」、生の歩みを見失っているのではないでしょうか。目に見える豊かさはいづれ朽ち果てます。私たち人間が自分の魂に語りかけるように、人間の判断で、豊かさの価値観は変動するのです。

神の豊かさ、それは神様が有り余るほどの糧を私たちに与え、私たちに安心感を与えるという豊かさではありません。神様は「必要な糧」を与えて下さるのです。その必要な糧も、ある人には、有り余るほどのものかも知れません。しかし、有り余るほどの中に命は見いだせない、分かち合い、この神様からの糧、賜物という養いという恵みは、分かち合ってこそ、見出されるものなのです。キリストの十字架を通して、私たちは貪欲から解放され、キリストの命に生きることができるのです。この命に生きる者として、身も心も一つとなって、互いに分かち合う者たちの姿、この姿の中に神の豊かさがあります。神の豊かさは私たちを通して、広がっていくのです。神の豊かさを分かち合いましょう。ここに望みを置いて、互いに歩めることに感謝してまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。