ルカによる福音書12章49〜53節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。
しかし、ヨハネ福音書14章27節では、主イエスがこう言われるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」平和を与えると言われる。しかしそれは「世が与えるように与える平和」ではないということ。平和の君として、平和をもたらす者であり、この世の平和、人間が造り上げる平和ではないということです。
私はここで平和論を語るわけではありませんが、一般に平和とは憎しみ、争い、戦争がない状態を指すものだと、思われるかも知れません。それは、国同士という大規模なものから、日常生活や社会の中での小規模な環境の中での平和ということを指すでしょう。互いに支え合い、助け合うことを尊重する。そこに平和、秩序の安定を見出します。しかし、平和をもたらすがために、平和のために犠牲になっている者たちも存在します。臭いものにふたをするということではありませんが、平和を装うという現実の姿があります。そのために犠牲となるのは、常に小さい者、弱い者です。また、平和というのも、人間の価値観によってその都度、解釈が曲げられてしまうものであります。
主イエスが与える平和、キリストの平和はそうではないということです。欠けだらけのところに、つぎはぎを足して、なんとか見栄えをよくする。そんな造られた平和ではないということです。むしろ、平和ではなく分裂をもたらすと言われる主イエスの思いは、そんなこの世が造られる平和を根本から打ち崩すものであると言えるでしょう。人間の価値観に分裂を引き起こすほどの緊張感もさながら、主イエスは私たちの心、魂に真剣に呼びかけておられるのです。
さて、主イエスの呼びかけ、それは当然私たちが御言葉に聞くと言うことです。49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われました。冒頭で述べましたように、この「火」というものが、私たちに好印象を与えないものでしょう。火の雨を降らせて、焼きつくすということ、それは「神の怒り」を連想させるからであります。神の怒りがこの世に向けられている。そう考えますと、この世を愛すると言われた神様の御心にも矛盾があるように思えます。どうして愛されるのに、怒りを露わにして、裁こうとされるのかということです。愛されるなら、火を投げ込むなどということはしないはずだと思います。どういうことなのでしょうか。
今日の第一日課でありますエレミヤ書23章29節に「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と言われる神様の言葉があります。わたしの言葉、すなわち神様の言葉は「火」のようであると、そういう意味です。そのように言われた背景に、偽預言者たちが神様の言葉を軽んじていた姿があります。23章17節では「わたしを侮る者たちに向かって彼らは常に言う。平和があなたたちに臨むと主が語られたと。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって災いがあなたたちに来ることはないと言う。」平和と言う言葉が出てきましたが、偽預言者たちは、安易に、イスラエルの民の支持、信頼を得るために、神様の言葉、御心を捻じ曲げて、自分たちに都合が良いように、解釈していたのです。「主の怒りは思い定められた事を成し遂げるまではやまない」と20節で言われますし、28節では「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」と言われました。神様に悔い改めることを呼びかけているのではなく、イスラエルの民を安心させ、信頼させる言葉を語るがために、神様の言葉を捻じ曲げてしまう。平和というのも、彼ら偽預言者が想像するものです。この世の価値観を基準としたものを、神様からの言葉として、解釈してしまう人間の都合があるのです。
神様の御言葉を語る者が、神様の御言葉を土台としてはいないということは、神様の御言葉を聞きつつも、神様の言葉を守らないのと同じです。キリスト者は聖書の御言葉を土台として、信仰生活を送ります。聖書を読んでいる時、聖書を人に証する時だけ、その御言葉に忠実になるのではなく、生き方そのものを通して、御言葉に忠実になるということです。しかし、聖書の言葉を道徳的なものとして捉えてしまう時、これは守れそう、これは守れなさそうと、自分の価値観で選別してしまいますと、自分たちの信仰生活は、聖書ではなく、この世の価値観が土台となってしまうでしょう。この世の価値観を土台とし、聖書の御言葉を聞く。そうすると、神様の愛のメッセージは喜んで聞くけど、神様の怒りのメッセージは聞きたくない。聖書の御言葉の良し悪しを「私自身」が判断する、自己中心的なあり方、そこに罪の姿があるのです。
されど、御言葉は火なのです。私たちの罪を焼き尽くす火として、私たちに向けられている御言葉です。主イエスのご降誕は、まさにこの神様の御言葉そのものが主イエスキリストになられたということです。このキリストに従う、連なる者は、御言葉に聞き、御言葉に従うということであります。火である御言葉として、主イエスは来られました。そう、主イエスこそが火なのです。救い主を迎え入れるということは、御言葉を受けいれる、心に火を燃やすということなのです。
しかし、心に火を燃やす、それはやはり御言葉を通して、神様の怒りを真に受けよと、主イエスを通して、私たちに言われていることなのでしょうか。「主の怒りは思い定められた事を成し遂げるまではやまない(エレミヤ23:20)」とあります。また洗礼者ヨハネは、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。(マタイ3:7-8)」と、厳しいことを言っているのです。でも、今日の福音で、主イエスは言います。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(12:50)主イエスが受ける洗礼とはどういうことでしょうか。洗礼者ヨハネは、主イエスについてこう預言しています。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる(マタイ3:11)」と。火で洗礼を授けるということです。そして、どんなに苦しむことだろうと言われました。火が神様の怒りであるということは、地上に投じられた火、神様の怒りの火は、主イエスに向けられている。主イエスがその火に焼かれるということであります。神様の怒りを真に受けるのは、私たちではなく、主イエス御自身であるということなのです。そして、その怒りの火を真に受ける姿を、私たちは十字架上のキリストに見出すのです。十字架、それは神様の怒り、裁きの御業に他なりません。それは罪故に、私たち人間に向けられていた。しかし、主イエスが私たちを愛されるが故に、その火を甘んじて受け、十字架に架かられたのです。この十字架の姿に、神様の怒りと愛が私たちに示されています。
主イエスが投じた火は、御言葉です。神様の怒りが示されている御言葉です。この御言葉を聞き、自分の罪を知るのです。しかし、罪故に、私たちは焼き滅ぼされるということではないのです。主イエスの十字架を通して、罪が赦されたからです。私たちはこの主イエスと連なる、結びつくことによって、御言葉を受け入れ、御言葉を土台とした信仰生活を通して、神様の愛を知るのです。もはや、自分の価値観で、御言葉を捻じ曲げる必要はない、滅びを恐れて、欠けだらけの自分につぎはぎをして、立派に見せようとする、そんな自分を偽る必要はないのです。
エマオの途上で、2人の弟子が復活の主イエスと歩いていた時のことを、彼らはこう証ししています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。聖書、つまり御言葉を聞いていた時、彼らの心は「燃えていたのです。」その火は、焼き尽くす滅びの火ではなく、「心が燃えていた」誠に彼らを生かす火であります。主イエスという火を受け入れて、心の中で燃やすということは、キリストの出会いであり、キリストに従い、共に歩むということです。
そこには時に人との不和が、分裂が生じます。人間の情ではなく、また都合の良い解釈でもない、心地よいものだけではない、主イエスを信じ、この世の価値観にではなく、御言葉に立つとはそういうことを引き起こします。しかし、分裂の只中で、意固地になって、相手を完全に否定して、キリストを信じよということではありません。その只中においてこそ、御言葉が土台となって、あなたを支えるのです。人間の価値観によってその都度、解釈が曲げられてしまう平和の中に、小さい者、弱きものが虐げられている現実の姿がある。直接目には見えないことかも知れません。私たちはそういったこの世の価値観を土台とする世の平和の中で、常に揺れ動かされているものであります。その私たちに、主イエスは御言葉と言う火を投げかけられました。それは、焼き尽くす滅びの火ではなく、誠に生かす火、永遠の命という火として、私たちの心の中に燃え盛る火であります。私たちがこの世の価値観に激しく揺れ動されていようとも、この火は消えないのです。火のような神様の御言葉という土台は揺れ動くことがないのです。この火が主イエスキリストとして、私たちの只中に宿られ、御言葉として、つまり私たちは聖書を通して、主イエスと出会うのです。
主イエスは火を投ずるために、来られます。それは永遠の命という誠に私たちを生かす火として、来られる。この主イエスに心を開いて、激しく人間の価値観が変動する混乱の只中に、真実を見つめていきたいと願います。本当の自分自身をそこに見出し、この世の価値観があなたを評価、受け入れるのではなく、神様があなたを真に受け入れてくださる。主イエスが投じた火は、御言葉という激しく燃え盛る愛の結晶体として、あなたに呼びかけておられます。この世の価値観、評価に縛られない自由な私、あなたという存在を、この火が、愛の御言葉として証ししているのです。この火を心に燃やして、真の自分を知り、主イエスと共に歩んでまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。