ルカによる福音書14章7〜14節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音のたとえ話で、主イエスは「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない(14:8)・・・むしろ末席に行って座りなさい。(14:10)」と言われました。ここで、婚宴の招待を受けた客たち、おそらくこの人たちはすぐ前の、水腫の人を癒すお話に出てきたファリサイ派の人たちかと思いますが、彼らが上席を選んで座っている様子に主イエスが気付かれ、彼らにこのたとえを話され始めたと福音書は記しています。婚宴に招待されたら、自分の名前が記されたネームプレートが置かれている席に座るという印象があるかと思いますが、主イエスのたとえ話に出てくる婚宴の席では、そういうものがありません。招かれた者たちに席次が委ねられているのです。
上席、その席には、当然その婚宴の主賓が座ります。また、ネームプレートが置かれていなかったら、主賓だけでなく、自分と同じように招かれた他のお客さんに遠慮して、上席ではなく、末席に座るという人が多いでしょう。そのような謙虚な姿勢が美徳とされる日本では、一種の社会通念とも言えます。主イエスに言われるまでもなく、私たちは上席ではなく、末席を選んで座る。しかし、上席を選んで座ろうとするファリサイ派の人たちと、謙虚な姿勢で、末席を選ぶ私たちの姿、その思いは全く異なるものでしょうか。彼らファリサイ派の人たちからしてみれば、自分たちは招かれたお客さんであり、主賓を除けば、自分たちは上席に座るのが普通だと思っていたことでしょう。わざわざ末席になんて座ろうとはしません。また、他の者に遠慮して、謙虚な姿勢で末席に座ろうとする私たちであっても、自分たちもまた招かれたお客さんでありますから、末席が本当に自分の席に相応しいとは思いません。心の中では、上席に座るのが相応しいと思っています。ですから、末席に座れば、招いた人から「もっと上席に進んでください」(14:10)と上席を勧められ、11節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という主イエスの言葉を聞きますと、末席に座れば、確実に、上席に座ることができる。末席を選ぶように、謙虚な姿勢で、へりくだれば、上席に導かれるように、自分が高められる。ようするに、謙虚に振舞えば、その分の見返りが自分にあると受け取れます。出世街道まっしぐらというわけではありませんが、主イエスは人生を歩む上での処世術を私たちに教えておられるのでしょう。
無論、主イエスはそんな処世術をここで語っておられるわけではありません。上席ではなく、末席に座りなさい。確かにそう言われますが、先ほども述べましたように、私たちは真に、末席に自分の身を置いているのでしょうか。心から末席に相応しいと思っているのでしょうか。自分はお客さんだという思いもそうですが、周りの人たちと比べて、あの人よりかは、自分の方が上席に相応しいと心のどこかでそういった思いを抱いているのかも知れません。主イエスの言葉を処世術として、得のある成功話として受け止めている時点で、また周りの人と比べることで、我が想いは末席にあらずということなのです。
同じルカによる福音書18章9節から14節にこういうお話があります。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈っているお話です。婚宴の場でありませんが、神殿という同じ神様の御前に立ちつつも、この2人の祈りの姿勢から、2人は同じ立ち位置にはいないように思えます。あたかも、ここに「上席」と「末席」があるように、2人の異なる立ち位置が伺えます。ファリサイ派の人は、あたかも自分が上席に相応しいと思うように、神様の前で、自分の功績を祈ります。そればかりか、隣にいる徴税人を出しにして、自分の義しい行いを神様に報告しているのです。もちろん、ここでは神様の御前ですから、上席にあたるのは、主賓である神様の場所であり、二人は末席にあたります。しかし、ファリサイ派の人の思い、彼の思いは末席ではなく、神様に近い上席にあると言えるでしょう。そこに相応しい立ち位置に自分の存在を描いている。対して、徴税人はどうでしょうか。彼はこう祈りました。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』その一言です。しかも「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」と彼の心情が描かれているように、きっと震えるような声で祈ったことでしょう。憐れんでください、つまり顧みて下さいと自分の身を神様に委ねている、そのように彼の姿が映ります。その心情から、神様から最も遠く離れた「末席」に座り、「上席」を求めてはいない。むしろ、とても求められる身ではないと確信している。末席という低いところこそが自分の立ち位置、罪人としての己の人生の立ち位置であると、そのように思っているのでしょう。そして、それは単に末席というよりも、「憐れんでください」と、神様の憐れみの中に、自分の席を求めている。神様の憐れみの末席に、彼が座しているということです。その席で悔い改めている彼の姿があります。
しかし、「義とされて家に帰った」、すなわち救われて家に帰ったのは、この徴税人であると主イエスは言われました。へりくだる者は高められる。ここでは徴税人のことを指していますが、何が高められるのでしょうか。自分が上席に座る相応しい知恵や力といったステータス、人間としての魅力を得るということでしょうか。それが「救われる」ということでしょうか。そういうことではありません。人間の魅力が高められるということではないのです。人間の魅力は変わらない。環境や状況ががらりと一変して、もう末席に座るような惨めな思いに至らなくていいということを言っているのではありません。「憐れんでください」、ただその思いにあるのです。神様が憐れむ、顧みるということなのです。自分の側には、上席、神様の近くには相応しくない。全く相応しくない。そのままに、神様が憐れまれるのです。だから義とされた、救われたのです。ですから、高められるということは、罪赦され、救われたという確信によって、主と共に生きる新しい人生の歩みが始まったその出来事を示しているのです。末席に座る、いや神の憐れみの末席に座るからこそ、神の愛が見える、救いの御業を確信できる。神様の計り知れない恵みを両手いっぱいに、いや末席と言う最も低い所にいるからこそ、全身で豊かに受け止めることができるのです。
自分が上席に相応しいと、この世の知恵や力、価値を基軸にして、末席に座ると言う謙虚さを持ちつつも、その心が上席にある以上、その上席の足場を固めているのは、自分自身の力です。自分の立ち位置がはっきりとわかるから、安心できるのかも知れません。そして、この世の上席は特等席です。名誉、地位、財産、そして、食べ物、飲み物、お金、衣類、住む場所が豊かにある席です。対して、この世の末席は、その真逆でしょう。自分は上席に座している、また末席に座していると判断するのは自分自身です。末席に座り続け、上席にあこがれて、そこで思い煩い続けるのか、それとも、末席に留まり続けて、今までは見えなかったものが見えてくる、見出される価値に喜びを抱いて歩んでいくのでしょうか。この見出される価値とは、先ほど述べました神の計り知れない恵みのことです。
されど、上席の足場を固めている自分という力には限界があります。主イエスは言われます。「あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。(14:8-9)上席から末席への転落。自分が築いた上席、この足場は、いずれは朽ち果ててしまうということ、この世の価値観とは常に流動的だからです。しかし、神の憐れみは流動的ではない、途絶えることのない永遠の愛であり、末席のあなたに常に向けられているのです。上席にあこがれて、この世の魅力に思い煩う必要はない、この世の魅力では見ること、知ることのできないもっとすばらしい生き方がある。神の愛に生かされて、神様の愛のご支配、つまり御国の下で、あなたの末席、自分の力ではなく、主イエスを土台とした人生の末席に座る。その末席に座してこそ、『さあ、もっと上席に進んでください』という主の声、主の導きが聞こえてくるのです。神に近づく、その救いに与るということ、永遠の命が与えられるのです。
そのために主イエスはこの世に、この世の末席という最も低きところにご降誕されたのです。真に無力な赤子の姿で、家でも病院でも宿屋でもない、飼い葉おけという最も低き末席に主は宿られた。主イエスのその末席の生涯をフィリピ書2章6節から8節でこう歌われています。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
神の子がへりくだり、この世の末席に留まられた。この世の末席で主イエスと出会い、罪の赦しを受けて、救われた人々が私たちの信仰の先達者たちです。私たちもそうです。この世の末席で、最も低き末席におられる主イエスと出会った、その末席でこそ主の十字架を知ることができた。そして神の憐れみの席で、主イエスと共に新しい人生を歩んでいるのです。
私たちの席は上席でしょうか、末席でしょうか。また、末席に立ち続けているでしょうか。何にせよ、主はあなたを婚宴に招いておられる。御国の食卓に招いておられます。信仰の先達者たちと共に、その祝宴の先取りであります聖餐式に私たちは招かれ、主の救いを体現します。まだ洗礼を受けておられない方も、祝福に招かれている。この食卓に上席も末席もないのです。皆が同じ席につくのです、洗礼を受けていようと、受けていなかろうと。そのことを信じているかどうかということです。へりくだる者は高められる。へりくだって、主の計り知れない恵みを知り、その下で、共に生きてまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。