2013年9月15日 聖霊降臨後第17主日 「喜ぶに結ばれて」

ルカによる福音書15章1〜10節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

貧困問題、公的扶助論、社会保障論などを研究され、国立社会保障・人口問題研究所に勤めておられる阿部彩さんという研究者が書かれた著作に「弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂」という本があります。この本によりますと、2011年1月18日、当時の首相、官直人総理大臣直属の組織として、「1人ひとりを包摂する社会」特命チームが設置され、その結成に当たって、官首相は、所信表明にて、「誰一人として、排除されることのない社会、すなわち、『一人ひとりを包摂する社会』の実現を目指します」と述べられたそうです。この文言から、この特命チームの名前の由来が来ているのでありますが、筆者の阿部さんも、貧困、社会的排除の研究者として、この特命チームに携わっているそうです。一人ひとりを包摂する社会、すなわち、この本の題にもあります社会的包摂、英語で「ソーシャル・インクルージョン」とは、従来の貧困の考え方をより革新した「社会的排除、英語でソーシャル・エクスクルージョン」に相対する概念で、平たく言えば「社会につつみこむこと」であると解説され、また貧困が、生活水準を保つための資源の欠如(お金や物など)を表すのに対し、社会的排除とは、社会における人の「位置」や、人と人との「関係」、人と社会との「関係」に関するものであると説きます。社会的排除、社会から追い出されるということは、制度や仕組みのことを指し、人間関係であり、物理的な場所であると言います。また、貧困問題における資源の不足ということだけを問題視するのではなく、社会の一員としての存在価値を奪われる、社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に追いやられるという人と社会の関係を表した概念であるとも言うのです。

筆者は、この社会的排除、社会的包摂ということを本当に肌で感じたのは、ホームレスの方々を支援する御自身のボランティア体験を通して、彼らとの関わり合いの中の出来事を通してであると言います。ホームレスの方々が身を持って筆者に語ってくれたのは、「つながり」、「役割」、「居場所」というものが、いかに人間の尊厳を保つうえで、不可欠なものであるかということ。人間の生にとって、これらのことがいかに大切か、基盤的な存在であるかということを、彼らのエピソードを通して、語っておられます。

「人とのつながり」、「自分の役割」、「自分の居場所」、私たちはどこにその価値を見出すのでしょうか。つながりがない、役割がない、居場所がない、自分は必要だとは思われないという孤立感。そう、孤独の問題もあります。貧困、格差、社会的排除の問題。目に見える金銭的、物質的、精神的な問題ということだけでなく、その只中で苦しむ価値観の喪失、孤独感を抱えて生きていく私たちの人生があります。一人ひとりを包摂する社会、誰しもが望んでいる社会ですが、それは困難な問題です。だからと言って、キリスト者や教会がこの問題に無関心になれということではありませんが、人の視点では限界があるということを知る必要があります。人の視点ではなかなかそういった自分の価値観を見いだせないものであります。

本日与えられました福音は、ルカ福音書15章1-10節です。大変有名な譬え話が記されています。主イエスがこの譬えを話されたきっかけは、1-3節に記されているファリサイ派の人々と律法学者たちの不平から出たものでありました。徴税人や罪人を迎え、食事まで一緒にしている主イエスに不平、不満を言い出したのです。不平という名詞は、元の言葉にはないのですが、口語訳聖書では、「つぶやいて」となっています。彼らが主イエスの行為をつぶやいていた、苦々しく思っていたということです。ファリサイの人々や律法学者たちは、神様の律法を熱心に守り、敬虔深い信仰生活を送っていた人たちです。彼らは律法を教える者であり、聖書を教える立場にあります。私生活においても、自分たちが人々の模範となるように、真面目に過ごしていた人たちです。彼らから見て、徴税人や罪人は神様から遠く離れた存在、救いに値しない存在と見ていました。徴税人は当時のイスラエルを支配していたローマ帝国に仕える下級役人で、同胞のユダヤ人から税金を取り立てていた人たちです。同胞のユダヤ人たちは、彼らの仕事を卑しいものとして、彼らを軽蔑していました。徴税人は、それこそ生活に困るほどの貧者ではなかったかと思いますが、彼らは同胞の中で、孤立していたのです。罪人は律法に反して生きている人たちの総称です。彼らも同胞から軽蔑の対象にあった人たちです。

ファリサイ派と律法学者の人々は主イエスを人目置いた存在として、それなりに敬意を払った人であります。しかし、主イエスは自分たちではなく、徴税人や罪人と共にいるのです。それが許せなかった、ぶつぶつとつぶやいて不平を言った。なぜ、自分たちではなく、あの連中と共にいるのかと。この彼らの不平の一言から、徴税人や罪人に対する社会的排除の眼差しが向けられています。彼らは根本的に徴税人や罪人と関わりをもたない。彼らとのつながりを拒否するのです。つぶやいたという言葉から、彼らが赤裸々に、そのことを主イエスに直接訴えたと言うことではなさそうですが、彼らの「つぶやき」から顕される彼らの心情は主イエスへの非難の眼差し、徴税人や罪人への軽蔑な眼差しが向けられていたのです。

主イエスはファリサイ派と律法学者の人々にたとえを話されました。ある羊飼いとは言わず、敢えて、「あなたがたの中に100匹の羊を飼っている人が」とこのように語り始めるのです。羊飼いは見失った一匹の羊を必死に探し求めます。この1匹のために、時間、労力、さらには命の危機に至るまで、全てをかけて探し求めます。銀貨を無くした夫人も、必死にその一枚を探します。羊の1匹や2匹ぐらい、銀貨の1枚や2枚ぐらい、失っても、無くしてもしょうがないと妥協はしないのです。諦めきれないからです。99匹を残してまで、この1匹を探す。9つの銀貨を無くしてしまうというリスクを顧みずに、暗闇の中で、銀貨を探す。それは、飼い主、持ち主にしかわからない価値、大切なもの、尊い物、無くてはならないものだからです。
羊を探し出す飼い主の姿を、エゼキエル書はこう語ります。エゼキエル書34章11-12節です。

まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。(エゼキエル34:11-12)

16節では、

わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする(エゼキエル34:16)

とあります。

神様が真の羊飼いとなって、彼ら、すなわちイスラエルであり、私たち人間を探し出し、私たちの世話をされる。一人でも失われた者、追われた者、傷ついた者を見捨てはしない。優しく包み込み、弱った者を強くすると、こう記しています。外れた者を神様は包み込む、包摂される。神様がその人を包摂されるのです。

見失った羊を見つけ、羊飼いはその羊を担いで、家に帰ります。元の群れの中に戻すのです。見失った1匹、無くした1枚の銀貨、もちろんこれらは動物であり、物であります。しかし、99匹、または9枚の銀貨から離れて、初めて1匹、1枚という姿が浮き彫りにされます。明らかに、量的に見て、その価値観は一目瞭然です。しかし、主イエスが言われるのは、本質的なことであります。この1匹と99匹、1枚と9枚は同じ価値を持っていると言うこと、この1匹、1枚にかける思いと他の99匹と9枚の銀貨への思いは同じであるということです。ですから、1匹でも欠けたら、1枚でも欠けたら、残りの99匹と9枚の銀貨を失うのと同じことなのです。されど、主イエスはここで、ただ単純に平等の概念を私たちに伝えているのではありません。6節と9節で、それぞれ失ったもの、無くした物が戻ってきたことに対して、一緒に喜んでくださいと、周りの人に呼びかけます。神様の喜び、大きな喜び、その喜びの場に、招かれている。一緒に喜びましょうと、喜びを分かち合おうと言われます。

失った物が見出された喜び。悔い改め、神様の御許に立ち返った物の喜びは、天に通じる喜びです。計り知れない喜びであると主イエスは言われます。そして、この喜びが示すことは、率直に言って、あなたは尊い、あなたは大切だというメッセージです。神様とつながる、神様に用いられる役割、神様が指し示す居場所、そう、それこそ、キリストと共にあるということに他なりません。あなたは大切、必要な存在。必要とされている1人の人間。他の多くの人と同じ価値をもつ人であるということ。あなたを見失って、痛まずに、悲しまずに、叫ばずにおられようか。わたしはどこまでもあなたを探すという主の御心を主イエスは語られました。主は1人1人を訪ねて、包摂なさる方です。

神様によって包摂されたあなたを主は喜ばれます。大いに喜ばれます。一緒に喜ぼうと招かれた兄弟姉妹の方々が共に喜ばれます。私もあなたも、あの人も、神様に見出された大切な存在。私やあなた、あの人を見出されたキリストの喜びを自分の喜びとして、生きていく。社会的価値とは異質な価値、人生の価値を抱くことができます。それは神様によって見出された価値です。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。パウロは言いました。人生に喜びがあり、涙があるように、教会の歴史にも涙があり、喜びがあります。いろいろなことがありました。これから先もきっとそう、いろいろなことがあります。その出来事ひとつひとつに主は携われるということです。涙も喜びも、私たちの予想を超えて、主から与えられるものです。この喜び、涙の中に共に生きていく、主によって与えられた新しい価値観の中で、主がひとりひとりを養われる真の羊飼いとして、私たちと共に喜び涙してくださるというこの恵みを、皆で分かち合おうではありませんか。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。