ルカによる福音書16章1〜13節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日私たちに与えられた福音は、不正な管理人のたとえ話です。かなり難解なお話しです。この不正な管理人の行為には好意、共感が持てないし、主イエスの言葉も難しい。また、この物語を1つの物語として、理解しようとするから、難しくなるという注解者の解説があります。確かにたくさんの細かいテーマが盛り込まれていますが、一貫して富について語っておられることは一目瞭然であります。
聖書の中に出てくる富について、皆さんはどういう印象を持たれているでしょうか。旧約、新約共に多くの箇所で出てまいりますが、私は新約聖書の中で、主イエスが語られた言葉、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というこの主イエスの言葉が強烈な印象として残っています。富があるから救われないとストレートに受け止めてしまいそうな言葉ですが、聖書は冨に対して、本当にそういう意図を私たちに伝えているのでしょうか。今日のたとえ話からも富について学べることがたくさんあります。ご一緒に御言葉に聞いてまいりたいと思います。
まず、今日のたとえ話は主に弟子たちに語られたものです。「弟子たちにも」と1節に記されていますから、15章のたとえ話からの続きとなっています。弟子たち、それは主イエスを信じ、主イエスに従うものたちです。キリスト者であり、教会であります。
金持ちに仕える一人の管理人がいましたが、彼は主人の財産を無駄遣いしていると、ある人から告げ口をされ、主人から解雇の宣告をされてしまいます。財産を無駄遣いする、すなわち浪費する、だめにしてしまっているということです。財産管理、経理の仕方に問題があった。または、財産を横領していたのかも知れません。何にせよ、主人からお咎めがありました。彼は途方にくれますが、正式に解雇されるまでの残された期間で、彼はひらめくのです。自分の才覚を尚生かそうとするのです。4節で『管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』とアイデアを出します。そして、彼は同じ主人に借りのあるものたちを呼んで、管理人の立場から、彼らの負担を減らしてあげました。6節と7節に具体的な事務手続きが成されていますが、ここに出てくるバトスとかコロスは、お金に換算したら、相当な額になります。相当な額の負担を減らしてあげた、それが管理人として彼だけが成せた業であります。彼は自分の将来のために、堂々と不正行為を働きました。それだけの才覚を瞬時に発揮できたのですから、横領することも可能であったでしょうが、それよりも彼は人を必要とした、自分を家に招いてくれる友を必要としたのです。自分のためとはいえ、主人に借りのあった人たちの負担を大幅に減らしたことは、彼らの人生にも大きな影響を与えたことでしょう。彼の才覚、そのやり方がそのことを招いたのです。
当然面目を失うのは、財産を勝手にむしり取られた金持ちの主人です。解雇だけでは済まされない事態となりました。しかし、物語はここでも急展開を迎えます。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」のです。抜け目がないという元の言葉の意味は、「賢い」、とか「思慮深い」という意味があります。小説やドラマの類なら、読者、視聴者をぐっと引き込む展開ですが、あまりにも現実離れしているように思えます。とは言え、この8節をよく見ますと、ここで初めて「不正な」と言う言葉が出てくるのです。主人はこの管理人の才覚、そのやり方を大いに賞賛しましたが、彼の行為自体を賞賛しているわけではないのです。これは不正を働いた、それも自分のために働いた不正です。不正というのは不義という意味もあります。正しい、義という言葉に、打消し、否定を意味する「不」という言葉が付いて、反対の意味になります。つまり、このたとえ話は、この管理人の不正行為を私たちに勧めているのではなくて、彼の抜け目のないやり方、その才覚に焦点を当てているのです。ですから、この管理人はそれ相応の処分を受けたことでしょう。そもそも、この管理人が解雇されることになった原因は、彼が財産を無駄にしていた、だめにしていたからです。そこでは彼の才覚が伴わなかった、本来の管理者としての役割を果たしてはいなかったのです。主人はそこを評価したのでした。不正な行為ではあったが、彼の才覚が他者の生活に大きな変化を遂げさせた。だめにしていた財産を、自分の将来のためとはいえ、他人のために用いたのです。自分のための不正行為自体には、主人も眉をひそめたかもしれませんが、彼の才覚を肯定した、大いに肯定した。良しとされたのです。主人の財産を管理するという務め、それは主人の財産が無くならないように、周知徹底して、管理する。頑なまでに、その損失をこうむらないように、目を光らせておくということのように思えます。されど、そうではなく、この主人の財産を真の冨として、富が富としての機能を果たすことができるように、管理する。富は用いられるためにある、人の生活、命を支えるものであるということです。その本来の役割が損なわれていた、無駄になっていた、だめにしていた事実がありました。そこに思わぬ横やりが入ったのです。告げ口という横やりです。この人も主人に借りがあったのかも知れません。管理人の悪事を暴くために主人に訴えたのか、それとも一種のストライキだったのかも知れません。財産は管理し続けて来られたが、この告げ口をした人の思いは管理できなかった。主人の財産を管理するということは、彼らの借金をも管理するということは、彼らの生活、命をも管理するということです。
さて、このたとえ話は、抜け目のないやり方、その才覚をこの管理人から学ぶという意図がありますが、私たちにずる賢さを推奨しているわけではありません。富を富として用いる、富を与えられたものとして、他者と分かち合うことを勧めています。しかし、主イエスの言葉に困惑してしまいます。9節で、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。」と言われます。不正にまみれた冨という表現です。あまりいい印象を持ちません。なぜこんな表現をされるのかと頭を痛めます。ある人は、この不正な富と言う言葉があるなら、正しい冨とは何かという疑問を投げつけました。富はそれ自体、正しくも不正でもない、物です。それを正しい冨、不正な富と判断するのは、この世のものさし、私たち人間のものさしです。富自体にそのような付加価値をつけるのです。私たちは無意識の内に、そのような判断をくだします。そして、どんな富であろうと、私たち人間は冨の誘惑から逃れることはできません。人間が富を使うのではなく、富が人間を使うという恐ろしい逆転劇をどれほど垣間見てきたことでしょうか。私たち人間が富を完全にコントロールすることはできません。それは私たちに弱さがるからです、もろさがあります。ですから、人間の手に渡った時点で、そこには絶対の正しい富と言うものはない、いつ不正に扱うかわからない、不正にまみれた、この世の冨であります。その冨で、主イエスは友を作れと言われた、分かち合えと言われた。そして、11節で、「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」と言われます。冨に忠実になるということは、富を放棄しろということではないことは明らかです。そして同時に、本当に価値あるものを任されている私たちです。ペトロの手紙Ⅰ4章10節にこういう言葉があります。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」恵みの善い管理者といいます。私たちに与えられた富を、それこそ管理人のように、賢く、思慮深く扱うことできずして、恵みの管理者となりえようか。与えられた恵みを無駄にしてしまう、恵みを恵みとして受け取れない教会、キリスト者たちは、不正にまみれた冨に不忠実であります。
7月の教会だよりの中の、議長だよりで、粂井議長は「教団の財政」についてコメントしています。その内容によりますと、私たちの教団の全収入の内、95パーセントが収益事業における収入であるということです。文字どおり、収益事業に頼らなければ、教会の礼拝、教会活動はもちろん、日本ルーテル教団自体の存続すら危ういということが明白です。この収益事業、またはその収入について私たちはどう考えるでしょうか。粂井議長によりますと、「収益事業の本来の狙いは、宣教の推進を図るための特別資金を生み出すことであったはずですが、今や、年間の運営経費を賄うことが当たり前になってしまっています。」との見解を述べられました。収益事業なくして、教団、教会はないというのは決して良い傾向ではありませんが、私はここに教会の真実が語られているように思えます。私たちはどこか、教会の献金と収益事業の収入を別物として考えてはいないでしょうか。収益事業に頼らないということはもちろん大切なことでありますが、しかし、この収益事業の収入も、教会の献金も、共に神様から与えられた物、賜物ではないでしょうか。必要に応じて私たちに与えて下さる糧ではないでしょうか。そこに線引きをするのは私たちの弱さであり、もろさであると思います。伝道にならないことはしない、お金儲けのために、そんなことをするのかといった目先の冨、利益だけに心奪われてしまう富への貧しさ、不忠実さを露呈してしまう私たちの姿がどこかにあるように思えます。
収益事業を通してでも、私たちの教会、教団がこの地に立っているのは、神様が私たちの教会、教団を必要としておられる、必要としておられる限り、私たちは忠実にその賜物を活かして、伝道するというミッションを授かっているからに他なりません。言うまでもなく、伝道は神様の御業であります。その神様から授かった賜物を用いる他に、私たちに伝道の手段はないのです。そのためにも、この賜物を恵みとして、受け取る。豊かに用いるために、管理者とされているのが教会であり、キリスト者であります。
粂井議長はこう締めくくります。「教会本来の在り方は、厳しく苦しい中でも、自分たちの教会は教団全体のために何ができるかと、考えることではないかと、私は考えます。・・・・・神様への応答として、自分のできることは何かと、考える姿勢であるかどうかが問われているのだと思います。私たちの教団や、各個教会が真の自立した教会へと向かう第1歩は、厳しい現実の中にありながらも、自分の手で自立しようと、前に向かって歩み出すことから始まるのだと考えます。」自立、真の自立という言葉がありました。でもそれは、決して収益事業の収入を否定するものではありません。収益事業の収入が、運営経費を賄っているという土台の下に、それが大切に用いられている現実を私たちは把握し、神様が与えて下さる本当の価値ある物、真実の救いを宣べ伝えて行く群れとして、私たちの教会が建てられている、用いられている。そしてあなたも必要とされ、用いられているという喜びを知っていただきたいのです。教団の財政も去ることながら、強勢も厳しい。ないものねだりをしたくなる私たちの思いがある、されど、私たちは恵みの管理者として、今を生きるキリスト者、教会であります。この恵みを思慮深く、賢く用いるために、不正な富に忠実となる。神様から与えられた冨、それを必ずしも正しく扱えない私たちの罪故に、不正な富として、私たちの手元にあります。しかし、神様はそれでも私たちへの信頼をゆるぎないものとしてくださります。信頼しているからこそ、与えて下さる。だから、この冨に忠実になるということは、この冨を与えて下さる方に、忠実になるということであります。忠実さ、誠実さとも言えるでしょう。冨に対する執着、貧しさ、偏見な思いから解放されて、誠に富と向き合える、富を用いる、分かち合う伝道活動を成していきたいと願っております。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。