2013年9月29日 聖霊降臨後第19主日 「神に望みをおいて」

ルカによる福音書16章19〜31節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

一昨日の27日、この六本木ルーテル教会で、下舘正雄先生の送葬式、納骨の祈りが執り行われました。多くの参列者にお越しいただき、真に厳かな式でありました。当初、このご葬儀の案内は、「告別式」という形で通知が成されていたのですが、別れを告げる式ではないという分区の先生方のお声があり、下舘先生を主イエスの御許に送るということ、救いの旅路を行かれる「送葬式」として守るのが適切であるということになりまして、送葬式という形で執り行われました。下舘先生が主イエスの御許に行かれる、それはもちろん先生がこの地上でのご生涯を閉じられた時点で、既に先生は主イエスの御許におられるということを信じているのでありますが、そのことはまた、送葬式などのご葬儀を通して、参列した全ての人々に、神様が御心を示しておられるということであります。すなわち、参列した私たちもまた、下舘先生の主イエスの御許に行かれる救いの旅路を通して、神様からの慰めが与えられているということ、悲しみに打ちひしがれる私たちの只中に主イエスが共におられ、共に涙を流して、私たちに寄り添ってくださるということを、受け止める礼拝、それが送葬式であり、ご葬儀であります。

その一昨日の送葬式で、ラザロの復活の場面(ヨハネ福音書11章38~44節)が福音として与えられました。驚きと同時に、希望が与えられている、神様の人間に向けられた大いなる救いが語られている御言葉です。死後の世界に約束された救いがある、主イエスの復活の命に与る希望ということでありますが、今日与えられた福音も死後の世界が描かれています。金持ちとラザロのお話です。ここでもラザロが出てきました。

死後の世界が描かれています。ラザロはアブラハムのすぐそばの宴席に招かれ、金持ちは陰府に行きました(22-23節)。ラザロは天国、金持ちは地獄という領域に分けて理解される方が多いでしょう。どの時代、どの国、どの宗教でも、このような死後の世界について、一定の理解を求めますが、はっきりしたことはわかりません。生者には分かりようがないのかもしれませんが、主イエスはこの福音の御言葉を通して、天国と地獄といった死後の世界について私たちに語っているわけではありません。また、生前の行いにおいて、死後の世界はこうなっているぞと私たちに語っているわけではないのです。

金持ちは毎日贅沢の限りをつくして、遊びほうけていました。紫の衣や柔らかい麻布を着ていたというのは、毎日がお祝いの状態にあったのかと思います。毎日がお祝い状態、満たされていた日々を送っていました。この金持ちの家の門前にラザロが横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で飢えをしのいでいました。彼は貧しく、できものだらけの人であり、不浄とされていた犬にそのできものをなめられるという過酷な生活を送っていたのです。しかし、死後の世界で2人の立場は逆転します。金持ちは陰府でさいなまれていた、つまり苦しんでいました。生前のような贅沢な暮らしはもうできない、その富を死後の世界に持っていくことはできず、頼りにしていたものが全て失われて、喪失状態にあります。ところが、23節を見ますと、この死後の世界、2人の境遇は違えど、金持ちはアブラハムと共にいるラザロの姿を見ることができるのです。遥か彼方に、彼らの姿を見ることができたのです。アブラハムはユダヤ人の父祖とも呼ばれる、神の民の祖先を表します。アブラハムは神様から祝福され、土地を与えられ、財産を与えられ、年をとり、もうあきらめかけていた時に、子供が与えられ、さらにその子ども、それはイサクのことですが、そのイサクをいけにえに捧げよという神様の声にも従った神の民の創始者、信仰の模範者でした。この金持ちもユダヤ人だったのでしょう、偉大な祖先であるアブラハムに出会えた。しかし、彼は喜んではいられない、必死にアブラハムに懇願するのです。この苦しみから逃れさせてくださいと。しかし、アブラハムの答えは、彼に甘くありません。金持ちとラザロの生前の境遇を語り、2人の間には大きな淵があって、行き来はできないと言われます。27節で彼はまた懇願します。自分の兄弟に、こんな境遇をさせたくないから、よく言い聞かせてくれと。対して、アブラハムはモーセと預言者の言葉に耳を傾けろと言われる。モーセは神の律法、神の言葉を表します。神様の律法と、預言者を通して語られる神様の言葉に聞きなさいと言われます。尚も、金持ちは懇願します。死んだ者が生き返って、兄弟のところに行けば、彼らは悔い改めて、神様の下に帰ってくるでしょうと。アブラハムは言います。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」神様の律法、神様の言葉を聞かないものが、どうして生き返った者の話など、信じられるかと言われます。確かにその通りでしょう。そして、ここでたとえ話が終わるのです。この金持ちはどうなってしまったのでしょうか、主イエスのたとえ話らしい、何か結論がわからない終わり方です。

金持ちの人物像を見て見ますと、彼はそこまで傲慢で、自分勝手な人間ではなかったかと思います。門前にいるラザロを受け入れ、食卓からこぼれ落ちる食べ物を与えていた。また、死後の世界で、兄弟たちのことを思いやっています。彼は別に悪人ではありません、むしろ他人を思いやる人物であったかと思うのです。そんな彼がなぜ陰府の世界に行ってしまったのか、それは具体的にはわかりませんが、彼はそこでさいなまれていた、苦しんでいたのです。今までの満たされた生活を奪われた苦しみ、贅沢に遊ぶ生活に慣れてしまっていた彼は、その損失を受け入れることができないのです。アブラハムとのやりとりから分かるように、彼は生前よいものをもらっていたが、神様の律法、神様の言葉を真剣に聞いてはいなかった、受け止めてはいなかったのでしょう。それらを聞くよりも、死者が生き返ったことを示したほうが兄弟も理解できると考えたわけです。

彼は生前によいものをもらっていました。このよいものが彼の生活を支えていたわけです。そのよいもの、有り余る物の中から、ラザロに施しをしていた。自分は贅沢に暮らしていた。このよいものを、自分の功績、労力に見合った報酬として、自分の財産としていたでしょう。思い通りにできたのです。ラザロに施しをする良い人、立派な人物に見えるこの人でも、自分の命は思い通りにできない、よいものを失った象徴が、陰府に行ったということに示されています。彼はラザロに不当な仕打ちをしていたから、陰府に行ったのではないのです。

さて、ラザロは、アブラハムに言わせれば、生前に悪いものをもらっていました。おそらくそれは、できものだらけの貧しさ、そのできものを犬がなめるということを指しているのでしょう。彼は食卓から落ちる物で腹をやっと満たしていたのです。金持ちとは境遇が全然違うのです。目に見えるものでは、何も頼りにするものがない、自分の思い通りになるものがないのです。彼は物乞い、乞食でした。しかし、多くの聖書学者、説教者はこう問うのです。なぜ、この貧しい人には「ラザロ」という名前があって、金持ちにはないのか。どちらにも名前があって、どちらにもないというわけではない、どちらか一方、しかも貧しい人の方に名前があるのです。私も、皆さんもきっと疑問に思ったかも知れません。このラザロという名前、冒頭にも言いましたが、他の福音書にも出てくる名前です。そして、このラザロという名前は「神が助ける」という意味があります。神が助ける、神ぞのみを頼りとする、その恵みのみに望みをかける、そういう思いが込められた名前の人物です。ラザロは金持ちの家から落ちた物で腹を満たしていた。金持ちから施しを受けていた、その通りでありますが、この金持ちはよいものをもらっていたもので、施しをしていた。施しができたのです。このよいものは、金持ちの死と共に、金持ちのものではなくなりました。自分の思いどおりにはできなかった、恵みであったわけです。神様からの賜物です。ラザロはただこの恵みを頼りとしていたのです。この恵みをもたらす方にぞのみ望みを置いていた人生でありました。

ルターは、自身が亡くなる二日前に、このような言葉を残しています。「わたしたちは神の乞食である。それはほんとうだ。」自分は乞食に過ぎないとルターは言います。それを晩年に言ったということに、彼の全生涯の思いがここに示されているように思えます。神の乞食、それは神様からすべてのものをいただくことによってのみ、私は生き続けることができるというルターの信仰、神様からの恵みを願い求め、祈り求める信仰者としてのルターの生涯を表している言葉でありましょう。恵みのみ、その恵みをもたらす神の言葉、キリストのみを信じて歩んだルターの全生涯の結びの言葉として、今の私たちに語られているように思えます。

しかし、私たちはラザロのように、そしてルターの信仰のように、神様の恵みのみに望みを置いて、歩んでいるのでしょうか。そこに立ち続けることができるのでしょうか。全てをなげうって、神様に自分を委ね続けることができるのでしょうか。むしろ、私たちは、この金持ちのように、施しをする、他人を思いやるという善意を抱きつつも、自分に与えられているものを当然のものだと認識してしまってはいないでしょうか。当然持っているものとして、不足はすぐに補えるという感覚に陥ってはいないでしょうか。この豊かさ、贅沢に縛られている姿がどこかにある、自分でも気づいていないところで。そうすると、私たちは神様からの恵みを恵みとして受け取れなくなる、神様への感謝を忘れてしまうのです。神様の言葉を聞いているようで、聞いていない。与えられたものを、全て自分のものとして、それに頼り続けます。しかし、命は思い通りにならない、頼りにしていたものを失ってしまうあの金持ちと同じように、私たちもまた、陰府で、さいなまれなくてならないのでしょうか。そして、アブラハムの厳しい言葉を聞いて、それを受け入れなくてはならないのでしょうか。

決してそうではありません。アブラハムはモーセと預言者を私たちに示しています。アブラハムは神様の祝福、約束、モーセは神様の律法、預言者は神様の言葉、私たちはそれらを全て受け入れることができないのです。それらを受け入れることができるほどに、神様の恵みには委ねられない姿がどこかにあるのではないでしょうか。そんな罪認識を背負ってはいないでしょうか。だからこそ、私たちは救い主を迎え入れるのです。主イエスキリストのご降誕、なぜ主はこの世に来られたか、それはこの救い主イエスこそが神様の律法の完成者だからです。私たち人間には完全に遵守できない律法、神様の恵みを恵みとして受け止められない私たちのために、主イエスは救い主として、律法の完成者としてきてくださった。そして、それはあの十字架において顕わにされました。私たちの罪の贖いを通して、神の恵み、神の愛を、御自らの十字架の御姿を通して、私たちに示されたのです。使徒信条で信仰告白するように、キリストは陰府の国にまで降りられた。さいなむ私たちのところにも来て下さった、共にいてくださる方です。そして三日目に復活された。陰府の国から高くあげられた、復活の命に与った方です。私たちはこのキリスト、復活のキリストによって、このように礼拝に招かれ、神様の言葉を聞くのです。キリストの恵みはそこで語られ、示されているのです。

神様は与える方、私たちの命をも与える方です。私たちは金持ちの人かも知れません。全て満たされているように思えて、死んで失い、喪失してしまう姿がある。豊かさに縛られ、真の貧しさを恐れるが故に、貧しさを忘れる私たちの姿があります。死後の世界にその報いを受けなくてはならないという恐れがある。しかし、その恐れから解放してくださる方が、私たちの間に宿ったのです。陰府にまで降られたのです。私たちは陰府で、飢え苦しむのではなく、キリストの招きによって、キリストの御恵みに包括されるのです。その旅路を行くのが、死後の世界、復活の命という希望へと続く救いの旅路なのです。大丈夫だ、あなたの不足は私が補う、あなたは私の乞食だ、だからこそ私はあなたに与える、あなたを飢えさせることができようかと、キリストはそのようにして私たちに寄り添って下さる方です。そのように信じられる時、私たちはラザロになるのです。あなたはラザロ、神があなたを助けます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。