ルカによる福音書17章1〜10節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
私は大学生の4年間、母教会である池上ルーテル教会に通っていたのですが、ある日曜日に、私より少し年配の他のルーテル教会の信徒の方が来られ、礼拝の後で、一緒にお茶を飲みながら話をしていました。その時、その人はこういうお話をしました。「私は自分が行っている教会で、何かイベントや行事があるごとに、お茶やお菓子を出す手伝いをします。しかし、バタバタしている雰囲気のせいか、何かとこき使われているような感じがします。また、ある人には、あれやりなさい、これやりなさいといろいろと指図され、もううんざりですよ。」その人のお話は、たまたま教会での出来事でした。教会もまた人の集まるところですから、そういう問題もたくさんあるんだなと、当時の私は「大変ですね」とひと言だけ言いつつも、あたかも他人事のような思いを抱いていた自分の姿に恥じるばかりです。
そのお方のお話を今、改めて思い起こしつつ、今日の御言葉に耳を傾けますと、これは決して些細なことではなく、まして他人事ではない、自分にも当てはまることであります。人をあごで使ってしまう自分の姿、または自分も人から使われているということから始まり、気付けば人を裁き、人から裁かれるという出来事が起きています。今日の御言葉は、「教会」という場所そのものを直接描いるわけではありませんが、このお話は当時のルカの共同体、教会を背景にして、記されたものであることは間違いないでしょう。しかし、これは教会うんぬんがどうあるべきだということではなく、自分と神様、自分と他者、自分と教会との関係を問われていることであります。その中で、自分は奉仕しているのか、それともただ単に働かされているのかという認識では、当然大きな違いがありますが、それが喜びである、苦痛であると、常にどちらか一方の思いには留まれないものであります。
今日の福音の箇所にはテーマが複数あるように思えますが、主イエスはこれらのお話を全て弟子たちにされました。1節で、主イエスはいきなりこう言うのです。「つまずきは避けられない」と。「つまずき」と聞けば、世の中の「スキャンダル」を思い越しますが、口語訳聖書、並びに他の個人訳聖書では、つまずきではなく、「罪の誘惑」とはっきりと記されているように、世の中のスキャンダルということを直接指しているわけではありません。罪の誘惑は避けられない、強いて言えば、罪を犯してしまう必然性があるという前提で、主イエスは弟子たちに語っておられる、罪の現実を共に生きる信仰の兄弟姉妹である私たちに語られています。そんな私たちの群れに、弟子たちに主イエスは言われるのです。兄弟姉妹を罪に誘惑せず、罪を犯したら、その罪を戒め、赦しなさいと。さらに、自分に対して、1日7回も罪を犯す人がいても、7回悔い改めるなら、赦しなさいとまで言われます。1日7回です。とんでもない数ですが、聖書で言う「7」という数字は、「12」と並んで、完全数を表しますから、完全に赦しなさいということを主イエスは強調しているのです。
人を赦す、これは大変なことです。表面的なことではありませんし、気分的なことでもない、そういう次元で主イエスは語っておられません。完全に赦せとは、それこそ、「敵を赦し、敵を愛しなさい」というそれだけの重みと深さをもって、主イエスは語っておられるようなものです。もちろんその前提として、戒めなさいと言われる。戒めて、その人に罪の自覚をもたせなさいと言われます。それだけの権能を、弟子たちに、後の教会にお授けになっている。託しているのです。罪を赦す権能という重大な使命を担っているのです。だから、5節で弟子たち、いや使徒たちはこう言うのです。「信仰を増し加えてください」と。福音書記者がここで敢えて「使徒たち」という言葉に変えたのも、教会として、教会の使命を担う使徒たち、それは「遣わされた者」という意味の言葉であり、使徒言行録の使徒を指し示す言葉、すなわち聖霊によって建てられる教会そのものを強調しているからです。遣わされた者、主の霊によって建てられ、主から与えられた使命に生きる群れであるということを、ルカの共同体は当時の人々に、そして現代の私たちに伝えようとしています。
信仰を増し加え下さい、すなわち力ある信仰をお与えください、そう使徒たちは懇願します。それはこういうことでしょう。自分たちは信仰者として模範とならなくてはならない、正しくあろうと思うことです。自分たちは罪を犯さず、むしろ罪にまみえる隣人を助けなくてはいけない、自分たちが背負わなくてはならない問題として立とうとしている、神様の前に正しくあろうとする、その思いです。それは私たち人間の生き方、正しい人間、道徳的になろうとする姿、模範者としての人間像を追い求める姿に似ています。失敗やミスが許されない世の中の傾向に私たちは戸惑いを覚えつつも、その流れには逆らえず、それに従わなくてはいけない現実を私たちは生きています。そして、自分たちが十分な力、知識を持ってして、初めて他人に教えることができる、他人を救うことができる、助けることができる、そういう思いをどこかで抱いています。
使徒たちの懇願に対して、主イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・・」(6節)と答えました。使徒たちの懇願を一蹴するのです。増し加えるどころか、あなたがたにはからし種の信仰すらないと言われました。からし種は1mmの大きさしかない「最も小さい」という意味合いをもつ種ですが、成長すると3~4mという巨木になります。この成長の在り様を、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)ということに譬えています。主イエスはここで使徒たちに、あなたがたにはからし種の信仰すらないとも言っています。これは言い換えれば、あなたたちは正しくない、信仰がないということは、あなたがたもまた、罪にまみえる罪人であると、主イエスは使徒たちに語っているということです。使徒たち、すなわち教会は決して正しい人たちの集りではないということ、それこそお茶出しを指図されて、イライラしたり、自分もまた他者をこき使ってしまったりと、そういうものたちの群れ、そのままの人間存在を露呈している集団であると主イエスは言うのです。ペトロやヨハネの弟子たち、使徒たちは確かに選ばれた者たち、特別なものたちです。彼らにしかできない使命が与えられたのです。しかし、それは彼らが模範的な信仰者であったからではない、むしろ人々と同じ立ち位置にあった、いやそれどころか徴税人のマタイのように、救いには程遠いと思われていた者にこそ主は目を留められ、彼らを選び招いたのです。
「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」、からし種の信仰すら持っていない私たち、でも主イエスはからし種の信仰で十分だ、からし種の信仰さえあれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞いてしまうほどに信仰は成長するのだというニュアンスを持って言われるのです。「信仰を増し加えてください」、信仰という種を大きくしてくださいということではなく、その種の実りにこそ信仰の恵みが示されていると言われます。
だから、私たちは信仰の大きさ、小ささということをただ自分たちで理解しようとするのではなく、信仰の恵み、成長をもたらす方と私たちの関係について知るようにと、聖書は私たちを導くのです。
7節からのたとえ話。これは主人と僕、いわば奴隷のお話です。僕が主人の畑でせっせと働いて、作業を終えて、食卓にありつけると思いきや、僕は主人の食卓を整えなくてはならないのです。それは僕として当然のことだと言われます。僕は主人の所有物ですから、僕の働きには何の報酬もないのです。9節の言葉はそういうことです。主人から特別褒められることなどないのです。私たちが抱く、人権という概念はありません。奴隷制度そのものの実態です。現代の私たちには理解ができないどころか、奴隷として扱われる非人間性に腹を立てたくなるようなお話です。しかし、主イエスのこのたとえ話の意図は無論そういうことではありません。
10節で、主イエスは使徒たちに言います。あなたがたもこのような僕であると。命じられたことをする僕であると。さらに自分たちはこう言いなさいと言われる。「取るに足りない僕である」と。使徒たち、教会は取るに足りない僕、その群れであると言われます。それはからし種の信仰すら持っていないものたち、すなわち自分たちには何の所有物もないということ、裸であると言っているのです。そんな自分たちが、どこに罪を赦す権能などありえるのでしょうか。
聖書の奴隷制度の掟については、旧約聖書のレビ記25章に記されています。この規定では、僕に対する配慮も結構記されているのですが、25章の最後、55節にはこう記されています。「イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。イスラエル全体が神様の僕であると記されています。それは神様がエジプトの国から彼らイスラエルの民を導き出した者だからです。」出エジプトの出来事を言っていますが、これはイスラエルの民全体にとってとても大切なメッセージです。出エジプトが起こった原因は、彼らイスラエルの民が、エジプトで奴隷状態にあったからでした。彼らは神様に救いを求め、モーセを指導者に立てて、イスラエルの民を解放したのです。ですから、エジプトの国からわたしが導き出した者と言われる神様は、彼らにとっての救い主に他ならないのです。だから、わたしはあなたたちの神、主である。とイスラエルの民に言われる、あなたがたは私の僕だと言われるのです。ようするに、彼らが救われたということは、奴隷状態にあった彼らが、神様に買われたということであります。神様に見出され、神様の所有物になったのです。自分たちが神の民として、存在するのはこの出エジプトの出来事、神様の僕となり、その養いの中でこそ自分たちのアイデンティティーがあると、彼らは確信したのです。
しかし、旧約聖書は、罪の現実を描いています。罪の誘惑は避けられず、罪の奴隷状態にあったイスラエルの民、そして今、主イエスは弟子たちにも、私たちにも「罪の誘惑は避けられない」という厳しいことを言われます。だからこそ、神様は主イエスをこの遣われて、再び、イスラエルの民の主、救い主となるために、また彼らだけでなく全てのものの救い主となるために、主イエスをこの世に遣わされました。それはまた、出エジプトを想起させるだけでなく、彼らイスラエルの民を含め、罪の奴隷状態にある私たちが主イエスに買われるということです。主イエスは私たちを買われるために、自らの命を代価として、すなわち十字架を通して、私たちを買われたのであります。罪赦された僕、新しい人としての歩みを私たちに示されたのです。主は自らの命を値とした救い主であります。それはなぜか、人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来られたということ、またフィリピ書の2章にありますように、キリストこそが僕の身分となって、私たちの只中に救い主として宿ってくださったからであります。救い主イエスキリストと呼びかける私たちは、キリストの僕、キリストのものです。キリストのものとされ、その御許で、からし種の信仰すらない、取るに足りない僕であると同時に、キリストの養いの下で生かされる愛される僕であります。その真の僕となるということは、私たちがキリストに委ねるということ、信頼するということです。自分たち人間の功績、働きが評価されるのではなく、私たちは主によって用いられるものであるということです。それは罪の赦しもそうです。私たち人間の行いにおける赦しではなく、主イエスキリストの名によって、赦しを与えるという使命に教会は建てられているのです。
罪の誘惑からは避けられないかも知れません。からし種の信仰すら持てない私たちのために、主イエスは主となってくださった、十字架通して、私たちは罪の奴隷から贖われたのであります。教会はその救いの確信に立ち、真の主であるキリストを宣べ伝え、主イエスの名によって、罪の赦しを与える僕の群れであります。僕として御言葉に立ち続ける教会の姿の中に、信仰が芽生えます。賜物としての信仰です。この信仰によって私たちは生かされる主の僕となったのです。もはや正しさに縛られる必要はない、主があなたを買われたからです。誰にどんな指図をされようと、あなたを用いるのは、あなたの主人です。苦痛、苦労を伴うかも知れないけれど、主人は僕を絶対に見捨てません。パウロが申します通り、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)主であるキリストの愛から、あなたが離れることはないのです。あなたはキリストという真の主人から愛される僕なのですから。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。