2013年10月13日 聖霊降臨後第21主日 「神を賛美しながら」

ルカによる福音書17章11〜19節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「大声で神を賛美しながら」1人のサマリア人が主イエスのもとに戻ってきました。賛美歌を大声で歌いながら行進している、どんな情景か思い浮かべてみますと、とても気持ちよさそうです。傍から見たら、それは異様な光景、はたまた騒音公害になりかねない状況です。しかし、誰がこの人を制止できたでしょうか、ここに「賛美するということ」が真に力強く描かれている、いきいきと描かれているのです。彼は主イエスにひれ伏しました。このひれ伏すという言葉は、「礼拝する」という言葉です。そう、彼は大きな声で讃美歌を歌い、礼拝に招かれているのです。今の私たちと同じように・・・。

改めて思います。讃美とは何でしょうか。そして、私たちは常に神を賛美している者たちなのでしょうか。賛美は直接声を出して歌うということに留まりません。いろんな賛美の在り方があります。詩や文学による賛美、ダンス等体で表現する賛美、絵画等造形で表現する賛美、楽器の演奏による賛美など、私たちが知らない本当にたくさんの表現があります。そういった多様なあり方を見据えつつ、賛美とは何か、なぜ讃美するのかと考えますと、やはりその答えは聖書にあります。詩編102編にこういう言葉があります。「主を讃美するために民は創造された。」神様が私たちを造り、命を与えられたのは、神様を賛美するためだと、詩編の作者は言うのです。神様を賛美するために生きている、それは人間の意志ではなく、神様の創造の意志であるということ。目には見えなくとも、何か特別な表現がなくとも、私たちは賛美している者であるということ、私たち人間の存在そのものが神様を賛美する器であると言うのです。とはいえ、人間存在そのものが賛美する者と突然言われても、なかなか実感できるものではありませんし、どう捉えればよいのでしょうか。むしろ、真剣に捉える必要なんてあるのか、人間存在そのものが神様を賛美するものなら、実感も何も、そんなことを考える必要はない、いや考えようがないとさえ思ってしまいます。礼拝に来たら賛美歌を歌う、何か特別な賛美集会のときには思いっきり讃美する、それで良いではないかと思う。本当にそれだけで良いのでしょうか。賛美するとはそんなに限定的なのでしょうか。あのサマリア人のように「大声で賛美しながら行進している」姿を想像すると、このサマリア人を縛っているものは何もない、自由な者としての姿に見えるのは私だけでしょうか。ある牧師先生が「讃美する」ということについて、その先生が書かれた本にこう記されていました。

「さんびすること、それは神にあって人生を、世を、この私と他者を肯定するということです。「ああこれでよいのだ」と喜びをもって認めることに他なりません。喜ばしい肯定、これが賛美の根本にあります。生かされて生きる意味と重み、それをしっかりと受け止め、感謝をもって肯定し、言葉を調べに乗せて神に捧げていく、その時、純粋なさんびは溢れ出るのでしょう。」

私と他者の肯定、これでよいのだという人間存在の肯定を喜ぶということ。生かされて生きる意味と重みを受け止めていく。ようするに、賛美とは文化や芸術の領域におけるものではなくて、人間存在をかけたもの、自分と他者との交わり、生きることの肯定、神様の栄光を顕すという根深いことであると言えるのです。サマリア人は大声で神を賛美しながら、主イエスのもとを目指して歩んでいました。この歩み、もちろんその長さと時間は異なりますが、私たちの人生の歩みにたとえられます。神を賛美しながらの人生の歩み、そこに自分は立ち続けているのか、感謝することに立ち続けているのか、今日の御言葉は私たちにこう語りかけています。しかし、聖書はサマリア人を手本とするように私たちに示しているのではなく、私たち一人一人の存在に語りかけている、自分という存在について、賛美するために創られた自分は何ものなのかということを知るために、聖書は語るのです。

さて、主イエスはエルサレムへ向かう途上で、ガリラヤとサマリアの間にある、名もなきある村を訪ねました。ガリラヤは主イエスの出身地ナザレの町がある地方ですが、マタイ福音書4章に「異邦人のガリラヤ」という名称が記されているように、そこは神の民であるユダヤ人ではなく、異邦人たちの町、すなわち神様から離れていた人たちの町を指します。サマリアは、「善きサマリア人」のお話で有名なあのサマリアです。ダビデ、ソロモン王の時代には、サマリアもイスラエルの国に属し、多くのユダヤ人が住んでいましたが、その後国が分裂して、サマリアは外国に占領されます。その時、サマリアに多くの外国人が移住し、現地のユダヤ人との間に混血民族が誕生します。その人たちがサマリア人の祖先です。ユダヤ人たちは自分たちの兄弟とも言えるこのサマリア人を、自分たちの血筋を汚したとして、彼らを軽蔑していました。ユダヤ人はサマリア人を神様の救いに値しない人たちだと思いこみ、両民族は対立関係にあったのです。ですから、主イエスが訪れた村は、民族間の対立、そして宗教上の紛争が絶えない複雑な状況の中にあったということですが、神様から離れ、救いから遠ざけられていた人たちが住んでいたということを聖書は示しています。主イエスはその複雑な、人々の憎しみが蔓延している只中で、エルサレムへ、すなわち十字架への道を歩んでおられるのです。

この村に10人の重い皮膚病にかかった人たちがおり、主イエスが村に入ると、彼らが遠くから出迎えました。具体的な病名はわかりませんが、旧約聖書のレビ記13章には、この手の病気にかかった人に対する細かい規定、律法が記されています。そして13章45-46節にこう記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」いわば隔離されるということですが、それは病気の苦しみは肉体的だけでなく、社会から、共同体からの疎外という精神的な苦しみをも背負うのです。この村はその人たちが住んでいた村だったのかも知れません。ここにはお互い対立するあのユダヤ人とサマリア人が住んでいました。彼らは主イエスに言います。「わたしたちを憐れんでください」と。主イエスは彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われ、彼らはそこへ行く途中で清くされたというのです。主イエスは彼らに直接触れたわけでもなく、「清くなれ」といった何か癒しの言葉をかけたわけでもありませんでした。遠くからただ声をかけただけです。主イエスの言葉を信じて旅立った10人の人は、祭司に見せる前に清くされたとありますが、ここではまだ祭司に見せる前の段階ですから、彼らはまだ汚れた者として、人々の目には映っていたはずです。自分たちの気付いていないところで、癒しが起きている、10人全員がそのことに気付いたかどうかはわかりませんが、15節で、1人のサマリア人だけはそのことを知り、主イエスのもとに戻ってくるのです。しかも大声で神様を賛美しながら。

聖書はどこに主イエスの癒し行為を描いているのだろうかと思わされますが、ここでの癒し行為とは、祭司に見せる前に起こっていると聖書は記すのです。だから彼らはまだ「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわる人たちなのです。9人の人はそのまま祭司の下に行き、癒されたことを確実に知ることができたでしょう。しかし、少なくともこの1人のサマリア人はそういう癒しの宣言は受けていない、確証もありませんし、人々からの軽蔑の目は変わらないのです。されど、彼は感謝するために戻ってきた、癒されたことを知ったからです。祭司からの通知はわからない、事実はわからないまま。けれど彼は真実を見つめているのです。主イエスの癒しの真実です。それはこの人が、主イエスに受け入れられた、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」という自分を受け入れてくださった、肯定してくださったからです。主イエスの癒し行為はどこに描かれているか、それは主イエスがこの村を訪れた、誰も近づかない隔離された辺境の村に主イエスが来て下さった、自分たちのところにまで訪ねてくださった、それはすなわち神の救いが彼らの村に、彼らに訪れたということです。そしてこの村を訪れた神の救いと言う出来事が自分の中で起こっている、汚れた者である自分に向けられていると確信することができたからこそ、彼は戻ってきたのです。いやそれどころではなかった、神の救いが今自分に向けられている、主イエスというお方を通して、出来事として今まさに起こっている、その救いの確信から賛美の声が出る、感謝の応答として神様をほめたたえているのです。

それは同じルカ福音書の1章47節から記されているあの聖母マリアが、神様に歌った有名な賛歌、「マグニフィカート」にある彼女の心境と重なるのです。彼女はこう歌いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」はしためである自分は、本来なら目を留められる存在ではない、価値のない存在である。しかし、神様はそんな自分を受け止めてくださった、肯定してくださった、私と言う存在そのものを。私が私であると神様は言って下さった、だから私は全身全霊、すなわち彼女の全存在をもってして主を讃美することができるということなのです。主を讃美するために私は創られたと、私自身が知ることができる、神様そう告白することができる。マリアとサマリア人、彼らの姿から、そういう想いが伝わってまいります。

17-18節で主イエスは残りの9人について尋ねます。9人は戻ってきませんでした。祭司に体を見せて、祭司から癒しの宣言を受け、そのまま社会復帰していったのかもしれません。9人はユダヤ人だったかサマリア人だったのかはわかりませんが、この1人のサマリア人と同じように主イエスは彼らを癒された、汚れたままに彼らを肯定され、受け止めたのです。だから、19節の言葉を、彼らにも聞かせたかったのか知れませんが、主イエスは1人のサマリア人だけに言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主イエスが彼を祝福され、彼を遣わされます。彼は前と同じように、汚れた者かも知れない、しかし彼の賛美は鎮まることがないのでしょう。彼もまた主を讃美するために、主イエスに出会い、新しく創造されたものなのですから。

「あなたの信仰があなたを救った」。主イエスは敢えて、「私があなたを救った」とは言われません。主イエスは、神様の救いを、救いとして、恵みを恵みとして受け取り、賛美するという思いに立ち、救いの確信に立っているサマリア人の存在そのものに語りかけているのです。もちろん、彼を救ったのは神様の御業を示した主イエスでありますが、その主イエスと言うお方を知り、賛美する、感謝するという思いに立てたサマリア人に向けて語っておられるのです。

私たちという人間存在、それはこの世の価値観で決まるものではありません。私たちは様々な労苦を背負って生きて行かなくてはならない、様々な失敗を経験し、打ちのめされる現実の只中で、たとえあなたの存在が否定されたとしても、神様はあなたを肯定される。あなたの存在そのものを、そのままに肯定されます。私たちには全く何の救われる条件なんかない、ユダヤ人もサマリア人も、そして私たちも関係ないのです。主イエスキリストは全世界の救い主、全人類の救い主として、「私は汚れた者」としか告白できない私の、あなたの苦しみ、労苦という暗闇の中に輝く光として、この世に来てくださいました。この光を光の輝きとして知るために、私たちは賛美するものなのです。国や文化の違いの中で、様々な表現をもってして、私たちは賛美しますし、決して目に見える形ではなくとも、心から讃美する者なのです。この賛美を通して、自分と言う存在に喜びを抱き、もはや汚れた者として、自分を責めるのではなく、あなたをあなたのままに肯定され、受け止めて下さった方の御顔を仰いで、歩んでまいりましょう。あなたは主を讃美するために創られたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。