2013年10月20日 聖霊降臨後第22主日 「祈りは聞かれる」

ルカによる福音書18章1〜8節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

自動販売機にお金を入れたら、飲み物が出てきます。お金を入れても出て来なかったら、機械の故障かなと思い、自動販売機の会社に連絡して、入れたお金の分だけ、飲み物を受け取ります。お金を払えば、絶対手に入ります。宝くじを買ったら、大金が手に入るかも知れませんが、確率はとても低い。当たるかも知れないと言う淡い希望を抱きつつも、たぶん当たらないだろうという見切りをつけて、気休め程度に宝くじを楽しむ方が多いかも知れません。こちらはお金を出しても、もうその払ったお金の代償は戻ってこないだろうということが初めから分かったうえで、お金を出しますから、諦めもつきます。明日晴れになれと、神様に祈りますが、翌日は雨でした。祈りが実現するために、何か良いことをしようと行動する、例えばいつもより、多く献金します。いつもより多く献金して祈ったら、翌日は晴れるどころか、雷雨だったなんてこともあります。それとも、祈りとはそういうものではないと自分に言い聞かせて、また祈りますか。そして、また雨だったら、その事実をどう受け止めるでしょうか。

自動販売機も、宝くじも、予めどういうものであるかということが分かっていますから、納得も行きますし、諦めもつきます。しかし、祈りはそうはいかない。全く自分の予想を超えた結果が待ち受けているかもしれないし、何も起こらないかもしれません。祈りが聞かれたということは、自分が祈り願ったことがそのまま実現したということを指すものではありません。祈りは自動販売機でも、宝くじでもないからです。祈りを聞かれる方がおられる、つまり対象がいるわけです。その方が判断されるのです。自分が祈り願ったことがそのまま実現するだけなら、自動販売機や、宝くじと何等変わりがないでしょう。

今日私たちに与えられた聖書の言葉の冒頭で、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と弟子たちに言われます。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われるからには、気を落として祈れない弟子たちの姿、はたまたこのルカ福音書の執筆者であるルカ、またはルカの共同体、そして現代の私たちの姿と重なります。気を落とすということは、落胆するということ、失望とも言えるでしょう。そして絶えずということは常にということ、合間があってはならないと言うこと、徹底的に祈るということです。キリスト者が祈るのは当然という概念はさておき、キリスト者でない方も祈られる方はいます。同じ祈りです。そして祈ると言うことは、信じるということでもあるのです。8節で、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と主イエスが言われるように、私たちの祈りを通して、信仰が芽生える、信仰が与えられるのです。

さて、気を落とさず、絶えず祈るということ。当然のことだと認識しつつも、それが出来ていないと悟るのは、自分自身に対してです。人からどうこう言われる問題ではありません。疲れて祈れなかったり、面倒くさくなったり、時間がなかったり、または祈れる状態にないなど、様々な理由が、お一人お一人にあることですから、気を落とさず、絶えず祈りなさいと、とても人に言えたものではありません。私自身がよく言うことは、何々さんのために祈ってますよとか、それでは祈りましょうとか、そういう言葉です。祈りなさいとは言えない、自分が祈れていないからです。しかし、私たちは主イエスが言われるように、祈りに導かれているということを知ります。パウロがテサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16-17節で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言っているからです。絶えず祈ることは、私たちが祈らなければならないという義務的なことが前提にあるのではなく、何よりも神様が望んでおられるということ、必要としておられるということです。その望みに応えるべく祈る私たちの祈りとは、どういう祈りなのでしょうか。神様が望んでおられるとはいえ、私たちは本当に、気を落とさずに絶えず祈ることができるのでしょうか。

そのことを教えるために、主イエスは2節からたとえを話されたとあります。裁判官とやもめが登場します。この裁判官は神をも人をも恐れぬ者という人物紹介が成されていまして、「不正な裁判官」と言われています。福音書の中で裁判官が出てくるのは珍しいと感じるかもしれませんが、この裁判官の人柄と言いますか、その人物像に驚かされます。裁判官という職業について、(聖書では)申命記にはこう記されています。申命記1章16-17節です。「わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。」裁判は神に属すること、神様の裁きを宣告する者が裁判官の務めであるということです。しかし、今日のたとえ話に出てくる裁判官、神を恐れない不正な裁判官と言われる人です。神様に属しながら、属していない人です。神様の名を借りて、自分本位に好き勝手に裁判の仕事をしている人ということでしょうか。この人がどんな仕事をしていたのかはわかりませんが、最後はこの人がやもめの訴えを聞くこととなるのです。

やもめは夫を亡くした未亡人、イスラエルの社会で生きていくには、他人の援助を必要としなくてはなりません。だから、律法にはやもめに対する配慮が事細かく記されているのですが、今このやもめは危機的な状況にありました。おそらく彼女を陥れようとする人がいたのでしょう、彼女はその人から守ってほしいと、不正な裁判官に懇願します。裁判官は、最初は彼女の訴えに耳を貸さず、相手にしませんでしたが、彼女な執拗な要求に、とうとう骨折れて、彼女の懇願を聞いてやるのです。神をも人をも恐れぬ裁判官ですが、彼女の行動には恐れを抱いたのです。すごい剣幕で裁判官に迫ったのかも知れません。訴えを聞いてくれるまで、引き下がりませんでした。そして、裁判官は彼女に同情したのではなく、致し方なしに、強いて言えば自分の身を案じて、彼女の懇願を聞いたというのです。

主イエスは気を落とさずに絶えず祈ることを教えるために、たとえ話をされたのですが、このたとえ話の中で、どこに「祈る」という描写があるのでしょうか。やもめは祈っているわけではなく、ただ裁判官の下に何度も通って、懇願しているだけです。神殿に行って、神様の御前でお祈りをしているわけではありません。しかも懇願する相手はただの裁判官ではない、不正な裁判官です。まともにとりあってもくれない人です。そんな人に彼女が何度も懇願し、助けを求めたことは、気落ちせずに絶えず行動したということにはなり、結果としては彼女の懇願は聞かれたという展開を迎えたことにはなりました。

たとえ話のあと、主イエスはこう言いました。「それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(6-7節)不正な裁判官の言いぐさとは、もちろん彼女の執拗な行動に対する恐れから、致し方なく引き受けたということを指しますが、7節に「まして神は」と言われます。まして、なおさら、不正な裁判官でさえ、とこう続きます。不正な裁判官でさえ、やもめの願いを聞いたのだから、神はなおさら、あなたのことをほうっておかれるものかと言うのです。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と主イエスは言います。1日中とは限らず、絶えず、叫び求めている。不正な裁判官の下に何度も何度も通いつづけ、叫び求めているあのやもめのように。主イエスはその人を「選ばれた人」と言うのです。選ばれた人と言えば、神の民、ユダヤ人のことを思い浮かべますが、神様が気に入ったからとか、自分たちが魅力的だから、選ばれたということではなく、むしろ、全く魅力的でなく、どうすることもできない困難な状況の只中で、昼も夜も叫び求めている者を顧みられた、神様がただ憐れまれたということであります。

昼も夜も叫び求めている、本来ならそういう状況になったとき、もはや希望など見いだせないと落胆してしまうかもしれません。やもめの前にいる不正な裁判官は、現実世界の絶望を示している、いや、この世界そのものを表わしているのかも知れません。切羽詰まった危機的な状況、すぐ助けが必要だと言う時、いざ頼れるものはないという時があります。諦めずに行動して、いろんな偶然が重なって、なんとか切り抜けたと思えることもあります。でも、それは一時的なことです。根本的な解決になったのかはわかりません。

「まして神は」と言われた時、そうここで神の宣言、救いの真実が語られているのです。神に属する裁判を執行する裁判官は、神に属する選ばれた人かも知れない。しかし、ここに「不正な」という人間の弱さ、もろさが加えられる。限られた状況、はたまた絶望的な状況を生み出している只中で、それでも諦めずに叫び求める私たちの声に、神は憐れまれる。だから、信じて諦めない私たちの叫び声が、祈りとなって、神に聞かれるのです。

気を落とさずに絶えず祈るということが、このやもめのような姿、昼も夜も叫び求めるということに顕されます。声も枯れて、声にならないような魂のうめき声となってでも、助けを求めるということです。人生のどん底の中で、望みなんか全くない只中で、叫ぶ。あのペトロが、湖の上を歩いていた時、彼は主イエスを信じ切れず、疑った瞬間に、湖に投げ出されて、彼が「主よ、助けて下さい」とただひたすら懇願したように。湖の中で、ただもがけばもがくほど、底に沈んでしまうように、あたかも自分の力で何とかしようとすればするほど、事態はよけいに悪化します。自分の力ではもうどうにもならない、その時もがくのをやめ、主に助けを呼ばわる、自らの命を主に委ねる。目に見える現実世界は不正な裁判官かも知れない。私たちの声を聞いてくれるという保証はない。いつになるかわからないという不確定さの現実世界に私たちは生きています。しかし、神はすぐさまペトロに手を差し出したのです。わたしはあなたの声を聞く、声も出ず、祈りにもならないうめきごえを、私は聞き、あなたを憐れむ、同時に、神は私たちの声を望まれると御心を示されているのです。自動販売機も宝くじ売り場もない、ましてそれらを買うお金すらない。お金がなかったら、何もできない、そこがこの世の現実、変わりようのない現実です。しかし、祈りは、私たちの叫びは聞かれる。明日は相変わらず雨かも知れない、明後日も、明々後日も。でも晴れは来る。晴れる時が来るのです。だから、山上の説教の説教で主イエスはこう言われるのです。マタイ6章33節から34節です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

神の国と神の義を求めなさい、この世界で生きつつ、主イエスは神の世界に私たちの思いを向けさせます。私たちは神の国と神の義を求める旅路、信仰の旅路、この世の旅路を、祈りつつ歩んでいます。この肉体に生きて、様々な失敗、挫折、困難と遭遇し、明日の事はわからない中を歩んでいます。人生のどん底に突き落とされる時だってある。頼れるのは、不正な裁判官だけなのかも知れません。しかし、私たちは諦めず、叫び求めてでもこの世界で生きる。世界は私たちの叫びに、充分に耳を傾けることはできないでしょう。不平等、差別が横行しています。しかし、この世界での私たちの叫び声を、主は聞いて下さる。目に留めてくださるのです。だから、「今」を諦めず、明日に希望を向けて、叫びつつも生きていく。その日の苦労は、その日だけで十分なのです。あなたの明日は、主が創り給う明日。何があるのか、どうなるのかわからないけど、主は私たちの声を聞いてくださる、私たちの声、叫びを望んでおられます。主が創り給う明日に希望を抱いて、気を落とさずに、絶えず祈りましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。