2013年10月27日 宗教改革主日 「自由な愛」

ヨハネによる福音書2章13〜22節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

東京分区に連なる姉妹教会の皆様と共に、この宗教改革主日の礼拝を守る時が与えられましたことを感謝致します。宗教改革、これを一言で言うなれば、「信仰の改革」であります。救いは信じることによって、いわゆる「信仰義認」という言葉が特に私たちルーテル教会の骨格となっている教えであります。信仰義認に対して、「行為義認」という言葉があります。行為、行動することによって救われる。中世キリスト教会の風習に従えば、神様に、またこの世に(社会に)「善行を積む」という教えであります。信仰がないがしろにされているわけではありませんが、ルターの生きた時代は特にこの傾向が強かった。今の時代みたいに人々の識字率が高くはなく、人々はラテン語の聖書を読むことが出来ませんでしたから、聖書の信仰に立つこともできませんでした。彼らの救いの指針となったのは、教会という「場」であり、聖人たちの善行でありました。彼らを模範とした生き方、善行を積み、道徳的な生き方が求められていた時代の中で、宗教改革は起こりました。しかし、宗教改革は、それらの風習を真っ向から否定する改革ではありませんでした。そうでなければ、人々があれだけ熱狂したことにはならなかったはずです。善行を積み、道徳的な生き方が求められるというのは、1つの秩序です。この秩序が崩壊しかけていたということです。その中の一つで、教会の聖職者たちの堕落ということがあげられます。有名な贖宥状(免罪符)の問題です。これもひとつの問題です。生涯において、善行を積めず、早死した者は、その罪の故にそのまま天国に行くことはできない(煉獄思想)という教えの背景から、教会が発行したこの贖宥状を買えば、先に死んだ者でも、罪が免除されて、天国に行ける、救われるというものです。お金で解決されるということです。明らかに商売目的でこの贖宥状が発行されていた時に、有名な「95箇条の提題」がルターによって、1517年10月31日に、ヴィッテンベルグの城教会に張り出され、人々に大きな反響を及ぼしたのです。ですから、罪が赦される。救われるということを真剣に求め、神学的な論争にまで発展したのが宗教改革であり、その過程の中で、「信仰によって救われる(罪が赦される)」信仰義認という教理に至ります。それはまた行為義認の崩壊と言いましょうか、人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はなく、救いはただ神様からの賜物であり、先行する恵みによってのみ確かなものとなる。それを信じるということです。

さて、行為義認の崩壊とは言え、信仰義認は行為、行動するということを否定しているわけではなく、むしろ、信仰と結びつくということであります。今日の第2日課のガラテヤ書5章6節で、パウロがこう言っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」愛の実践を伴う信仰であるとパウロは言うのです。善きサマリア人の譬え話に見られるように、倒れた者のそばに近づき、介抱するという行為が愛の実践ということですから、信仰は愛の実践と言う行為と結びつくのです。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章1節から2節ではパウロはこう言うのです。「たとえ、人々の異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」。山を動かすほどの完全な信仰を持とうとも、愛がなければ無に等しい、すなわち信仰はないと言うのです。信仰義認と言って、信じる、信じると言って、熱意だけはあっても、実際には何もやらない、行動しないということは、贖宥状(免罪符)を買って、信仰を得るということと何等変わりがないでしょう。愛の実践を伴う信仰、たとえ小さい働きでも、私たちは出来る限りのことをやっていく、実際に行動する。救いはただイエスキリストの十字架と復活に示されていますが、十字架によって赦され、復活するということは、新たな人生の歩みをスタートさせるということ、復活とは「立ち上がる」という意味だからです。立ち上がって、行動するものとして、愛の実践を行うということは信仰であります。

とはいえ、信じるということには、多くの誘惑、敵がつきものです。その中で、真の誘惑、敵は自身の内面に潜んでいる「無関心」というものではないでしょうか。行動に移さない、愛が伴わない信仰の誘惑が、常に私たちに向けられています。

本日ご一緒に歌いました讃美歌365番の1節の歌詞に「愛なる御神にうごかれて、愛する心は内に育つ」とあります。愛なる神様であるから、愛する心が与えられる。愛と結びつく信仰ということであれば、愛する心というのは、信じる心(信仰)とも言えます。私たちが立ち上がって愛の実践を行う前に、神様がうごかされる。私たちの思いが、心が動かされて、私たちの中に愛の実践を伴う信仰が起こされる、愛が育まれるのです。どのようにして私たちを動かれるか、それは何よりも御言葉であります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられる。それがこの礼拝の場、キリストの体である教会において、御言葉を通して、神様は私たちを動かされる、そして私たちの中に立ち上がる力、愛が育まれるのであります。

御言葉を通して、愛なる神様が私たちを動かされる、しかし、今日の福音は、愛なる神様と言う姿には見えない神様、怒りの神様が、主イエスを通して、現されているような気がいたします。縄で鞭を創り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と真に激しく怒っておられます。この時、ユダヤ人の過越し祭が近づいていたので、エルサレム及び、エルサレム神殿には多くのユダヤ人、巡礼者、外国人が集まり、あたりは賑わっていたことでしょう。主イエスが弟子たちと一緒に神殿に入られた時、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になられました。牛や羊や鳩は神様への供え物として、両替は、ユダヤ人の銅貨に両替をして、そのお金を神様に捧げるために、それぞれ必要なものでした。しかし、主イエスは怒り、とても過激な行動に出たのです。主イエスはこう言います。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」商売の家、そこにごく自然な人間の営み、人間の生活が描かれていますが、父の家を商売の家としてしまう人間の思いの中に、人間が抱く神の像があります。祝福の神、恵みの神、愛なる神といった、「人間の願望が描かれる神」がそこにおられ、呪いの神、怒りの神、裁きの神という神の像を排除する。神様が共におられるから大丈夫という安価な神の像、御利益的な神の像が造られてしまう時、私たちは真の神礼拝を忘れ、信じるという信仰に立てなくなるのではないでしょうか。

主イエスの過激な行動に対して、無論ユダヤ人たちも怒っていたことでしょう。「こんなことをするからにはどんなしるしを私たちに見せるつもりか。」何か力強い奇跡でも起こせるのかと主イエスに迫っています。主イエスは「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」と言われ、それが「ご自分の体の事だったのである」と弟子たちが理解したように、ユダヤ人たちのいう神殿と主イエスのいう神殿というのは違うことであるというのは明白です。

主イエスの怒りは、「商売の家にするな」という人間たちの都合の良い神の像をかかげる罪に対してのものですが、主イエスは「自分の体である神殿に対して「この神殿を壊してみよ」、「壊せ」とまで彼らに迫ります。自分の体である神殿の崩壊、すなわちここに十字架の死が、十字架の贖いが示されている。神の怒りを御自身に向けて語っておられるのです。

同じヨハネ福音書で、このすぐ後の3章16-17節で、主イエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と、神様の御心を語りました。神様が世を愛されているがために、この世を救いたい。そのために、独り子が与えられた。この独り子なるキリストが、どのようにして世を救うのか、それこそ「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」というメッセージであります。三日で建て直す。つまり復活するということ。主イエスの十字架と復活において、世を救うという愛なる神様の御心を、主イエスは語っておられるのです。

贖宥状における罪の赦し、救いがお金で得られるという人間の描く神の像が造られることによって、私たちは信じるということをしなくなります。不安や悩み、困難が御利益によって、立ち消えるものなのでしょうか。人間の行為(善行)によって、神様の救いが確かなものとなる保証はないというところに立つのでないならば、私たちは父の家を商売の家としてしまうのです。

46年かけて造られた彼らの立派な神殿が数十年後に、ローマに攻められて完全に崩されてしまうように、人間の営み、この世での生涯は、限りがあります。商売の家としてしまう父の家はいづれ滅びますが、聖霊によって建てられている教会、父の家であるキリストの体は滅ぶることはないのです。主イエスが言われる神殿は、46年という年月をかけて造られた目に見える父の家(教会)を越えて、そしてエルサレムから弟子たち、またパウロを通して、世界に、そして時代を超えて、今の私たちが集う教会へと続いている永遠の家であります。そこには教会を建てられた信仰の先達者の思いが詰まっている場でもあります。主イエスの御体に集う自分たちもまた、キリストの十字架と復活によって、贖われ、立ち上がった者であり、自分たちはこのキリストの御体に留まってこそ、真の神礼拝を体現し、信仰と愛を持って、日ごとの歩みが成されているという感謝の思いに立ち続けてきたことでありましょう。彼らの体験が生きた説教として、国と時代を超えて、語り続けられている。そこにキリストが現され、キリストの御体が示されています。

日毎に私たちの思い(罪ある思いから)を変えて下さる出来事が、この礼拝の中で起こっている。父の家で起こっているのであります。「商売の家とするな」、この神様の怒りは、真に愛が伴わない信仰の誘惑に陥ってしまう私たちの自覚へと向けらえています。しかし、ここを商売の家とし、自分たちの願望通りの神の像を立てるといった安価な救いにすがるのではなく、神様の怒りを顕しつつも、その根本にある私たちへの愛を示して下さった主イエスの十字架と復活という真の救い、確かな救いを御言葉から聞き、受け止め、そしてその救いを宣べ伝えるために、愛の実践を伴う信仰に生きることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。