ヨハネによる福音書15章1〜17節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日は全聖徒主日の礼拝を守っています。教会の伝統では、11月1日が「諸聖人の日」として守られていますが、「聖人」という概念は、16世紀の宗教改革以前の教会(カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人(聖人崇拝)を指します。宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖人(聖徒)であると主張したので、プロテスタント教会では聖人崇拝と言う信仰はなく、ルターが言うようにキリスト者は全て神様の御前において「義人であり同時に罪人」でありますから、人間の善行や働きによって、信仰者としての区別が成されるという概念はないのです。
さて、この全聖徒主日礼拝におきまして、私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、お祈りを致しますが、召された方はどうなったのかという疑問があります。本日礼拝後に地下納骨室の祈祷会で読まれます聖書の箇所でもありますが、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とパウロが言いますように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されています。
では、私たち日本人にとって極めて重大なことでありますが、洗礼を受けずして亡くなられた人、キリスト教以外の葬儀でお葬式をした人はどうなるのかという問いがございます。教会は長年この問いに、明確な答えを見出すことはできなかったそうです。ですから、クリスチャンでも牧師でも、答えるのに苦悩するということがよくみかけられます。ただ一つ確実に言えることは、私たちが答えようにも、人間の側には答えを知るということは事実不可能なことであるということでありますが、「答え」ではなくて、「信じる」ということ、「委ねる」ということが、ひとつの答えであると言えます。テモテの手紙Ⅰ2章1-4節にこういうことが記されています。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」4節にありますように、すべての人々が救われるということを神様は望んでおられるということ、そのために1節で願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさいと聖書は記しているのです。「執り成し」とあるように、神様にお委ねするということであります。カトリック教会では、第2バチカン公会議において定められた文書である教会憲章第16条に基づいて、次のように理解しています。「彼らは、「まだキリストの福音と教会に出会っていないので神を知らないが、誠実な心を持って神を探し求め、自分の良心を規範として神の意志を生きてる人々」なのです。神は、彼らの救いに対して必要な助けを与えてくださいます。ここで「自分の良心を規範として」とありますように、その故人の良心に神様は働きかけ、導いてくださるということであります。
ですから、死後において、キリスト者であったからどうなったか、キリスト者でなかったからどうなったかということを認識するのではなく、私たちが本日この全聖徒主日の日を守るということは、キリスト者であろうとなかろうと、共に愛する故人を覚えるということにおいて、故人がただ神様の御慈しみと愛のご支配の下におられるということに委ね、信頼して、祈りの時を持つということなのであります。しかし、それだけではありません。愛する故人の信仰、またその支えを通して、今を生きる私たちの歩みについて、神様は御言葉を通して、私たちに語りかけておられるのであります。
今年の全聖徒主日に与えられた福音は、主イエスのぶどうの木のたとえ話であります。5節で主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、信仰者たちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結ぶことができる、木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。このたとえ話はわかりやすく、多くの人に愛されている箇所でありましょう。主イエスという木にただ枝として繋がっていれば、実を結んでいられるという安心感がある、また豊かな人生を歩むことができる、なんとなくそんな思いを抱くからであります。しかし、このたとえ話の冒頭は、主イエスと信仰者との関係ではなく、神様と主イエスとの関係から記されています。1節を見ますと、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とあるように、主イエスがまことのぶどうの木、父なる神様がその木を植え、養い、育てられる農夫であるというのです。「まことの」というからには、特別な意味が込められています。主イエスこそ、神様の御子として、神様の御心をこの世界に示されるために遣われた救い主、まことのぶどうの木であるということ、その枝に繋がるということを通して、私たちは父なる神様からの恵みを知ることができるということなのです。
さて、2節で主イエスはこう言うのです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と。主イエスというぶどうの木に繋がっていれば豊かな実を結ぶ、安心だと思っていた思いがここで崩されるのです。「実を結ばない」ということが起こりえる、そうすると父なる神様である農夫がそれを取り除くというのです。5節の言葉と矛盾しているのでしょうか。主イエスに繋がればと言いますが、主イエスに繋がるとは具体的にどういうことなのかということがはっきりしていないと、ただ単に、絶対に実を結ぶ、安心だという思いを抱くだけで、あたかも何か御利益的な思い、都合のいい神の像を人間が抱いてしまうということではないでしょうか。主イエスに繋がるということは、その枝が取り除かれるという前提を含んでいるのです。しかし、2節の後半には「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と言うように、実を結ぶものは、より豊かに実を結ぶことができるように、農夫である神様が手入れをしてくださるというのです。そう聞きますと、あたかも実を結ばない枝と結ぶ枝という2種類の存在があるかのように、私たちもその2種類の内のどちらに属するのかと不安な思いを抱くかと思います。しかし、ここで農夫が実のならない枝を取り除くということは、神様が罪を取り除くということに示されているのです。神様がその罪なる枝を取り除き、より良い実を結ぶことができるようにと、手入れをなさるのです。ですから、罪ある枝、罪なき枝という2種類の枝があるのではなく、全て罪ある枝、そのままでは実を結ばない枝という私たちの存在があるのです。そこから手入れをしてくださる、それはどのようにしてかと言いますと、3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」とあるように、わたしの話した言葉、すなわち御言葉によってということです。清くなっているというのは、2節の手入れをなさるという動詞と同じ言葉が使われています。2節の後半を口語訳聖書で読みますと、「手入れしてこれをきれいになさるのである」とありますように、神様が枝である私たちを、御言葉を通して清めてくださるというのです。それが「洗礼」に顕されているのです。そう、私たちの交わりは、まさに主イエスに繋がる枝のように、御言葉によって実を結ぶ者たちの群れであります。御言葉が聞かれるところに、キリストがおられ、私たちはその証人として、キリスト者、聖徒としての歩みを成しているのであります。ですから、先に召天された方々だけでなく、地上に生きる私たちもまた、聖徒としての歩みに神様から招かれている。地上に生きる者も御国におられる方も、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、繋がっているのであります。
パウロが「罪の報酬は死である」と言ったように、私たちは今ここに連なる召天者の皆様を偲びつつ、私たちもまた地上での生涯を終える「死」をいずれ経験致します。農夫が枝を取り除かれるかのように。しかし、農夫である神様はより豊かに実を結ぶようにと、私たちを清くしてくださる、手入れをしてくださいます。死の先があるのです。より豊かな実を結ぶという復活の実に与ると言うことを、神様はこのたとえを通して、私たちに語っておられます。それは何よりもこの主イエスという真のぶどうの木に繋がるということを通して、私たちがこの主イエスの十字架と復活を仰ぎ見ると言うことに、神様の救いが私たちに語られているのです。主イエスは十字架の死から復活という希望を私たちに示されました。死が終わりではない、死の先にある復活という希望のメッセージを、この聖書の御言葉を通して、また先に召された信仰の先達者たちの証しを通して、今を生きる私たちに伝えています。そして、良い実を結ぶ、それは人生における美談、成功話ではなく、あなたの人生が、破れ多く、困難にさらされつつも、真に生かしたもう神様の慈しみの中において生きる、生きているというあなたの存在自体がこの豊かな良い実、美しき実であるということであります。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。主イエスに繋がり、真に私たちを生かしたもう神様の恵みに生きる時、私たちはこの世、また自分を基準にした価値観に縛られず、与えられた命をあるがままに生きるという明日を見出して、今を精一杯に歩んでいく。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」救いは私たちが求める以前に、神様の先行する意志に基づくのです。主があなたを、ぶどうの木に繋がる枝に招いています。愛する故人の救い、故人との結びつきは、主イエスと言うまことのぶどうの木を通して、地上に生きる私たちに、真実な出来事として、聖書は証ししております。そして、私たちは神様が招かれるこの礼拝を通して、この真実を体現しているのであります。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。