2013年11月10日 聖霊降臨後第25主日 「あなたが必要だ」

ルカによる福音書19章11〜27節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「ムナ」のたとえ話が本日の福音として与えられました。主イエスがこのたとえ話を話された理由は、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」と11節で言っています通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。彼らは神の国という救いを、主イエスのお姿とその行為に期待していた人たちでした。具体的に言えば、自分たちの国を支配していたローマ帝国を、メシア、すなわち救い主として来られた主イエスが力と知恵を持って滅ぼし、ローマ帝国からの圧政から解放をもたらしてくれるという期待を抱いていたということです。それは目の前にある困難、労苦から解放してくれる者への期待、私たちも抱く期待であります。そして思惑通りに事が進み、解決すれば良いのですが、それが期待していた結果とは大きく異なりますと、期待が裏切りに変わり、果てには憎しみを抱いてしまうことでしょう。

主イエスがこの地上に来られた目的は、今日の福音の前の箇所であります10節の言葉に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエス御自身が言われている通りです。人の子は救い主、主イエス御自身です。そしてここでは、徴税人ザアカイの物語が記されています。神の国がすぐにでも現れることに期待していた人々は、徴税人ザアカイのことを「罪深い者」であると認識していました。罪人として、人々の前に出ることが出来ず、木に登っていたザアカイは、主イエスにお声をかけられ、木から降りて主イエスの御許に行き、主イエスの要望(ザアカイの家に泊まる)に応えて、自分の家に主イエスを迎え入れました。主イエスは彼の家に救いが訪れたことを宣言します。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。ローマ帝国からの解放を期待する人々の価値観は、この世の価値観、彼らから見れば、律法に生きる価値観、神様の前に信仰深く正しく生きる価値観であります。それは自分たち人間を基準とした価値観、すなわち、勝ち負けがあり、優劣における人としてのステータス、結果ありきの世界、実力のある者が生き、無き者は死ぬというこの世の常であります。私たちもその世界に生きているのです。そして私たちも、この世界で時に自分を失います。愛されない、受け入れられない、必要とされない、そういったことを経験しますし、今そういう状況にある人との出会いが与えられているのです。主イエスは私たちを、そういった人たちを尋ね求めます。力でも知恵でも理屈でもない、それらを越えた真の価値、生きる価値に救い主は私たちを招くのです。

さて、たとえ話に入りますが、ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。

国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡り、最後に王様は、自分を拒絶していた国民を打ち殺そうとするのであります。なんとも後味の悪いお話という印象を持ちますが、王様が出てくるこの譬え話の後に、28節からは、主イエスのエルサレム入場のお話が続きます。ここでも王様が描かれています。それは立派な馬に乗っている王様としての主イエスのお姿ではなく、みすぼらしい子ロバに乗った、とても王様とは思えないような姿として描かれている主イエスのお姿がそこにあります。マタイ福音書では、この主イエスのお姿を「柔和な王」という表現が預言者の言葉から取られています。ですから、一見すると、続くふたつの物語に出てくる王様は別々の人と言うイメージがあるのですが、ルカ福音書がなぜ、このエルサレム入場の前に、このムナのたとえ話を記しているのかということを考えますと、このたとえ話に出てくる王様もまた、主イエスのお姿と重なってくるからであります。しかし、国民から嫌われ、3人目の僕を叱責して与えた1ムナを没収し、挙句には自分を嫌っていた国民を打ち殺そうとする王様の姿の中に、主イエスと言う救い主、柔和な王様というイメージをどこに彷彿とさせるのでしょうか

主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声で迎えた人々は、後に主イエスの教え、行為に失望を抱いて、主イエスを憎みます。主イエスは捕えられ、茨の冠を被せられ、その頭の上には「これはユダヤ人の王」という皮肉を込めた札が掲げられました。そして十字架につけられ、殺されます。たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。しかし、最後の27節で、王様は彼を憎んでいた人々を打ち殺そうとするのです。主イエスとはやはり違う王様だと思うのですが、27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。

王様は僕たちにムナという賜物を与えました。国民の憎しみの目、拒絶感、嫌悪感という鋭い眼は、僕たちにも向けられています。迫害という目を向けています。与えられたムナで利益をあげるということは、迫害の目を向けている国民たちに、この世に出て行くことです。挫折、失敗、困難の連続、そして殉教を経験したことでしょう。しかし、3人目の僕はこの世に出て行きませんでした。国民から憎まれていた王様を恐れたというよりは、それはあたかもペトロが人々の目を恐れて、主イエスを見捨てたかのように、この僕もまた、自分に対する国民たちの目、この世を恐れた故に、ムナ(賜物)を隠し、王様の僕としての姿を隠していたのかもしれません。3人目以降の僕にも、そういう人がいたのかもしれませんし、私たちもまた、この僕の姿と重なるのかもしれません。しかし、王様は10人の僕全員にムナを与えられました。3人目の僕に対しても同じように与え、この僕が王様にどんな思いを抱いていたとしても、王様はこの僕を必要とされたのです。

主イエスは失われたものを捜し求めて救われる方です。様々な動機がありますが、この教会に導かれ、この礼拝に招かれた私たちもまた、うしなわれたものであり、主イエスによって捜し求められ、見出されたものであると言えましょう。主イエスもこの王様と同じく、私たちに「ムナ」という賜物を与えられます。このムナを用いて、この世に出て行くことを命じます。このムナという賜物は人それぞれの「才能」とも言えますが、このムナは、もともとは10人の僕全員に、そのまま与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのであります。

私たち全員に与えられたムナという賜物、そう、これは「教会」であります。教会という共通の賜物、神様から与えられた教会を通して、私たちの群れは繋がっているのです。失われた者を捜し求め、救いの御手を主イエスが指しのばされたように、教会もまた主イエスキリストの御体として、救いの御言葉を伝える、伝道していく群れであります。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会が与えられた、教会に与えられたミッションに生きる私たちの姿が、このたとえ話に顕されているのです。1人目、2人目の僕の姿、教会の姿は、教会伝道の発展を告げているものかも知れませんが、3人目の僕の姿、教会の姿は、神様を恐れると言いつつ、教会内部の組織、伝統に固執し、自分たち人間の笏で教会の秩序を定め、この世の教えに妥協しているというものなのかも知れません。はたまた、伝道の困難さを、時代のせいにしたり、牧師のせいにしたり、信徒のせいにしたりなど、どこかに逃げ道を作ってしまっている教会の姿があるということも受け止めなくてはならないでしょう。ムナという与えられた教会を布でくるんでしまうかのように、教会が教会としての姿に立てなくなるという出来事を、私たちは歴史から学んでいます。「銀行に預けて、利子を得なさい」というこの王様の言葉、主イエスの言葉は、どんな状況にあっても、私たちの教会を必要とされ、広い視野を私たちに与えます。誤解を受けやすい極端な例でありますが、この言葉は収益事業についても考えさせられることであります。決して収益事業を奨励するということではありませんが、それを真っ向から否定するのではなく、例えば、その利益を献金するという用い方も考えられますし、その利益で、いずれは新しい会堂を建てて、新たな伝道の基軸とするという可能性も考えられるわけです。

主から与えられたムナという教会は2000年の歴史を歩んでいます。私たちはその限られた時代で教会に生きています。教会のミッションを背負っています。しかし、この礼拝に招かれるごとに、思い越してください。あなたと主イエスとの出会いを。主に信仰告白された御自分の揺るがない決断は、主があなたを捜し、必要とされ、あなたを救いに招き入れたという神様の恵みに先行するということです。そして、今も絶えることなく、あなたに注がれているということ、そして私たちの群れを結びつける教会に注がれているということを。そして、主イエス自ら投げかけられた神様の裁きの言葉を、御自身の身に受けられた主イエスの十字架の救いに生かされているという真実に生きる私たちの群れである教会は、キリストという真の王の再臨を、希望をもって待ち望む群れであるということを祈り願います。私たちはこの真の王様を、真に恐れつつ、喜びを抱き、恐れを抱かず、柔和な方であるという信頼をもって、心を開いて、このキリストを迎え入れれば良いのです。たとえこの世が求めている教会の姿でなくとも、その求めにただ妥協するのではなく、主は教会を、私たちを必要とされるが故に、主はムナという賜物を日ごとに与え続けてくださる、その信頼に立ちづけていくことができることを願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。