2013年11月17日 聖霊降臨後第26主日 「生きている者の神」

ルカによる福音書20章27〜40節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音は、サドカイ派と言われる、ファリサイ派とは異なるイスラエルの宗教的権威者たちが「復活について」主イエスに尋ねるところから始まりますが、彼らは復活について関心があり、知りたい、学びたいという意図をもっていたわけではなく、復活を「否定」していたのでありました。彼らは尋ねます。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』彼らが持ち出した内容は、結婚についての掟ですが、どちらかと言えば、家を存続させるということに焦点が当てられています。そして、サドカイ派の人たちは、7人の兄弟のお話をします。お話の結論は、ひとりのお嫁さんがこの7人の兄弟全員と結婚しますが、結局どの兄弟の夫との間にも子宝に恵まれず、その後7人の兄弟とお嫁さんは死んで、その後もし全員復活したら、このお嫁さんは誰の夫になるのかということです。お話の内容から見て分かるように、彼らにとっての復活とは、現世における掟や常識、価値観といったものを判断基準として、考えていることです。ですから、当然矛盾が生じてくるわけです。この矛盾をイエスよ、あなたはどう答えるかと、彼らは訪ねているのです。そもそも彼らは復活を否定しているのですから、7人の兄弟とお嫁さんがもし復活すれば、矛盾が生じてくると考えるわけです。

私たちも復活について考えることがあります。復活というよりも、「死後の世界」についてと言った方が、現実味があるかもしれません。そう、私たちは死を迎えるということを知っているから、その後の状態について関心を持つのです。不安な思いから、そう訪ねたくなると言う思いもあるでしょう。しかし、復活について考える、関心を持つということは、いずれは死を迎えるという先の出来事に対することだけでしょうか。先ほどのサドカイ派のお話の中で、彼らにとっての復活という出来事の認識とは、現世における掟や常識、価値観といったものを判断基準としているということに触れました。7人の兄弟も、ひとりのお嫁さんも、モーセの律法、結婚の掟に従っていることは明らかですが、お嫁さんは夫の間に、子宝に恵まれず、夫と死別し、夫の弟とも結婚し、子宝に恵まれず、夫と死別し・・・ということを7回も繰り返し、その都度悲しみや苦しみを背負わなくてはならなかったでしょう。結婚というよりも、跡継ぎを設けるということに焦点が当てられている、そのために、このお嫁さんはこの掟の犠牲になっているという見方もできます。夫との死別、子宝に恵まれないという悲しみ、苦しみと言う小さな死を彼女はその都度経験しているのです。そして、サドカイ派の人たちは、復活後のお嫁さんの相手は誰かと言う目線、掟の目線にしか立っていないのです。そのような目線でしか見られない彼女の存在とはいったい何なのでしょうか。彼女の生きざまは、跡継ぎを設けるだけの伴侶としてしか、認識されないのでしょうか。彼女からしたら、この世での悲しみ、苦しみを背負いつつ、尚、死の延長線上に、それが続くと言う苦痛を味合わなくてはならないのです。そういう復活があるとするなら、彼女こそ復活を否定するでしょう。そういう復活とは、サドカイ派の人たちの目線に立った復活、彼らの常識、価値観を軸にしたものです。復活があるならば、そういったこの世の、そして今の自分の悲しみ、苦しみから解放されたい、彼女も私たちもそう願います。

ですから、復活について考える時、それはただ死後の世界について考えるだけではない、今の私たちの生の歩みに大きく影響してくるのです。今の自分の人生を重ねるのです。現状維持を死後に望むか、それとも新しい人生を復活に求めるか。それともはなっから復活を信じないで、生の消滅を望むか。人それぞれ思いがあります。

主イエスは彼らサドカイ派の問いを一蹴します。この世での掟と、次の世での掟とは全く質的に違うと言うのです。死者の中から復活した者は、めとることも、嫁ぐこともない。この人たちは死ぬことがなく、天使に等しい者、復活に与る神の子であると。復活、それは主イエスが言われるように、この世の延長戦ではありません。黄泉がえりであって、蘇生するということではないからです。蘇生した肉体はまたいずれ死を迎えるからです。人間の常識、価値観も同じく、その考えが復活後に影響する、続くということではありません。そして、復活の出来事は、私個人の出来事ではないということを主イエスは言います。神の子とされるということです。神様の御業が働く、それはなんとなく理解できても、それだけではない、神の子という神に属する者として、永遠に生きるということです。もはや死ぬことがないからです。37節で主イエスは出エジプト記3章に記されていますモーセの柴の箇所を引用して、死者の復活について言います。神様はモーセに、モーセの遠い先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブ、彼らの名前をつけて、モーセに語りかけたと言います。そして38節で「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と主イエスが言われた時、モーセに語りかけた神様は、先祖と同じ神様ということだけでなく、生きている者の神であるということ、すなわち神様にとって、アブラハム、イサク、ヤコブは生きている者であると言っているのです。神様は死んだ者の神ではないというのは、そういうことです。神様によって、彼らが生きて神の子とされているが故に、神様は生きている者の神様なのです。そして「すべての人は、神によって生きているからである。」私たちに与えられた命、人生は神様から与えられた賜物、恵みであるとストレートに理解できますが、そういうことだけを主イエスはここで言っているわけではありません。口語訳聖書には「人はみな、神に生きるものだからである」と記されており、塚本虎二という人の個人訳では「神に対しては、すべての者が生きているのだから。」と記されています。神に生きる、神に対して生きる、それは神様との関係において、交わりにおいて生きるということです。ただ神様から生かされているということではなく、神様が私たちに関わって下さるという真実において、私たちが真に生かされているということを知るのです。

創世記には、神様がこの世界を造られた時、人間は神様と同じ形に造られた、すなわち神様の似像として造られ、命の息を吹き込まれて、生きるものとなったということが記されています。神様と人間との関係は創造主、被造物ということに由来します。私たちはただ造られて、生きているだけの存在ではなく、神様から人格を与えられ、愛する者として、この世に生を頂いたのです。自由意志も与えられました。その結果、人間は悪を引き起こします。悪の問題、悩みは尽きません。神様から離れて、好き勝手に罪ばかり犯す人間に対して、神様は怒り狂うのではなく、その怒りに心を痛められるのです。自身が苦しむ神として、人間と関わられる神であります。

私たちはまた、生きる、自分が生きているということ、自分の存在というのを他者との関係においても見出します。他者から肯定され、認められ、愛されることによって、私の存在がある。自分の存在が他者からの影響下にあるということを実感します。それはまずごく近しい人、たとえば家族との関係において見出されるのではないでしょうか。その大切な家族の死に遭遇した時、その失ったという悲しみ以上に、小さな死を私たちは経験します。この地上において、愛する家族との関係がお別れという形で断ち切られてしまう、そういうことを経験します。また家族だけではありませんし、死に遭遇するということだけではないでしょう。他者との関係においても、仲たがいし、憎しみ合い、罵り合い、愛を失ったとき、その人との関係が崩れる、その人から見て、自分の存在が消される、すなわち小さな死を経験するのです。

他者との関係、交わりにおいて、主イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われます。それはお互いに生きるからであります。お互いの存在を尊重し、愛し合うことにおいて、自分の存在が見出されるのです。しかし、私たちはこの地上での生涯を生きる中で、人と人との不和、お互いの存在を消し合うほどの争いを引き起こします。愛する者の死を経験します。

しかし、神様は生きている者の神、私たちを神の子として迎えて下さる神様です。他者との関係、交わりにおいても、私たちの只中で生きておられる神です。そのことが、あのクリスマスの出来事、救い主であるイエスキリストがこの世に遣われたということ、それはまた、聖書によれば、この救い主が私たちの間に宿られたということです。他者との関係、交わりにおいて、主の平和を与えて下さる方が、ご降誕なされた。2人、3人いるところに私はいるとおっしゃってくださった方です。それは地上における他者との関係、交わりに尽きません。先に神様の御許に召された愛する者との関係、交わりも、神に対して生きるもの同士であり、結ばれているのです。目には見えなくとも、神様に対しては全ての者が生きている。もはや死ぬことがないという約束の言葉がある、その約束の御言葉が私たちに告げているからです。ここに復活の希望があります。

日毎に、小さな死という悲しみ、苦しみ、痛み、挫折を経験し、死後の世界について問う私たちの姿があります。そのような私たちが生きるこの世に、主イエスキリストが救い主として来られた、生きている者の神を私たちに顕されるために、来て下さった。私たちの只中に宿って下さったのです。そしてご自身の十字架の死と復活の命を通して、神様と私たちとの新しい命ある交わりをへて導いてくださいます。この主イエスキリストは死に打ち勝ったのです。小さな死を迎えている者、またはこの世の価値観や常識に縛られ犠牲となり、真の生を見失っている者を、この死の勝利者キリストを通して、神に対してあなたは生きている、わたしは生きているあなたの神だと言って下さる。
だから私たちは自分の存在について、生きる価値について卑下する必要はないのです。私たちを真に生かすのは、この唯一の神、人は神に生きるものだからであります。肉体的な死をいずれは迎えようとも、それはこの世の延長戦ではない。神の子とされ、天使のような存在として、神に生きるのです。神に生きる、それは神に従ってということです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。